第2話



 水気を含んだ雪は傘の重みを増していく。融水装置から噴き出す水が道路の雪を中途半端に溶かしていて、シャーベット状になった雪が長靴にへばり付き、雪の冷気が靴の中まで染みてくる。


 さて、自慢ではないが俺は自炊なんて一度もしたことがない。出来ることといえばカップラーメン、それともコンビニ弁当を買ってくるか……競技かるたの名人戦も近いことだし、しっかりしたものを食っておきたい、というのが正直なところだ。


 競技かるたというのは、小倉百人一首を用いて行われる競技大会のことである。二人で一組となり、自陣、他陣に別れて合計五十枚の札を取り合い、札を一枚でも多くとったものが勝ちとなる。競技かるたの最高峰ともいえるトーナメントが、毎年新年に滋賀県の近江神宮で開催される名人位・クイーン位決定戦である。俺は秋に執り行われた全国のトーナメント戦を制して、この冬に前年度優勝した名人へ挑戦することになっていた。俺は今現在高校三年生ではあるが、どうやら史上最年少の挑戦者となるらしい。競技かるたの最高峰に若手がどこまで食い込めるか、というところに競技かるた界ではちょっとした話題になっているのが気恥ずかしくもあり、誇りでもある。


さて、かるたの練習はなんとかするものの、直近の問題は今晩の飯だ。思い切って優子――明石あかし優子という、お隣に住む同級生の幼馴染の女の子である――に差し入れを頼むか。いや、受験勉強があるし、お隣さんとの交流も最近はめっぽう減っているというのに、そこまでお願いするのは図々しい……など悶々と考えているうちに高校へ着く。


 玄関へ入ったと同時に「冷てえー!」と騒ぐ友人の声がした。クラスメイトの篠原だ。


「なんだよ、これ。道路の真ん中から水が噴き出てたぞ! 信じらんねえ!」


 学校へ来た早々、篠原しのはらは機嫌悪くぶつくさと文句を垂れながら、肩に着いた白い雪を手で払い、手でシューズをグイと引っこ抜いた。篠原は今年の春に俺のクラスへ転入してきた男子高生だ。茶色の髪にくっ付いた雪は半分融けかかっていて、黒いシューズとズボンの裾は水でぐっしょりだ。冷てえ、冷てえ、寒い寒いと散々喚きながら靴下を脱ぎ、濡れたズボンの裾を折っていた。


「こんだけ雪が積もってんのにいつものシューズで来るなんて、普通ありえんで」

「そんなダッせえ長靴なんか準備してねえよ」と、俺が履いていた黒い長靴を一瞥して篠原は噛みついた。「水がジャンジャン掛かってくるし、歩道は水浸しで朝から散々だよ。せっかくじいちゃんに学校近くまで車で送ってもらったのに、こんなんじゃあ意味ねえじゃん」


「水が出てんのは雪を融かしてんや。まあしゃあない、融雪設備で濡れるのは雪国あるあるやから」と、室内シューズに履き替えながら、都会人の滑稽ぶりに口許がつい緩む。ささやかな優越感に浸る俺の態度が気にくわないのか、篠原の機嫌はさらに悪くなった。


「知ってるよ、そんなことくらい。まあここって雪くらいしか自慢することがないもんね」


 篠原の言い草にはさすがの俺でもカチンときた。長靴ダサいと愚痴るくせに、ズボンの端を折り足首を見せて素足で室内シューズを履く篠原の方がよっぽどダサい。郷土自慢を一つでも言い返してやりたいところだが、悲しいかな、地元の優れたものが咄嗟に浮かばなくてモゴモゴと口ごもる。そんなところへ「おはよう」と背後から声が掛けられた。


「慎二、おばちゃんから連絡入ったで。おっちゃんが腰やられたんやってか」


 優子は長靴の踵をコンコンと段差で叩いてこびり付いた雪を払い、脱いだ靴を玄関脇へ並べた。手狭な玄関を長靴で埋めないように急遽作られた廊下脇の長靴スペースには、通学用の黒い長靴が行儀よく並んでいる。


「ほや、ギックリ腰やって」

「わあ大変やな、早よう治るといいな」


 さすが、優子の言葉には気遣いが溢れている。フフッと笑うと肩まで伸びた髪が少し揺れた。優し気な感じのする目元がどこかの女優さんに似ていて大のお気に入りだって、父ちゃんが嬉しそうに話していたか。気配りの気の字もない篠原とは大違いだ。優子も篠原も同じクラスなので、俺を真ん中にして三人で並んで教室へ向かった。


「おっちゃんの腰、すぐに治るんか?」

「連絡がまだ入らんから分からんけど、全然動けんようやった。担架の上で銅像みたいに固まってたわ。今日は夕食が作れんかもしれんって親に言われてな、夜は自炊や」

「へえ、八重園やえぞのが自炊ねえ。ご飯炊けんの?」と、やや後ろに下がっていた篠原が優子との会話に割り込んだ。八重園、というのが俺の苗字だ。

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