第10話
優子の顔はカニの甲羅よりも赤みが刺している。怒りをすべて吐き出すと、ふうっと息を吐き出して、カニ足を一本手に取った。これでようやく俺もカニ足の恩恵に与ることができた。大皿に手を伸ばしてカニ足を摘まむ。箸でつるりと身を取り出して口に含んだ。うん、旨い。甘みがあって舌の上で身がとろけた。
ヒットどころか満塁ホームランを打たれたピッチャー篠原は、戦意喪失となって椅子に項垂れている。キャッチャーの指示に従わないと痛い目に合うのは当然のことだ。目の前のカニ足に手も出せないまま、膝の上で指を絡ませていた。
「分かった、白状するよ――俺、東京に好きな人がいる。相手も多分、俺に好意を持ってくれてる。でも互いにやりたいことが違うから、一緒にいることができなくて、告白さえもまともにできていないんだ。連絡だってあんまりとってなかったし、しかも来年には留学するって言われたし、今でも俺のことを好きでいてくれているのかが分からなくて、ずっと自信がなかった。矢崎には悪いことをしたよ。年明けに彼女が東京から来るから、そのときにはちゃんと気持ちを確かめるし、その上で矢崎にも俺の気持ちを伝えようと思う」
やはりコイツには彼女がいたのか。しかも福井と東京で好きな人とすれ違ってるなんて、俺と境遇がほぼ同じじゃないか。女には困らないようなイケメンであっても、並みの人間らしい悩みがあるとは驚きだ。
マウンド上で肩を落とし意気消沈している篠原がなんだか哀れに思われてきて、「カニ足食べや」と勧めてみた。篠原はカニ足を手に取ってそれを食べた。「旨いだろ」「だな」と、互いに素っ気ない会話。でもいい。頼む、これで気持ちを少しでも切り替えてくれ。
「ほか、分かった」と、優子はカニ足をもう一本手にした。「……ちなみに篠原くんの好きな人って、どんな人やの」
「ええっ、勘弁してよ。そこまで言わなくちゃならんの」
「当たり前やろ」
問答無用とばかりに優子が催促する。が、先ほどよりも声が柔らかくなっていた。居心地悪かったこのグラウンドにも僅かに光が射してきて、カニ足の甘みも若干増したようだ。
「一緒にいると心が温かくなるっていうか、落ち着くっていうか、甘い香りがするっていうか……そうだな、例えて言うなら――春の訪れを香りで伝えてくれる人、かな」
「わ、えらい詩人やな。厨二か。ちょっと恥ずかしいわ」
「うっせ、じゃあ訊くなよ」
文句がましい篠原だったが、気分も落ち着いたようで、自らカニ足に手を伸ばしてくれた。カニの旨さは戦いに敗れた選手へ新たなエネルギーを与えてくれる。やっぱりカニ足は人類の救世主だ。
「春の香りかあ、うん、なんとなくやけど俺には分かるわ」と、何本目かのカニ足を口にして俺が言った。
「ええっ分かんの?」
隣の篠原がこちらを向く。めでたく厨二と評された彼の頬と耳はカニよりも赤い。
「日本の神話の話なんやけどな、春を司る佐保姫ってのがいて、その姫さんを思い出した。平城京の東にある佐保山の神様で、春霞を纏った春の女神なんや。『佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ 花の錦をたちやかさねむ』っていう歌を、後鳥羽院が残してる。綺麗な姫さんやったみたいで、衣を縫うように山の色を春の萌木に染めてくれる人なんやで。篠原の好きな人にイメージがピッタリやろ」
「……まあそうかな」
「ちなみにな、春の姫さんが佐保姫やったら、秋の姫には竜田姫っていうのがいるんやで」
「へえ」
「竜田山に住む姫さんで、紅葉を染めるように織物をする風の神さまなんやって。佐保姫が春色を霞で彩るんやったら、竜田姫は秋風で山の草木を赤く染める女神やな。二人は対の姫君や」
「対の姫君……」
「ほや、古典の世界やけどいい話やろ? 篠原が春の香りで彼女を思い出すんやったら、俺にも百人一首で思い出す人がいるんやで。『あらしふく三室の山のもみじ葉は 竜田の川の錦なりけり』っていう歌があって、それは竜田山から流れる竜田川の紅葉の美しさを讃えている歌なんやけど、その札を見るたびに彼女のことが頭に浮かぶ。その子も竜田姫みたいにすごく綺麗な人で、無邪気なところが可愛くて……なんつって、へへっ、俺の大切な――特別な人なんや」
対戦中のもみじの真っ赤になった頬が目に浮かぶ。カニの甲羅と同じ色だ。カニ足の歓びに浮かれてしまい、柄でもないことをつい喋り過ぎた。耳が熱い。照れを隠したくてもう一本、カニ足に手を伸ばす。俺の皿には、カニ殻の残骸が優子の軽く倍はあった。
大皿にはカニ足がまだ数本残っていたが、「ごちそうさま」と優子は立ち上がって、自分の皿を洗い始めた。
「カニ足がまだ残ってんで。優子のために残したのに、いらんのか」
「いらん」
と一言、つっけんどんに返される。なんだ、折角のカニだというのに勿体ない。残りの足を篠原と二人でいただくことにする。
「無知っていうのは最大の罪だよな」と、カニ足を食べながら篠原が呟いた。
はて、どういう意味だろう。持ちうる知識を披露したというのに、無知と言われる筋合いはない。コイツの話す言葉は理解不能なときがたまにある。
変な奴やと心で返し、最後のカニ足に手を伸ばした。
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