第6話

「藍子! 藍子! 大丈夫か?!」

 帰宅した洋介に発見されるまで、藍子は気を失っていたようだ。

「あ……洋介……私、どうしたの?」

「ここで倒れてたんだけど、どうした? 何があった?」

「あ……」

 猫のことが頭をよぎった。あれは、まさか、洋介が作った罠に?

「ごめん、買物に行ったら足が急に痛くなって。……無理して帰ってきたら目眩がして……」

「大丈夫か? 安定剤持ってこようか?」

「ううん、もう大丈夫だから」

 洋介に渡される薬が信用できなくなっていた。発作的に過剰摂取することがないように、医師が夫に管理するようにと渡していたのだが。


 夕飯後、藍子は、洋介に、薬はシートにつけたまま出してくれるように頼んだ。洋介は少し変な顔をしたが、すぐに、目の前でシートをハサミで切って、1回分の薬を藍子に渡した。

「ねえ、これ、一回一回は面倒だろうから、カレンダー型になっている『お薬ケース』を買っちゃダメかなあ?」

「大丈夫?」

「大丈夫だよ。過剰摂取なんかしないから」

「そうか。じゃあ、ネットで探しておくよ」

「ありがとう」

 藍子は、薬を洋介に任せるのが怖かった。



 数日後、寝室の掃除をしていると、洋介のベッドとサイドテーブルの間に、布のようなものがはさまっているのを見つけた。彼の悪い癖で、暑いと寝ながら服を脱いでしまう。

 ここまではハウスクリーニングの人も気づかなかったのかもしれない。引っ張り出してみると、案の定、洋介のTシャツだった。

「も〜、いつ脱いだTシャツよ〜?」

 臭いとわかっていて匂いを嗅いでみた。

「え……?」

 女物の化粧品か何かの匂いが混ざっている。

「えっ……? 洋介……?」


 自分は何も見ていない、何も知らない。そう自分に言い聞かせ、Tシャツを元の場所に戻した。


 今のギリギリ幸せな家庭を壊したくなかったのかもしれない。



 その日、洋介の帰りが2時間ほど遅かった。


 洋介のスーツに土がついていた。

「え? 洋介? どうしたのこれ?」

 藍子が驚いて尋ねる。

「ああ、帰る途中、ちょっと転んだ。ごめん」

「大丈夫なの? どこか怪我は?」

「いや、多分ぶつけたくらいだろ。傷はないっぽい。スーツはこの通りだけど」

「土をはらってから、クリーニングに出せば大丈夫よ。」


 そう言いながら、洋介のスーツを脱がす。

「Tシャツも着替えちゃって。それもなんか土が付いてるっぽいし」

「ああ、頼むよ」

 藍子はベランダでスーツとワイシャツの土を払ってから、洗面所に吊り、洋介に見つからぬようにTシャツを匂ってみる。

 女の匂いはしない。

 てっきり、女の匂いを隠すために、わざと汚して土の匂いをつけて帰ったかと思ったが、そうではなさそうだ。

 じゃあ、こんなに帰りが遅かったのは何故?

「ん?」

 この、微妙な生臭さはなんだろう? しっかりついているわけではないけれど、嗅いだことのない嫌な臭いがした。


「藍子、ごめん」

 背後から名前を呼ばれて、飛び上がりそうになった。

「な、何?」

「ちょっと土埃で気持ち悪いから、先にシャワー浴びちゃうわ、俺」

「あ、ああ。うん、わかった。洗濯物、こっちのカゴに入れといてね」

「了解」


 気持ち悪いから、先に風呂に入る……。藍子は考える。体から女の匂いを消すため? いや……さっきトランクス一枚の夫とすれ違った時も、女の匂いもシャンプーや石鹸の匂いもしなかった。

 転んだ? 2時間も転んでいた訳はあるまい。それに、あの異臭は、何? 

 全部の理由を、洋介の口から聞きたかった。そして、自分の疑念を晴らして欲しかった。けれど、ほんの少しのことで体調が悪くなって、また入院してしまうかもしれない自分。

 何も疑わず、このまま幸せに浸っていたい。それが本当に「危うい」幸せだとしても……。



「連絡入れなくてごめんな〜。急に残業入ってさ。で、慌てて帰ってくる途中でこれだろ? もうホント、参ったよ」

 風呂上がりにタオルで髪を拭きながら、洋介が言う。

「そう。お疲れ様」

「お、今日はトンカツか〜。美味そうだな〜。あ、俺、キャベツ少なめね」

「うん」

「……どうかした?」

「ううん、ちょっと今日は調子が良くないのかも。お薬飲んだら、早めに寝るね」

「そっか。いいぞ、洗い物なら俺がやっとくから、風呂入って寝ろよ」


 洋介は優しい。そう、優しくて正直な人なのだ。


 藍子は、そう信じることにした。

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