第17話 アストレアの天秤
「身分証、真っ当な仕事…それは、本当ですか?」
「本当だ。俺のこと、お前みたいな善人を放っておくような悪い奴に見えるか?」
「……正直、ちょっとだけ見えます」
「アハハ!それは辛いなぁ。まぁそれはさておき、やっと着いたようだな」
車が停まったのは、とある繁華街にある古い雑居ビルの前。
ハザードランプを点滅させたまま、待つことおよそ二分。
メガネをかけた小太りの男が出てきたかと思うと何気なく周囲を警戒した。
安全が確認できたのか、後部座席の扉を三回ノックした。
小太りの男は、無言で一枚のカードのようなものを差し出し、強面の男は同じく無言でそれを受け取った。
そして、車は再び走り出した。
「ゴブさん、と言ったか。改めて問おう。俺の右手には君の身分証、左手には満額の報酬に十万円を追加したものがある。キミはどちらを選ぶ?」
強面の男が手にしている身分証には俺の顔写真が載っていた。先ほど車内で勝手に撮影したものを使用したらしい。生年月日や住所は全く関係ないものだった。
いわゆる、偽造身分証というやつだ。
これもまた悪事であることには間違いない。
しかしこの身分証があれば、これを最後の悪事として新たな人生を始められるかもしれない。
右を選べば身分証が手に入り、真っ当な仕事にも就けるし家だって借りられるかもしれない。
しかし、本当にこの男のことを信用してもいいのだろうか。
ここで受け取らなければ、もう自分の顔写真入り身分証を入手するのは困難だろう。
左を選べば病院でニカ爺が検査を受けられる可能性がある。原因が判明すれば再び元気になるかもしれない。
しかし、治療が必要となれば到底賄える額ではない。
ここで検査をしなければ、もうニカ爺は手遅れになるかもしれない。
ここでの決断は、今後の俺とニカ爺の運命を大きく左右することになるだろう。
きっと一週間、一か月悩んでも明確な決断は出来ないと思う。
どちらを選んでもリスクが伴うし、どちらにも保障はない。
こんな時、ニカ爺ならどちらを選ぶだろうか。
きっと、ワシのことなら気にせんでもいいから、迷わず身分証を選んで一人で幸せになってこいと言うだろう。
俺は知っている。ニカ爺は俺が原因とはいえ、ずっと俺の世話になり続けているのが心苦しいと感じていることを。
だからあえて酷い言葉を投げつけることで、俺に嫌われるよう間違った努力をし続けているのだ。
―――なんだ、簡単な話じゃないか
それなら、俺が選ぶのは……
俺が左手の茶封筒を手にしようとした瞬間、男がサッと両手を引いた。
「おっと、言い忘れていたことがあった」
「今更なんですか?俺は、報酬を受け取ります」
「確か君は『家族に治療を受けさせたいからお金が必要』と言っていたね?」
「はい。だから、すぐにお金が必要なんです」
「そうか、それなら話を聞くべきだ」
「焦らすのはこれで最後にして下さい。話とは何でしょうか」
「俺の仕事を受けてくれるなら、家族の面倒もみてあげるよ?」
その言葉は、強面の男にとって勝負を賭けた必殺右ストレートパンチ。
その言葉は、見事に俺の顔面にクリーンヒットして一発K.O.試合終了。
当面の俺の人生が、この男に委ねられた瞬間になった。
「分かりました。では、右手の身分証を受け取ります。ただし、条件があります。明日中に家族を病院で検査させて下さい」
「……いいだろう。契約成立だ」
安いもんだろう?俺がこの男の仕事を請け続ければ、ニカ爺は治療を受けて元気になるんだから。
今の俺にはニカ爺を治せないけど、この人ならニカ爺を治せるんだ。
迷うことは何もない。ニカ爺のためになら俺はなんだってやるさ。
それに、この男は言ったんだ。俺に真っ当な仕事を与えてくれるって。
俺と男が握手を交わしたところで、さっそく仕事の話が始まった。
「改めて自己紹介する。俺の名前は
「宜しくお願いします。ところで……俺の名前、安直過ぎません?」
「お前はお人好しで世間知らずだからな、全然違う名前にしても咄嗟に言い間違えてボロだしそうなことを考慮して決めた名前だ」
「そういうことですね。分かっ……了解しました」
「そうかしこまるな。あ、そうだお前、字は書けるのか?試しにここに自分の名前、書いてみろよ。ぶっつけ本番で書けなかったらマズいからな」
「あ、確かに。えっと……これで、大丈夫ですよね?」
俺は、遠野さんが貸してくれた
「これなら問題ないな。ところでさっそく仕事の話なんだが、まずは俺の困っていることを解決してもらいたい」
「困っていること……ですか?俺に出来ることならやります」
「俺はな、たくさんの困っている人を助ける仕事をしているんだが、そのうちの何人かが俺から借りた金を返してくれないんだよ。本当に困っちゃってなぁ。だから五部がソイツの家に行って、返してくれって言ってきてくれないか?」
「そんなことでいいんですか?」
「あぁ、そんなことでいいんだ。借りたものは返す。そんな当たり前のことが出来ない奴も世の中には沢山いるんだ。だから、金を受け取る時にはお前からも教えてやってほしいんだ、借りたものは返さないといけないよってな」
「了解しました」
「とはいえ、最初から一人ってのは難しいだろうから、まずは
「ありがとうございます!遠野さん、優しいんですね。さっきはすみません」
「全然気にしてないからいいってことよ。さて、さっそく一件目に着いたから宜しく頼むぞ」
閑静な住宅街にある一軒の古いアパートの前に車を停め、運転手と俺はアパートの二階へと続く階段を上った。
「五部くん、どうぞ宜しくね」
「宜しくお願いします」
今風の髪型をしているが、鮮やかな緑色の髪色が特徴の運転手。
装飾品は身に着けず、シンプルな細身のスーツを着こなしている。
初めてこの人と会話したが、漂わせている雰囲気がとても穏やかで優しそうな印象を受けた。この人とならすぐに仲良くなれそうだと思った。
名前を聞かなきゃと思っている間に目的の部屋の前に到着してしまった。
玄関先には枯れた植物がそのままになっている鉢植えや、濡れて地面に貼り付いている新聞紙の塊、窓枠に掛かった沢山の壊れたビニール傘があった。
あれこれ気をとられている間に、気が付けば運転手の男がインターホンを押した。
名前はあとで聞くとして……まずは、ちゃんと仕事の様子を見て覚えなくては。
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