第8話
「実は福井ってあんまりいいイメージがなかったんだよ。親父のイントネーションって福井訛りが残っててさ、家では方言もたまに使ってたんだ。なんだっけ、『おちょきん』だったかな? 正座って言葉を家でそう呼んでたから、俺も学校で使ったんだ。そうしたら友達にすっげー笑われて、屈辱だったっていうか、イジメみたいに感じられて……それからは福井のことは俺の中で封印してたし、田舎ってワードにも拒否反応を起こしてた」
「ああ……なんか分かるわ」
過去のイジメがふと頭に浮かんで、それを奥に押し殺す。俺にもイジメられた経験はある。小学校での思い出は、酸いも甘いもたくさんある。気弱な性格が原因で仲間外れにされたり、内気で言い返せずにケンカでやられっぱなしだったり。
記憶が戻ると蕎麦がマズくなる。だが時が経てば人は変わる。不思議なもので、あの時のイジメっこが今では気のいい友人になっている。イジメという行為を許すわけではないが、それでも時間という絵筆を上手に使えば、食も人も優しい色合いに変わってくれることだってあるのだ。
「でもやっぱり冷たい蕎麦も旨いよな。じいちゃんに教わったお陰だ。今日はこうやって振舞えてよかったよ」
ご馳走様、と篠原は手を合わせた。
「蕎麦打ちできるパティシエっていうのもいいね。広告に使えば面白そう」
「それいいな。明石さんのアイディア貰っておくよ。俺の肩書きにしてみよう」と、篠原は台所ごっこを楽しむ園児のような微笑みをにっこりと見せた。
優子の頬がパッと染まる。なんだか妙に、ムカつくな。
さていよいよ今日のメインディッシュ、越前ガニの登場である。「カニなら任せて」と、ここで手を上げたのが優子だ。
「カニは一人一杯ずつあるんだし、自分で殻剥いて食べたらいいじゃん」
「福井人を舐めんといてや。福井の中学生は学校で越前ガニ講座も受けるんやで。県を挙げて、福井県民・皆・越前ガニプロフェッショナルを目指してるんや」
「ウソつくなよ!」
と、篠原が驚くのも分からんではないのだが、カニ講座は本当のことだ。越前ガニの魅力を若者に伝えるため、県漁連が県内の中学三年生全員に越前ガニを振る舞い、正しいカニの食べ方の講習を受けさせるのである。もちろん俺もその講習を受けている。学校でカニを食えるという贅沢極まりないこの企画に、当日はクラス中がカニの話題で持ち切りになったほどだ。
台所に立った優子はカニ三杯を大皿に入れた。母が購入したカニは雌のセイコガニであり、雄のズワイガニよりもやや小振りである。
前掛けと呼ばれる殻をぺらりとめくると、赤い卵がぎっちりと詰まっている。「美味しそう……」という優子の声が自然と零れた。卵と殻にこびり付いた内臓を丁寧にスプーンで削ぎ落し、甲羅に詰め直していく。
「甲羅にある薄皮も美味しいんやで。カニ味噌はコリっとした内子の部分が一番好きやなあ」
うんうん分かる、と俺は頷いた。内子というのはカニの卵巣だ。コクがあってねっとりとした食感は一度味わうと病みつきになる。
優子のスムーズな手捌きにより、カニの内臓はあっという間に処理された。三杯分のカニ味噌が片付いて、残りは二十四本の足と六本のハサミだ。胴の部分は包丁で半分に切って中身を綺麗にほじくり出す。
「とんがった足の先っぽとハサミは、身が少なすぎるから捨てておくな」
包丁で足を縦に切っていく。パキパキと、木材が炎で弾けるような音が部屋に連なる。優子の包丁さばきも篠原に負けじと劣らず手慣れていて、綺麗に切られたカニ足が大皿へこんもりと積み上がっていった。俺にはとうてい真似できない調理テクニックだ。
三杯分のカニがあっという間に捌かれて、カニ味噌とカニ足が盛られた皿がテーブルに運ばれた。すげえじゃん、と篠原が素直に褒めて、優子の表情もまんざらではなさそうだ。篠原はスマホを取り出して、今日の記念にとカニの写真を何枚か撮っていた。
カニの旨さは、改めて言うまでもない。プリップリの足を堪能できるズワイガニももちろん好きだが、カニ味噌の甘さ、これに関してはセイコガニの方が断然旨い。プチプチとした卵の食感、ふんわりとした甘さの薄皮、内子の濃厚な味……甲羅の中身をスプーンで掬い取り、余すところなく食べつくす。ゴリゴリと甲羅を擦る音だけが静かな部屋に響きわたる。
「八重園って普段も大人しいけど、食うときも静かだな」と、黙って食を楽しむ俺たちに篠原がツッコんだ。
「美味しいものを心ゆくまで堪能してるんや。この静けさが喜びの大きさを表しているんやで」
「マジかよ」と、箸で甲羅の身をほじくり出しながら篠原が答えた。「俺の知ってる人なんか、すっげえ笑顔で食べてくれるんだ。美味しい、美味しいって素直に褒めてくれて、天真爛漫っていうか、その笑顔がまた良くってさ。料理人からしたらそっちの方がよっぽど嬉しいよ」
ふうん、と優子が口を挟んだ。
「知ってる人って誰やの。お友だちか?」
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