第6話
「蕎麦作りはそれほど難しいもんじゃないよ。いい経験だし明石さんもやってみなよ。八重園はどうする?」
「悪いけど俺はかるたの練習させてもらうわ」
「分かった、じゃあ明石さんの分だけこっちのボウルに入れよう」
名人戦も近いし、遊んでいる暇なぞ本来ならないのだ。隣の和室に入って襖を閉め、引き出しから百人一首の箱を出した。
競技かるたには、最初の何文字かで札を特定する「決まり字」というものがある。競技かるたに強くなるには決まり字をどれくらい早く聴き、どれくらいの速さで札を取ることができるか、どいうことが最も重要なポイントとなる。
その訓練方法のひとつが「札流し」である。札を一枚ずつめくっていき、ブツブツと念仏を唱えるように決まり字を読んでいく。その時間が早ければ早いほど、詠まれた歌を見極めるスピードも上がるのだ。
が、「混ぜムラがないように指先で捏ねて、水を三分の二入れて……」「ああほうかあ、なるほど」「粘りが強いな」「水はいらんの」という二人の賑やかな声が扉の隙間から漏れてきて、集中力の僅かな隙間に声が割り込み、どうにもこうにも札流しに集中できない。仕方がないので札流しを諦め、ストレッチをしつつ彼らの会話に聞き耳を立てた。
「そうそう、水があるところとないところがあるとダメなんだ。両方の手のひらで擦り合わせるといいよ」
「こんな風にか。なんかパラパラな感じがするけど」
「それでいいんだよ。上手くできてんじゃん。やっぱり女の子ってさ、性格が出るっていうか、こういう細かい作業って丁寧で器用だよね。ほらもう粉の塊ができてきた。それを一つにまとめて……そう、いい感じ。それをそば玉にするんだ」
たまに思うのだが、篠原は性格に難はあるものの、機嫌がいいときには人の心をくすぐるのが抜群に上手い。あいつは多分、人たらしになる素質を無自覚のうちに持っている。目の前にあの顔があってあんな風におだてられたら、女の子だったらそりゃあ誰でも嬉しくもなることだろう。矢崎もそうだし、クラスの女子たちも、もしかすると優子だって……
なんだか知らないが、何匹もの小さい虫が周囲で飛び交うような、ぞわぞわとした落ち着かない気持ちになってきた。伸ばしていた腕を下ろしてそろりと襖を開ける。優子と篠原、二人の顔がこちらを向く。
「なんだ、八重園、かるたの練習はもう終わりか?」
「うーん、なんか蕎麦作りが気になってもうてな」
「練習の邪魔になったか? 煩かったんだったらもう少し静かにするよ」
「ああいいんや。かるたは後にするし、少しだけ見学させて」
「なんだ、じゃあ一緒に蕎麦打ちするか。みんなで打つと面白いぞ」
「いや、それはいい。料理は苦手やさけえ」
ふうん? と篠原が訝し気に応える。「どうぞ、見学ならご自由に――それじゃあ明石さん、そば玉を捏ねようか」
篠原は手元にあるそば生地に手のひらを当てて捏ね始めた。可愛らしいベージュ色のエプロンも付けているもんだから、捏ねている姿がまるで粘土遊びを楽しむ幼稚園児のようだ。優子のエプロンはワンポイントのロゴが入った水色のチェック柄。優子も真似て捏ね始めるが篠原の手の動きには程遠くて、二人を見比べると篠原の手際の良さが際立った。
捏ねあがったものを楕円形に押しつぶして、打ち粉をまぶしたテーブルに乗せた。
「さあ、これを広げていくよ」
生地を手のひらで押して円形状にして、麺棒で押していく。棒に巻きつけ、転がして、生地の向きを変えてまた巻きつける。その作業を何度か繰り返した。水に落とした墨汁がぱっと広がるように、篠原の生地が見る見るうちに薄くなってきて、円の曲線の美しさに思わず見惚れてしまった。優子の作り上げた微妙な凸凹楕円とは雲泥の差である。
円形のそば生地を縦横に伸ばして四角形へと変えていく。
「わたしの生地、篠原くんのようにはいかんわ……」と、優子が眉の形に悔しさを滲ませた。
「どっちかっていうと、優子のは四角というよりも台形やな」
「しょうがないやん、伸ばしていくうちに端っこが伸びてくるんや。慎二もやってみいや、難しいんやで」
「そこまでできたら上等だよ」と、生地を整えながら篠原が言った。「美味しさは見た目じゃないよ、一生懸命に作ったっていう愛情の形なんだ」
おお、と、思わず目を丸くした。
「篠原にしてはいい事言うな。ちょっと感動したわ」
「はっ、そりゃどうも。それじゃあ生地に打ち粉を掛けて、畳んで、それを繰り返して……よし、じゃあ、今日の正念場、切る作業に移ろう。八重園は大根をおろしてくれるか」
顎先で示した先には大根とおろし金があった。指示通りに大根をおろしていく。篠原は再び打ち粉を取り出してぱっと広げた。まな板もテーブルもエプロンも、あらゆるところが真っ白だ。
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