第9話

 篠原はそれを無視して黙っていた。


「もしかして篠原くんの彼女やったりして」


 その問いかけを肯定も否定もすることなく、篠原は回答を拒否するかのように、スプーンと甲羅でゴリゴリと大きな音を立てている。


 沈黙がしばらく続く。おやおや、と、勘の鈍い俺でもさすがに感じる――ひょっとすると、優子の放ったこの質問は軽くヒットではなかろうか。


「笑顔が素敵な人なんて、普通は男に言わんもんな。言うとしたら彼女やわ」


 優子の口撃は緩まない。スプーンを持った篠原の手がピタリと止まる。どうやらツーベースヒットくらいは行ったようだ。


「なあ、篠原くんってほんとは彼女がいるんやろ? 光葉ちゃん以外に。光葉ちゃんのことはどうするの」


 スリーベースヒットを打たれて、さすがに篠原も無視できないと観念したらしい。「はあ?」というだみ声でそれに応えた。


「なんで答える必要があるんだよ。矢崎のことなんて明石さんには関係ないじゃん」


「関係あるよ!」と、優子のこめかみに青筋が浮かんだ。「ねえ、篠原くんさあ、光葉ちゃんとあんだけ仲がいいんやし、あの子の気持ちを知らんわけないやんな。ここでちゃんと教えて。光葉ちゃんのこと好きなんか? それとも嫌いなんか?」


「どうって別に……好きも嫌いも、いい奴だとは思うよ」と落ち着いた声を寄越すも、隣にいる彼の目は方々の壁を彷徨っていた。意外にも分かりやすい奴だ。


「なんやそのいい加減な答え。あの子に失礼やとは思わんか」

「あっちが勝手に好きだって思ってるだけじゃん。俺はなんにも手を出してないよ」

「手を出さないのは当たり前やん、正式に付き合ってえんのやから。付き合えんのやったら、ちゃんと態度で示してあげなよ。やないと光葉ちゃんが可哀そうやが」

「態度で示すってどうすればいいんだよ。告白されたわけでもないのに」


 二人のボールの打ち合いに激しさが増してきた。篠原の横に座る俺は、自分が怒られているようで気まずくて仕方がない。このままそっと離れてかるたの練習に向かいたいところだが、この流れではそうもいかないだろう。カニ味噌を食べつくしたのでカニ足を食べたい。大皿にあるカニ足に手を伸ばし、鬼と化した優子の顔を見て泣く泣く諦めた。


「あんなあ、ちょっと聞いて。ここで問題なんはこの三つや」と、優子は右手に三本の指を立てた。「一つは光葉ちゃんが篠原くんを好きなことに自分で気が付いていること。二つ目は篠原くんが好きな人をハッキリさせんこと。そして三つめは、光葉ちゃんの好意に対して、篠原くんがなんの責任もとろうとしてないことや。フラフラしてる篠原くんを見てるとめっちゃ腹立つわ」


「あのさあ」と、篠原は手のひらをかざしてそれを制す。「ちょっと仲良くしてるだけで、なんでそんなに感情が重いんだよ。好きだろうが嫌いだろうがそれは彼女の問題だし、俺には全く関係のないことだろ」


 他人事のように話を投げ出す篠原の言葉に、「アホか!」と優子の怒声が重なった。


「光葉ちゃんはな、A大学に行って、大学のミスコンで優勝して、卒業したらテレビ局に就職してアナウンサーになるっていう夢があったんや。そのために放送部に入って、必死で勉強頑張ってきて、容姿も大事やからって美容の研究もしてたんやで。日本を代表するほどの立派なニュースキャスターになりたいって冗談めかして言ってたけど、それを実現してまうくらいの器がある子なんや。でもな、篠原くんが来てからそれが変わった。このままやとその夢が叶わんくなる。篠原くんは光葉ちゃんにとっての逃げ道になってんや」


「逃げ道ってなんだよ。専門学校のことか? 本人がやりたいことを逃げ道なんて言うなよ。進む力は自分が動かすべきだし、他人にはどうにもできない。そういうのは自分で乗り越えるもんだろ」

「違う、そうやなくて……」


 はあ、と肩で大きくため息をついて、優子は両肘をテーブルに乗せた。目を閉じて、組んだ両手をゴツンと額にぶつけた。


「念のために訊いておくな。篠原くんって、バレないなら二股でもいいとか、そんなチンケなこと考えてないやんな」

「んなこと思うかよ!」

「それじゃあ男らしく、あかんのやったらあかん、付き合うなら付き合うでちゃんとしてあげてや。決着つけんのは光葉ちゃんの自己責任やない、篠原くんの責任逃れやで」


 両手を下ろし、確認するように篠原をじっと見る。百四十キロの速球を受けるキャッチャーのように優子の目は真剣だった。この真剣勝負の前に、カニ足へと手を伸ばす勇気はさすがに出ない。


「はいはい、承知しました。なんとかしますよ」と、キャッチャーからの大事なサインを篠原は軽く受け流す。無頓着なその態度に優子の怒りは沸点まで達した。バンッと両手で机を叩くと大皿のカニ足が振動で揺れた。


「ほんとに分かったんか? こっちは真剣に考えてんやし、適当に返事せんといて! 篠原くんがはっきりせんかったら、光葉ちゃんはいつまでも先に進むことができん。過去を見てばっかりになる。お願いやから、無責任な振舞いで光葉ちゃんを過去に縛り付けんといて!」

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