第10話
花凛がチャイムを鳴らすと、中から洋介が出てきて、彼女を家の中に入れた。まさか藍子に見られているとは思ってもいないだろう。
山本は、写真を数枚撮った。
藍子は唇を噛む。
「どうします? 録音したものを後でお渡ししても構いませんが」
山本は藍子を気遣う。
「いえ……、少しだけ……」
藍子は俯いたまま答えた。
「あ〜、久しぶり〜、洋介んち」
「あんまりウロウロすんなよ、髪の毛とか落ちてたらヤバいんだからな」
「えー、困ったらさあ、またハウスクリーニングに頼めばいいじゃん」
「えっ……」
藍子が顔を上げる。
退院してきたときのハウスクリーニングは、そういうことだったの?
「奥さんさあ、自分の入院中に、あたしがここで洋介と一緒に暮らしてたって知ったら、びっくりだよね」
「冗談でもやめろよ?」
「えー、洋介、奥さんに殺されたりしてね〜。あはははは」
「も〜、お前、口きけなくしてやる」
キスをする音。女が短く出す声。荒くなる呼吸。喘ぎ……。
「ホテルまで送ります」
山本が言うと、藍子は無言で頷く。
音が聞こえなくなっても、そこで何が起きているか、わかってしまう。車の中、藍子は思わず耳を塞いだ。
「後ほど、録音データをお渡ししますが……大丈夫ですか?」
一旦駅に立ち寄り荷物を取り、前日から予約していたホテルに戻る。その途中の車内で、山本は静かに藍子に問いかけた。
「だ、大丈夫です。続けてください」
「わかりました」
夫と愛人の情事など、誰が聞きたいものか。
けれど、その現場を押さえておく必要がある。
それもあったが、洋介が企んでいることがわかるかもしれない。藍子には、そちらの方が重要なことに思えていたのだ。
安いビジネスホテルの殺風景な部屋。ベッドに伏せたまま、藍子は動けなかった。涙がポロポロ出てきては流れていく。「裏切られていたこと」への悔しさや憎しみ、それもあったのかもしれない。が、今はとにかく心が疲弊していて、脳が「何も考えるな」と指令を出しているかのように、なんだか真っ白で、ただただ涙だけが止まらなかった。
藍子は、不安時の頓服薬を飲んで、強制的に寝てしまった。
その日の夜、写真と録音データを持って、山本が部屋を訪ねてきた。
「証拠写真とデータは録れたと思います。どうしますか? まだ続けられますか?」
「……」
「あ、そうだ。」
気がついたように山本が、録音したデータを藍子に聞かせ始めた。
「今?! 今聞かなきゃいけませんか?!」
藍子は思わず叫ぶ。
「違うんです。ちょっと気になるところがあって……」
山本は、そう言うと、前の方を飛ばして、情事後の二人の会話を、藍子に聞かせた。
「……ねえ、お金を減らさずに奥さんと離婚するってどういうこと?」
花凛の声だ。
「もしかして、奥さん殺す気? あはははは」
冗談じゃない! 藍子はそう思う。
「家も財産もこのままでさあ、奥さんの保険金まで入っちゃうけどねー。うまく殺せれば」
「馬鹿だな。そんなことできるわけないだろ?」
「えー? だって、前に、いい方法があるって言ってたの、洋介じゃん」
「あれはまだ実験途中なの。もうちょっとサンプルが必要なんだ」
「またそれだ。もー、意味わかんなーい」
サンプル?……サンプルって前にどこかで誰かが言ってなかったか?
藍子は考える。ダメだ、今は思い出せない。
「この会話の意味はわかりますか?」
山本が聞いてくる。
あの「毒」のことだろうか?はっきりとはわからなかったが、ここは黙っておこうと思った。
「彼女の……花凛の勝手な願望に過ぎないのでは、と。夫に私を殺すような勇気があるとは思えませんし。大体、保険金目当ての殺人なんて、証拠が残らない形でできるものなんでしょうか?」
「うーん、素人にできる仕事ではなさそうな気がしますね。そういうことは、私には分かりかねます。」
「すみませんが、もう暫く調べてもらってもらえませんか?」
「追加費用がかかることになるかもしれませんが?」
「構いません。よろしくお願いします」
山本が出て行ってから、藍子は写真を見た。仲の良さそうな笑顔。こんな顔は、最近、自分には見せてくれたことがない。特に最近は、ずっと会話らしい会話をしていなかった気がする。
そう。私が精神科へ通うようになった頃から、特に。
辛さに比例するように、口の中から喉、胸、足の痺れや締めつけられる感覚が増してくる。この違和感は何なんだろう? どうして私が悪いことをしているわけでもないのに、私ばかり苦しまなければならないのだろう。
藍子はベッドに横になった。
また、涙が次から次へと流れてきて止まらなかった。
泣きながら、ふと、思い出した。
「サンプル……あの時にきいた言葉だ……」
藍子は、サイドテーブルの上のスマホを取り、メモを開いた。
彼に聞けばわかるかもしれない……。
しかし、それは自分自身を危険にさらすことになるかもしれなかった。
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