第7話

「この打ち粉で包丁が滑りやすくなるんだよ。この手間がとても大事。面倒くさがりは料理の敵だ」


 篠原の包丁は何かの糸が繋がっているかのように、生地の上で滑らかな動きを見せる。するりと手前に引くたびに、同じ厚みを持った線が平行に引かれていった。速さも職人技で、俺の大根おろしのリズムとさほど変わらない。


「すごいなあ、そんなに上手く出来んわ……」と、篠原の技量を前にして優子が涙目になる。


「慣れてないんだから当たり前だよ。ゆっくりでいいから、速さよりも切り方を大事にして。そう、ゆっくりと……麺の太さが揃ってないと、見た目も噛み応えも茹で上がりも良くないから。よし、麺を茹でよう」


 寸胴と鍋にはすでにお湯が沸かされていた。グツグツと煮立っているところへ麺をほぐしながら入れていく。


「麺はぬめりが出るから入れ過ぎないように。菜箸で混ぜながら二分ほどかな」


 茹で上がった麺をザルにあけると、蕎麦の香ばしい香りを含む湯気がもわりと湧きだった。雑巾のように擦りながら流水でぬめりを丁寧に落とす。蕎麦と大根おろし、ネギ、鰹節を皿に盛ったところで母が帰ってきた。


「慎二、カニ買ってきたで――ああ、優子ちゃんに、それから……こちらが例の篠原くんか? あらまあ、いらっしゃい」


 念願のイケメン男に会うことができて、湯煎のチョコレートが溶けていくように母の表情がゆるゆると緩んでいく。


「お邪魔してます」と篠原は律儀にお辞儀をした。「蕎麦作ったんですけど食べますか? 二食分ほど残してあるんで、よかったら茹でますけど」


「ああいいんや、ありがとな。今から父ちゃんのところへ着替えを持って行かなあかんのや。カニは一人一杯ずつあるから、みんなで食べておいて」


 カニの入った買い物袋をどさりとテーブルに乗せて、そのまま居間を出ていく。帰って早々慌ただしい母だ。行ってきます、と出かけそうになる前に、「あ、ほうや」と小走りで戻ってきた。


「お父さんとこのクリスマスケーキ、予約したからな。どれもこれもめっちゃ美味しそうやって、選ぶのに難儀したわ」

「あ、そうっすか。ありがとうございます」

「いっぱい買ったさけえ、クリスマスが楽しみやざ。お父さんにもよろしく伝えておいてな」

「はい、分かりました」


 それじゃあゆっくりしてってなあ、と目尻をだらりと下げながら母は出ていった。例年、我が家のケーキは母が働くスーパーの市販品だったから、今年のケーキには自ずと期待が高まる。


 が、クリスマスで親戚が集まるわけでもあるまいに、いっぱい買ったとはどういうことなのだろう。カニの一杯、とはまた違うだろうし、まさかイケメンオーナーに釣られてホールケーキを二個、三個って、まさか。いや、あの母親だったらありうるな……と、妙に浮かれた母の様子に一抹の不安がよぎった。


「すげえ、マジでカニじゃん」と、買い物袋の中身を覗きながら篠原が目を輝かせた。

「蕎麦とカニ、どっち先がいい?」

 テーブルに皿を並べながら優子が訊いた。

「カニ……と言いたいとこだけど、やっぱり蕎麦だろ。蕎麦は茹でたてが一番だよ」


 三人で椅子に座り、いただきます、と手を合わせる。


 雪のような大根おろしにつゆを掛け、胡桃色が染みていく。箸で麺を混ぜ合わせ、ひと掬いを口に入れる。麺には程よい弾力があって、噛むたびに蕎麦の香りが鼻腔にぷんと届いた。咀嚼したネギが爽やかだ。鰹節の旨味が歯に絡む。麺がつるりと胃の奥へと滑っていき、臓腑が冷えてぶるりと震え、大根の辛みが喉を火照らし躰をじわりと温めた。寒い冬と越前蕎麦、この相性は絶妙だ。皆で無言のまま、ズルズルという音だけが部屋に響く。


 視線を感じて隣を向くと、篠原の箸が止まっていた。


「どうしたんや、篠原は食わんのか?」

「いや、お前らが黙っているから不安になってきて……なんにも言ってくれないと、旨いのかどうかが分かんねえじゃん」と篠原は口を尖らせた。


 食べることに夢中になっていたから感想なんて頭になかった。とにかく腹が減っていたのだ。「めっちゃ旨いで」「うん、やっぱり手打ちはいいわ。さすがやな」と、優子と二人で慌てて返すと、篠原の頬が上下に動き、揺れる口角を隠すように蕎麦をズズッとすすり始めた。


「篠原は温かい蕎麦の方が慣れてるんやろ」と咀嚼しながら篠原に訊いた。

「いや、冷たい蕎麦も食べるよ。越前蕎麦だって知ってたし」

「へえ」


「親父が福井の出だから、越前蕎麦は母親も好きでさ、小さいときは年越しそばも冷たいもん食べてたんだ。それが普通だと思ってたんだけど、学校で友達に変だって揶揄われて、それからは温かい蕎麦の方を好むようになった」

「ふうん……」

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