第5話



 俺が帰宅してすぐに母も帰ってきた。父を病院へ送った後、すぐに仕事へ向かったそうだ。ああ忙しいとボヤキながら、床に広げた洗濯物を片付け始める。父は痛みが引くまで一晩入院するという。


「父ちゃん、やっぱり運動不足やなあ。痩せてるように見えるけど、腹には脂肪がたっぷたぷやで。昔は野球少年でブイブイ言わせてたらしいのになあ、今では子豚さんのようにブイブイ言っとるわ。これを機にエアロビクスでもさせようか」などと、シャツを折りたたみながら父への不満を口にしていた。ダンスする父を想像して、レオタード姿でヨロヨロと崩れ落ちる情けない姿に吹き出してしまった。


 時計は五時を過ぎている。そろそろ篠原たちが家に来る時間だ。友人たちが来ると伝えると、母もご馳走を用意するという。


「蕎麦作ってくれるんやから、それだけで十分やろ」

「そんな訳にはいかん。おもてなしは大事なことや」と、タオルをクルクルと棒状に丸めた。「それに篠原くんって、あの小野さんとこの息子さんやろ? どんな子なんやろ。お父さんに似とるんかな。ふふっ、楽しみやわあ」


 なんとまあ、母が頬に手を当ててウン十年前の女子の顔になっている。小野とは篠原の父親の苗字である。篠原と同様に彼の父親もまた顔立ちが整っており、近所の主婦たちの憧れの的になっているのだ。


「どうしようかなあ、ケーキ屋さんの子におせんべいを出すだけってわけにもいかんし、他の店のケーキを出すわけにもいかんしなあ……あ、ほや、越前ガニでも買ってこようか。今日は特売やで、一杯五百円や」


「カニなんて、そんな贅沢せんでもいいやろ。自分のえんときにカニ食べたなんて知ったら、父ちゃん泣くで」


「父ちゃんのことなんてどうでもいいんや」と、父が耳にしたら泣きそうなことを平然と言い放つ。「慎二のお友だちなんやし、ちゃんといいもん出してあげな。なんだかソワソワ、ワクワクすんのお。優子ちゃん以外のお友だちなんてめったに来んからなあ。この間の石川から来た、なんとかちゃんって言うかるたの女の子と……」


市花いちかさんか」

「ほや、市花さん。それから小学校んときの、なんつってたっけ、あの女の子……」

秋生あきみさんや、秋生もみじ」

「ほやほや、もみじちゃんや、いつも福井の大会に来てくれる子やんな」


 かるた仲間は絆が深い。自団体のみならず、他府県の団体から競技の観戦や対戦を望まれることはしばしばある。ましてや名人戦の切符を手にした高校生とあっては、年齢性別問わず、腕試しの依頼は多岐にわたる。とはいえ普段から交友関係の少ない身とあっては、


「……あらら? うちに来る子、みんな女の子やが。意外と女の子に縁があるんやな。あのガールフレンドちゃんら、また来てくれるといいのお」と、女性が来るたびに親から茶化される始末である。


「二人ともガールフレンドやなくてただの友達、かるた仲間やけど、もみじちゃんも市花さんも今度の名人・クイーン戦で会えるで」


 市花さんは石川県の大学生、そして秋生もみじは東京の同級生だ。二人は正月明けのクイーン戦で戦うこととなっており、その練習相手として俺が選ばれたわけである。


 もみじは幼いころからの競技かるた仲間だ。腕っぷしと負けん気が殊更強く、幼少のころから今に至るまで、大会の決勝戦で互いに肩を並べるほどの実力を備えていた。かるた仲間としては最強の戦士であり、ライバルであり、そして……滅多に会えることのない、気になる女性でもあるのだ。


「あら、どっちにせよ楽しみやわ。スーパー行ってくるで、留守番頼むな」


 母と入れ替わりに優子が来て、車のマフラー音と共に篠原も玄関に入ってきた。足元には古びたダサい長靴だ。郷に入ってはなんとやらで、父親のお古を借りたようである。お邪魔します、と声を掛けて居間に入った。


「じゃあテーブルを貸してもらうよ」


 篠原は居間にあるテーブルにシートを広げ、肩に担いでいた大きなボストンバックから、まな板、包丁、麺棒、粉、大根、刻みネギなどを出し、綺麗に並べていく。さすがというか、やるからには本格的に、ということで、自前のエプロンと大鍋、それに三十センチもの高さがある寸胴まで用意してあった。


「うちの蕎麦はそば粉八割に小麦粉二割。二八蕎麦ってやつね。そば粉十のほうがいいって人もいるけど、小麦粉のつなぎを入れた方がのど越し良くて、じいちゃんは二八蕎麦にしてたんだ。粉は福井在来種の玄そばだよ。店のガレットにも使ってるやつで、親父に頼んでその粉をちょっとだけ貰ってきた」


「ガレットって、野菜と肉が入ってるクレープみたいなやつやんな。わたしもカフェで食べたことがあるよ。あれは美味しかったなあ」


「うん、ガレットはフランスのブルターニュ地方で食べられてる郷土料理なんだ。親父が昔そこで働いていてさ、そのときに食ったもんがあんまりにも旨くて、自分でどうしても作ってみたかったんだって」


「篠原くんのお父さん、フランスにいたんけ? へえ、すごいなあ」


 優子の誉め言葉に篠原の額の筋肉がピクリと反応した。


「……まあ、そんなに大したことじゃないよ。フランスなんて誰でも行けるし。じゃあまずは計量するよ。そば粉とつなぎ粉を計ってボウルに入れて、水も用意して……打ち粉はここに置いておくね。よかったら明石さんも一緒に作ってみる? それとも勉強しておく?」


「え、わたしもお蕎麦作っていいんか?」

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