第4話

 四階の教室に着いて扉を開けると温かな空気が肌に当たった。入ってすぐさま「おはよう、篠原くん」と呼びかけてきたのは、矢崎やさき光葉みつはという女子生徒だ。


「ねえ篠原くん、昨日マカロン作ってみたんや。これ見て、上手くできたやろ?」と、矢崎は色とりどりのマカロンが入ったプラスチックケースを目の前に差し出した。


「へえ、すげえじゃん。綺麗に膨らんでるし、色もいい。結構大変だったろ?」

「うん、何度か失敗したけど、やっといいのができた。篠原くんのお眼鏡に叶うやろか。なんでもいいからアドバイスくれんか」


 どれどれと篠原はベージュ色のマカロンを指に取って口に放り込んだ。うん、旨いという感想に矢崎の目が細くなる。


 矢崎は俺たちには目もくれない。マカロンバリケードを自分たちの周りに隙間なく張り、二人だけの世界を作りあげている。見えないフェンスから自然と弾かれた俺は、やれやれと自分の机に鞄を置く。


 優子の友人である矢崎は、合田ごうだ理子りこと三人で仲良しトリオだ。矢崎は篠原に好意があるようで、バイトで忙しい彼をどうにかして捕まえたいと俺によく頼んできた。が、篠原の暇な時間なんて俺に分かるわけがない。バイト先を訪れても会えないとかで、悩んだ末に編み出したのがスイーツ作戦だ。篠原お得意の菓子で釣ればきっと引っ掛かるだろうと予想して、毎週のように手作り菓子を持ってきたのである。その思惑は見事成功したようで、最近の二人は急接近しているようだ。


「マカロナージュが難しいだろ。生地の艶と固さの感覚を身につけるのに大変でさ、俺もまだ修行中で先輩に習ってる」と、篠原が言えば、

「ほやって、混ぜすぎもアカンしなあ。絞りの大きさが均等になるように、クッキングシートでガイドもちゃんと作ったで」と、矢野も話に花を咲かす。

「へえ偉い」


「難しいのが焼き方でなあ。うちのオーブンって古いから置き場所でムラが出ちゃうんや。ほら、これが真ん中に置いたやつで、こっちが端の方。焼くだけで三回は失敗してもた」

「そっか。難しいやつだし、失敗でもいいんだよ。三回でここまで仕上げたんだったら合格だ」


「やったあ、篠原くんに褒められた! 今回の出来はちょっと不安だったんだ。褒められてよかった。篠原くんのお店にしつこく通っただけあったわ」

「ははっ、店に出るたびに、顔を合わせていたもんなあ。スイーツ研究の成果がでたか。うん、偉い。あとは食感かな。噛んだときに舌の上でホロっと溶けるよう、焼き時間を工夫しないと……」


 篠原が席に着いても矢崎は離れようとしなくて、彼のために得た料理の知識を次から次へと披露する。会話の内容は専門的すぎて俺にはさっぱり分からない。


 矢崎は去年の越士えつし高校ミスコンで優勝したほどに美しく、色男の篠原がそばにいるとお洒落な雑誌の切り抜きのように絵になる二人だ。篠原の取り巻きは数人いたが、矢崎の美貌にはとても敵わないと手も足も出ないようである。


 彼らを遠巻きに見る女子たちの表情には嫉妬と苛立ちに溢れている。ま、二人が嫉妬されようが何だろうか、俺にはどうだっていいことだが――いや、決して僻んでいるわけではない、はずだ、多分、と思ってはいる。


「光葉ちゃん、またお菓子作ってきたんやなあ」と、優子が俺に話しかけた。会話を弾ませる二人を追う優子の視線はどことなく厳しい。まさかとは思うが、優子も美男美女のお洒落カップルにやきもちを妬いているのだろうか。


「みんなあの顔に騙されてんで。表向きと違って裏側はめんどくさそうな性格してるし、菩薩さまくらいの器量がないと、あいつと付き合うなんてとても無理やないか」

 おお、優子は奴の本性を見抜いている。似た者同士がいて安心した。


「共通の話題があると楽しいんやろ。俺にも分かるわ」

「調子乗って篠原くんがデレてるから、光葉ちゃんが本気になってもうてるし」

「それはそれでいいんやないか。お互いに顔がタイプなんやろ。好きあってるんやったら問題ないし、見た目やったらあの二人は間違いなくお似合いや」


「違う、違う、見た目なんてどうでもいいんやって。問題なんは――」と、優子は厳しい目つきを俺にも当てる。「――篠原くんが好きな人をハッキリさせんことや。なあ、篠原くんって付き合ってる人ってえんのか? 口数少ないから知らんけど、二股やったらどうするの。もし彼女がいるんやったら浮気やで。一人で浮かれとる光葉ちゃんが可哀そうやが。色恋沙汰のことなんて、慎二には興味ないんか?」


 優子に質され、あっと閃く。以前耳にしたことのある篠原の言葉だ。


「東京で付き合ってた人がいたけど、こっちへ来た時に別れた」と、彼は言ってはいなかったか。あの時の彼は、別れたという割には妙に浮足立っていたように思う。

 あれはどういうことだったのだろう。彼女とは本当に別れたのか、それとも――……


 つい目を泳がしてしまった。それを勘繰って、「あいつのことで何か知ってるんか?」と、訝しそうに優子は問い質した。なんも知らんと必死に嘯きその場を誤魔化す。優子の視線にはいくつかの疑問符が残されているようだったが、周りの耳を気にしたのかそれ以上は問い詰めてこなかった。俺の肩に身を寄せて口に手を当て、小声で話を続けた。


「光葉ちゃんな、進路変えるって最近言い始めてるんや。東京の私立のA大学をやめて、菓子の専門学校にしようかなって」

「ええ? 一次試験控えてんのに何言っとんや。専門学校なんて冗談やろ。もしかすると篠原と同じとこか」


「うん、信じられんやろ。普通ありえんて」と、憂いが優子の眉に皺を増やした。「光葉ちゃんな、悪い癖があって、夢中になると周りが見えんようになるんや。篠原のためにケーキ屋通って体重増やしたりとか、マカロンを毎日ニ十個焼いたりとか。自分の進路のことやのに他人に振り回されるなんて、どうかしとるわ。大事な将来のことやし、親とか先生がなんとかしてくれるとは思うけど。とにかく、光葉ちゃんにも篠原くんにも、いっぺん厳しく言わんとあかん」


 不安の混ざるため息が優子の口から吐き出される。優子の不安を他所に、二人の笑い声が教室に響いた。


 矢崎の進路と篠原の好きな人。そういやあいつは彼女にキスしたとも言ってはなかったか……キス、キス……魚のキス、羨ましい、刺身よりも寿司がいいか……じゃなくて、それはマズい、非情にマズい。いや、マズくないのかもしれないが。焼き魚だったら旨そうだ。これらの問題は、キス、もとい、イワシの大群のようになって、俺の脳内に危険なトルネードを作るのだった。

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