第5話 一杯の味噌汁

 俺はあまりの事態に気を失いかけた。

一刻も早く満たしたかった空腹、目の前のスープ。 

具材はこれからだろうけど、あの状態でも十分に美味しそうだった。やっぱり味見だけでもしておけばよかった。

 しかし、もうそれは叶わぬ夢。俺は膝から崩れ落ちたままうなだれていた。


 そんな俺の様子を見ていたニカ爺は不思議そうにしていたが、特に構うことなくスープを容器に注いでいた。もう食えないだろあんな状態じゃよぉ。

 生きる希望を失っていると言っても過言ではない絶望状態の俺の横にニカ爺がやってきた。そして、両手に持っている容器のうち1つを俺に差し出した。


 相変わらずニカッと笑う笑顔はとても眩しくて本当に素敵だなとは思うが、今だけは砂漠を照り付ける灼熱の太陽のごとく俺を炙っているだけの厄介者にしか感じられない。要するにウザい。イラっとする。

 このジジイ、持ち上げて落とすようなことしやがって。新手の拷問か何かなのか?

 受け取るそぶりを見せない俺に対して、絶対に受け取るまでやめないぞという気迫でグイグイと容器に入ったスープを笑顔で押し付けてくる。


 時間を追うごとに強まるグイグイ。それに無言で抵抗する俺。

ジジイの行動と表情が一致していないので得体のしれない恐怖を感じる。

 ジジイが折れないなら俺が折れるしかない。いや、だけど食べ物を粗末にする奴は誰だろうと許すわけにはいかない!絶対に負けられない闘いがここにある!


 改めて気を引き締めて万全の防御態勢を示すと、ジジイはあっさりとグイグイをやめて身を引いた。

急なトーンダウンに俺が思わずジジイの顔を見上げると、ジジイの野郎、今度は唇をツンと尖らせて横目で俺を見てやがる。


 あー、いいのかなー、こぉんなに美味しいアタシの特製スープを飲まないなんて、死んだ方がマシなんじゃなぁい?

 アタシが両方とも飲んじゃおっかなー、いいのかなー、早くしないとアタシがぜーんぶ飲んじゃうぞっ(ハート)


 と言わんばかりに俺を挑発してやがる。

押してダメなら引いてみる的なヤツなのだろう。戦術としては正しいが残念だ。

それは完全に逆効果だからだ。

 何故ならジジイ、どういうつもりでそんな仕草をしてるのか知らんがそれは完全にキモすぎるからだ。

 ぶりっこジジイの可愛い仕草に屈するほど俺の癖は歪んじゃいない。

それに便所スープを自ら好んで口にするような癖も持ち合わせてはいない。


 相変わらず屈する様子のない俺を見たぶりっこ便所スープジジイは遂に諦めたのか、最後に両頬をブーっと膨らませた後、俺の横に座って一人でスープを飲み始めてしまった。


 ズズズーッ、ぷはぁ


 コイツ、本当に飲みやがった…

変態ジジイは食事も変態趣味なんだなと思い、ドン引きしながら俺は嫌悪感丸出しの表情でぶりっこ便所スープ変態ジジイを横目に見たが、そこに居たのはぶりっこ便所スープ変態ジジイではなかった。


 そこに居たのは父親のような、兄弟のような、友人のような―――

温かくて優しくて。

 夜空を見上げながら温かいスープを美味しそうに、大切そうに飲んでいる隣に座るソイツの表情は、紛れもなく心を許した間柄でしか見せられない大切な仲間の表情と同じものだった。


 俺は右手を差し出し、スープをくれとぶっきらぼうな表情で要求した。

すると、また一瞬だけぶりっこジジイが現れてウザい表情で勿体ぶってきて俺をからかってきたが、すぐにニカ爺としてニカッと笑いながら普通に手渡してくれた。


 『ズズズーッ、ぷはぁ』


 「クンクン…」


 『ズズズーッ、ぷはぁ』


 「スーッ…ごくん」


 『ズズズーッ、ぷはぁ』

 「ズズズーッ、ぷはぁ」


 ―――すげぇ、うまい。

勝手に俺の頬を伝う温かい一筋の雫。


ゆっくりと味わいながら、噛みしめながら。

だけど、頬を伝う涙の滝と同じぐらい勢いよく全身に染みわたらせていく。


真っ白で角張った石のようなものは、まるで雲のように軟らかくて。

黒っぽい薄皮のようなものは、噛めば噛むほどうまみが広がって。

緑の便所の…(略)は、ほどよく鼻腔を刺激して飽きを感じさせなくて。

気が付けばもう容器は空っぽになっていて。


一緒に見上げた星の少ない夜空。

隣に座るジジイ。

知らない場所、知らない空気。

初めて食った便所の…(略)

俺は、今日のことを一生忘れることはないだろう。


―――ありがとう。ニカ爺。


 出会った人間があなたでなければきっと私は躊躇いもなく殺していたでしょう。

 出会った人間があなたでなければきっと私は躊躇いもなく殺されていたでしょう。


 あなたと出会わなければきっと私は便所の…(略)を死んでも自分から食べることはなかったでしょう。

 あなたと出会わなければきっと私は便所の…(略)を喜んで自分から食べることはなかったでしょう。

 

心の中でそう呟いていると、そんなことなど知る由もないニカ爺はニカッと笑って俺に初めての言葉を教えてくれた。


『み そ し る』


スープを指さし、これは『味噌汁』というスープなのだと教えてくれた。


「い お い う」


『み、そ、し、る』


「く そ じ る」


『み・そ・し・る』


「く そ し ろ」


『み!そ!し!る!』


「み そ し る」


『Yeahhh---!!!』

「Huuuu---!!!」


 すかさずハイタッチからのぶつかり合うかような強烈なハグ。

これはどこの世界でも共通らしい。

俺とニカ爺の言葉が初めて通じ合った記念すべき瞬間だった。

 ―――こうして俺とニカ爺は仲間になった。


 ここがどこかも分からない。

 言葉が通じない。

 敵も味方も分からない。

 村はどうなった?

 コブンは無事なのか?

 トレイターは?

 勇者たちは?

 何も、分からない。

 だけど、復讐心だけは消えることなくこの魂にしっかりと刻まれている。


 考えても何も分からないし、何も変わらない。

ひとまず今日は眠ろう。ニカ爺も眠そうに欠伸してるし。

色々な出来事が起こり過ぎて頭がパンクしそうだ。

けど、だからこそ今は眠ることが重要だ。


 味噌汁で温まった身体がほんのり冷え始めた頃、ニカ爺が小屋に入っていったので、俺も寝るために小屋へと入っ―――!?

俺は小屋の中から思いっきりド突かれて尻もちを突いた。


『#%$、&+!!』


 どうやら、お前は小屋の中で寝かせないと言いたいようだ。

すごい剣幕で怒っているので、さっきまでのギャップも相まってなんだかすごく寂しい気持ちになった。

 まぁ、よくよく考えてみればニカ爺はぶりっこ便所スープ変態ジジイでもあるわけなので、一緒に眠るのは危険極まりないわけで。


 ニカ爺 a.k.a ぶりっこ便所スープ変態ジジイは激怒しながら小屋の中から茶色い板を取り出してきたかと思うと、器用に形を整えて上部だけ開いた箱型に組み立ててくれた。これを使って眠れということらしい。


ありがとうニカ爺 a.k.a ぶりっこ便所スープ変態ジジイ。外は冷えるから助かるよ。

ありがとうニカ爺 a.k.a ぶりっこ便所スープ変態ジジイ。自らの潔白を証明してくれて。

ありがとうニカ爺 a.k.a ぶりっこ便所スープ変態ジジイ。これでゆっくり眠れそうだ。


 ニカ爺が小屋の中に戻っていったことを確認し、俺は素直に箱型の上部が開いているところから、側面を跨いで中に入った。

 上部は四方に開いているフタを使って閉められる構造になっているが、上部を閉めようにも狭すぎて閉められない。

 そもそも、今の状態を傍から見たら状態だから閉めるもクソもない。

しゃがんだ状態で眠るなんて初めての経験だ。ちゃんと眠れるのだろうか?

いや、それでも今は眠るしかない。


 俺は寒さを凌ぐために可能な範囲で四方のフタを自らの首元に寄せて眠りにつくことにした。


 今日は色々あったなぁ。

ぶりっこ便所スープ変態ジジイのヤツ、きっと一人で快適な睡眠をとってるんだろうなぁ。なんだかムカつくなぁ。

あ、そういえばぶりっこ便所スープ変態ジジイって呼んでるけど、考えてみれば俺も『みそしる』を飲んだわけだから、これじゃあ


『チュートリアル戦のボス”オークロードの暴虐王マンヴァイオキングマン”』


じゃなくて


『チュートリアル戦のボス”オークロードの便所スープ変態暴虐王マンベンジョヘンタイヴァイオキングマン”』


とかいう訳の分からない名前になっちゃうんだよなぁ。

そこらへんはちょっとカッコつけて


『チュートリアル戦のボス”オークロードの便所スープ変態暴虐王マンスカッティヴァイオキングマン”』


 うーん。普通に考えてそんな名前で呼ぶヤツ絶対にいないだろ。

っていうか、俺も自分からそんな名前名乗りたくないし、名乗っている間に攻撃喰らって死ぬ未来しか見えん。


 なんて、どうでもいいことを考えていたらいつの間にか眠りについたようだ。

そして、気が付いたらもう薄明かりが射しこみ始めて朝が訪れようとしていた。


 俺は初めての体勢で寝ていたせいで、あまり疲れがとれていなかったこともあり、まだ目を開けることができていなかったが、ニカ爺の方は眠そうな欠伸をしながら小屋から出てきたことが音で分かった。


『Oh My God !!!』


 何を言ってるのか分からないから無視していると、全速力で地面を駆けている音がしたので目を少し開けたタイミングで全身に衝撃が走って俺は吹っ飛ばされた。


 何が起きたのか全く分からず呆然としていると、ニカ爺が俺の肩を揺さぶって頬をひっぱたいてきた。

 人間という生物は、先に起きた方が全力でドロップキックをかまして暴力を振るうという方法で目覚めているのだろうか。戦闘民族だとは思っていたが、これほどとは…正直、驚いた。


 ニカ爺ほどの弱そうな人間であっても、俺ほどの図体を吹っ飛ばせるだけの力を持っているのは脅威でしかない。やはり…殺しておくべきか。

と思ってキリッと睨みつけると、ニカ爺はホッとした表情で俺を見た。


 ん?これ、どういう感情?


 俺が混乱状態で戦意喪失していると、ニカ爺は俺が眠っていた箱を手に取り、足を滑り込ませて見せた。


 あぁ、これそうやって使うタイプの箱だったのね!


 俺は使い方を誤っていたらしい。確かに横向きにして足を差し込めば寒さで縮こまずに眠ることができて快適だ。

できれば胴体部分も肩まですっぽり覆いかぶさりたいけど…まぁ贅沢は言わないさ。


 あぁー、だからニカ爺は俺を見た時、襲撃にでも遭って晒し首にされたんじゃないかと心配してドロップキックをしてくれ…たのか?

 まぁいいや。寒いし眠いし痛…くはないけど、もう起きよう。

まだ日も昇らない薄暗い時間帯。目覚めるには早い気もするが、俺は起きることにした。


 ―――さて、今日からどうしようか。

この知らない世界で、言葉の通じない世界で、俺は生きていけるのか?


 あの勇者たちへの復讐を果たしたい。

 コブンの安否を確認したい。

 トレイターの行方を追って情報を引き出したい。

 便所の…(略)を平気で食べられるようになり…たい?


 今日から始まる俺の人間界での生活。

果たして、俺はちゃんと生きていけるのだろうか!?

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