2 彼
自然の轟きを感じる。
高々と聳える岩と岩の間から一筋の水が、光と共に流れる。
水は下の石にちょろちょろと打ちつけ、小さな飛沫を上げる。
木々の葉は風に揺られて擦れ合う音を鳴らす。
動物の鳴き声も人の声も聞こえず、辺りは自然の音に包まれている。
木漏れ日が土を照らし、葉を照らし、そして歩き続ける二人の人間を照らしている。
ここは山だ。人間も住んでいない。
その山で、二人は荷物も持たず、歩いているのだ。
特に目指す場所もなく、ただ歩いている。
「綺麗だな」
ただ一言、感情も無い様な平坦な声で彼はそれだけを伝えた。
ただ無心に、進み続けるだけだ。
彼の短い黒髪は風に揺られ、舞い落ちた葉が幾つかその上に乗る。
その後ろ姿の先に、小さな滝が太陽の光を反射した。
私は彼の後ろにつき、山の中でも辛うじて平坦な土の上を進んでいる。
足首の辺りまで伸びていた雑草を手でかき分けた。腕に幾つか草で切れた傷か見えたが痛みはしない。
「そうだな」
私もそれだけを答えた。
それは最早会話と呼べるような無かった。
二人の間に流れる沈黙はお互い、溢れる感情を押し殺し、感情を整理する為には十分に必要な物だった。
力任せに踏みつけた雑草は簡単に折れる。
それが今の私達の心のような気がして胸が締め付けられる。力をかければすぐに崩れ、もう二度と戻ることはない。
私の細い茎は今、折れかかっている。
茎が無残にも完全に折れ曲がった時、それを「人間」だと言えるのだろうか。
それだけが怖かった。自分が人間ではなくなることが。獣に襲われることよりも、山で遭難する事よりもずっと。
既に春を迎え、落ち葉や団栗が落ちる様な季節でも無いはずだが、何故か茶色の葉や実が散乱している。小さくてつやつやと輝く団栗を、寂しい気持ちに身を任せて踏みつぶした。
から、と音がして団栗は無残にも割れて散った。中からは白い実が顔を覗かせている。
私がそんなことをしている間にも、彼は無言で進んでいた。
滝へ向かって歩く彼の後姿はやたらと大きく見え、頼りない様にも見える。
「綺麗だ」
葉は変わらず揺れている。
私は立ち止った。綺麗だ、綺麗だ、と彼は何回も繰り返した。
沈黙は、感情の整理をつけるのには十分に必要な物だった。その分未来を、彼に考えさせていたのかもしれない。
彼の言葉は何度も何度も繰り返された。
背を向けて、私を置いて歩いていく目の色までが想像できてしまう。
深い悲しみの色。
彼は何を想っているのだろうか。私たちが捨ててきた故郷の事だろうか。捨ててきた命の事だろうか。
いや、そのどれでもないのかもしれない。
彼の世界は私の世界と違うのかもしれない。その世界の極小なる差が、大きなすれ違いを起こしたのかもしれない。
昨夜降った雨の雫が、木の葉から垂れた。
「なぁ」
このまま、自分を置いて何処かに行ってしまう気がして。
呼びかけに返ってくる言葉はなかった。
彼はただ、進んでいく。
「なぁ」
彼は振り返らなかった。他人に涙を流す姿を見せたくなかったのかもしれない。
後姿は緑の木々の中、とても小さく見えた。
自然は、彼と言う人間が確かにそこに存在していることを訴えかける。
やめてくれ、行かないでくれ。私は孤独になりたくない、臆病なんだ。おいていかないでくれ……
「また、いつかここで」
口を突いて出てきたのは別れの言葉だ。
違う、私が言いたいのは別れの言葉じゃない。
「そうだな」
震える声が返ってきた。
違う、言いたかったのはさようならじゃない。
さようならよりも、もっと言いたかった言葉は沢山ある。
「あ……」
情けない声が漏れた。涙は出なかった。
彼は彼方遠くに走り出す。
迷いのない足取りで。
彼には、彼だけの道が見えている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます