第13話 始まりの終わりと終わりの始まり

 ひとしきり泣いた後、落ち着きを取り戻した俺は、改めてニカ爺に対する思いを伝えた。

 言語の違いによって正確に伝わらないことなんて分かっている。だけど、ちゃんと言葉にして伝えたいと思ったんだ。


「急にいなくなって、ケガをさせて、ごめんなさい。ニカ爺が止めに入ってくれなかったら俺は罪を犯すところだった。自分が嫌だったことを相手にしようとしていた。言葉が伝わらないからといって、暴力に頼ろうとした自分が情けない。ニカ爺には本当に何から何まで感謝している。あなたは師であり父であり恩人なのだと強く実感したんだ。だから、これからは自分がニカ爺の分まで働くから、どうか、どうかこれからも一緒にいさせてもらえないだろうか」


 ニカ爺は俺の目を真っすぐ見つめ、うんうんと頷きながらちゃんと最後まで聞き届けてくれた。

 言葉の意味が分からなくてもちゃんと伝わっているよと、表情で教えてくれた。



 ―――言葉は『言の葉』


 想いを一枚一枚の葉っぱに乗せて届ける。

 例え意味が伝わらなくても、葉っぱの色や形、香りを通じて想いを伝えることができる。

 俺の想い、ちゃんと伝わったみたいでよかった。


 ―――そして、俺とニカ爺の新たな日々が、長いようで短い日々が始まった。



 朝は日の出と共に目覚め、歩いて空き缶を集めに行く。

 帰って空き缶を潰し、たくさん貯まったら売りに行く。

 できるだけ人間と挨拶を交わし、人間社会に馴染めるよう心がける。

 困っている人間がいれば、できるだけ助ける。


 昼になったらニカ爺とブランチして、午後からはニカ爺に文字や言葉を教わる。

 夕方になったら、可能な限り清潔な服を着て、夕食の買い出しへ出向く。

 時間に余裕がある日は、近くの図書館で本を読む。


 夜になったら夕食の支度をして、ニカ爺と一緒に食べる。

 今日一日の出来事を話し、共有する。

 一日の終わりに今日の収支を発表し、明日に備えて早く寝る。



 季節は秋から冬、そして春を迎えた。どれも初めて体験する季節。

 そんな、何の変化もない穏やかな日々がずっと続くと思っていた。

 俺は、体力には自信があるし風邪もひかなかったし、順調に文字や言葉を覚えられたので、日常的なコミュニケーション程度ならとれるようになった。


 しかし、それと反比例するかのように、ニカ爺の体調は悪化し続けた。

 最初の頃は一緒に空き缶集めに行ったり、顔見知りに俺を紹介するためあちこち出向いたりしてくれた。

 図書館の利用方法もニカ爺に教わったし、俺が失礼を働いた時にはわざわざ一緒に出向いて謝りにも行ってくれた。


 だけど、その足取りは日に日にふらつくようになり、ついには立ち上がることもままならなくなっていた。

 病院に行こう、お金ならなんとかなるからと説得する俺に対してニカ爺は、寒さで足が強張っているだけじゃ、酔拳っぽくてカッコイイじゃろ?と俺が心配しないよう明るく振る舞い、はぐらかし、拒否し続けた。


 ケガは順調に回復し、腕も頭の傷もすっかり良くなっていたのだが、状況は悪化し続けている。俺は出来る限り仕事を早く済ませて図書館の専門書を読み漁った。

 そして、分からないなりに分かったことがあった。

 言うまでもない。ニカ爺の体調不良は脳へのダメージが原因であるということ。


 それは、病院で精密検査をたくさん受けないと原因が特定できないこと。

 精密検査をたくさん受けるにはとても高額な費用が必要なこと。

 その費用は、今の生活をしていては、到底捻出できないこと。

 どうにかしたいけど、どうすればいいのか分からない。

 俺にはあと何ができて、何をするべきなのか。

 あと、何個の空き缶を拾えばいいのだろう。


 この世界では、俺の身分を証明できるものは何もない。

 性別は多分男だけど、出身はどこで、年はいくつで。

 スマホもない。住所もない。それどころか名前すらない。

 今の俺に、何ができるのだろうか。

 日を追うごとに無力感と絶望感が俺の心をじわじわと蝕んでいく。

 しかし、時間は無慈悲に刻一刻と終わりへ向けて秒針を刻んでいく。



 ―――桜のつぼみが目につく頃になった。


 日に日にニカ爺の体調は悪くなり、ついには立ち上がることもできなくなった。

 ずっと横になったまま、動くことができなくなった。

 日に日に口数が少なくなり、言っていることも支離滅裂になった。


 ずっと気分が悪いのだろう、嘔吐することが多くなった。

 自分でトイレに行けないので、俺がいない間に漏らしてしまうことも多かった。

 嘔吐するたび、漏らしてしまうたびニカ爺は、申し訳ない、ありがとうと言ったが、俺はそのたびに心が苦しくなった。どうせなら、俺を罵倒してほしいと思った。願った。



 ―――桜のつぼみが膨らみ始める頃になった。


 その願いはすぐに叶った。

 俺が身の回りを世話するたびニカ爺は、お前さえいなければ、お前のことを助けなければこんな目に遭うこともなかった、早く消え失せろこの疫病神が! と俺を罵るようになった。

 たまに殴られた。だけど、全く痛くなかった。


 俺は、ほんの少しだけ救われた気持ちになった。なってしまった。

 全部、俺が悪いのに。

 代償として償い続けているだけなのに、申し訳なさそうにありがとうと言われるのが辛かったから。


 ニカ爺は俺にたくさんのことを教えてくれたし、与えてくれた。

 だから、俺にとってニカ爺は師であり父であり恩人であることに間違いない。


 しかし、俺はニカ爺に何も恩を返すことが出来ていない。

 それどころか、健康を奪い、時間を奪い、幸せを奪った。

 疫病神と言われて当然だ。



 ―――桜の見頃になった。


 早く、一日も早く、一時間、一分、一秒でも早くニカ爺に元気になってもらいたい。

 俺は決心した。

 他の路上生活者に教えてもらって、身分証なしでも働ける可能性があるという場所に出向いた。

 朝早く出発し、集合場所へ向かう。住宅街の中にある遊具のない小さな公園というか、ちょっとした憩いの場のような広場。

 そこには既に五十人ほどの人達が待機していた。


 五分ほど待っていると、三台の大きな乗用車が停まり、中から強面の人間が降りてきた。

 特に全体への挨拶や指示があるわけでもなく、俺達の方へ近付いたかと思うと、お前とお前、あとお前とお前。と指さした。緊張したが、俺も無事に選ばれた。

 指名された十五人だけが乗用車に乗り込み、指名されなかった人は解散した。


 強面の男が車に乗り込もうとした時、待機していた細身の一人がすがるように強面の男を引き留めようと腕を掴んだが、思いっきり後ろ蹴りされて吹っ飛んだ。

 腹部を押さえ、苦痛の表情を浮かべていたが、強面の男は気にすることなく車に乗り込むと、運転手に出発するよう指示を出した。


 まだその場に残っていた他の選ばれなかった人間は、そんな彼をチラッと見るだけで、哀れむ様子もなく、誰も手を差し伸べようとしなかった。

 俺は、それを車内のガラス越しに見ていることしか出来なかった。


 時刻は早朝5時半。初めての車、初めて見る面々。

 初めての車を堪能する余裕などないまま、東京都内を出発した車は高速道路を通り、一時間ほどで目的地に到着し、周囲に習って速やかに車を降りる。


 目の前には沢山の大きな黄色い重機と、瓦礫の山。

 そして、深さ五メートル、縦横五十メートルほどの大きな穴があった。

 強面の男に指示され、俺達は地上班と地下班に分かれて持ち場に着いた。

 俺は地下班として穴の中に梯子を使って降りることになった。


 今から、何が始まるのだろうか。

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