第5話

 入院は思ったより長引いたが、1ヶ月後、藍子は、やっと退院することができた。


 家に帰ると、藍子は、まずキッチンで1杯水を飲んだ。

 カウンターキッチンから、ダイニング、リビングを見渡す。随分綺麗に片付いている。キッチンもピカピカだ。

「随分綺麗に使ってたんだね」

 部屋着に着替えている洋介に話しかけた。

「綺麗な部屋に帰りたいだろうと思ってさ、ハウスクリーニングを頼んだんだ」

 洋介はTシャツを着ながら、笑ってそう言う。

「わざわざそんなことしなくても……。お金かかったでしょ?」

「藍子にかけてた保険があったろ? まだ請求はしてないけど、あの入院保険金と入院費の差額が結構あるからさ、この際、ここで使うか、と思って」

「ふぅん……まあいいけど」


 藍子は、入院保険金を1日幾らにしていたのか覚えてもいなかった。

「こことな、ここと、ここに、丸して。それで、ここに名前書いて、ハンコ押して、な」

 洋介に、そう言われるがままに書いて出した契約書だった。月々の保険料は、夫が払ってくれるのだから、ありがたく入らせてもらえばいい。そう思っていたのだった。



 それにしても、洋介が「部屋の汚さをなんとかしないと」なんて思うとは意外だった。

 お盆などに、藍子が4、5日実家に帰って家に戻ると、物凄い散らかり様だったから。

「まあ、1ヶ月も留守にしてたんだもの、あんまりにも酷すぎて、自力で片付けられなくなった、みたいなとこでしょ」

 藍子は、自分の退院日が決まって、片付けられないほど散らかった部屋に困惑する洋介の様子が見えるようで、クスクスと笑った。



 口の中や足の違和感が全くなくなったわけではない。が、他のことに集中していると気にしないで済むようになった。


「あ〜、やっぱり、こっちはダメかあ」

 外に出て、花壇や庭木を見て回る。

「そんなとこまで手が回るわけないだろ? こっちは仕事してんだぞ?」

 洋介が怒ったように言う。

「責めてない、責めてない。庭は、私がやるから大丈夫。ありがとね、洋介。」

 藍子は、にっこり笑って、そう言った。


 ほんの少し、以前とは違うけれど、なんとか元に戻れそうな気がしていた。

 以前の、幸せな家庭に。



 退院した翌日、藍子は早速、庭掃除に取り掛かった。

 落ち葉を掃いて、ゴミ袋に詰め込み、草を端から順に抜いていく。1ヶ月もいなかったのだ。草はかなり大きくなっていた。花壇の草を抜く時に、花まで一緒に抜けてしまうものもあって、花だけ元に戻したものもあったが、諦めて抜いてしまったものもあった。


 ふと気付く。

「あれ? 猫の臭いがしない……」

 猫の糞もなければ、尿の臭いもしなかった。猫が通り道を変えたのだろうか。草だらけになって、より住み良くなったのではないかと思うのだが。

 まあ、そもそも猫の考えてることなんかわからないし。通り道を変えてくれたならラッキーだと思い、それ以上気にすることはなかった。


 

 が、見つけてしまったのだ。近所のスーパーに行く途中で。


「あの猫……」


 いつも花壇を荒らし、家の裏を通って行っていた、あの猫に似た猫。毛がバサバサで、痩せているので、違う猫かもしれない。その猫は、野良猫にしては珍しく長毛種で、尻尾もフサフサだったのだ。

 でも、毛の色も全体的なシルエットもよく似ている……。

 猫と目が合うなり、シャアーッと威嚇してきた。私が嫌なら、知らん顔で通り過ぎればいいじゃないか。そう思って、藍子が猫に一歩近付くと、猫は逃げ出した。怪我でもしたのだろうか、後ろ足をピョコンピョコン引き摺るように、跳ねるように、走って逃げていった。


「後ろ足を怪我してる……」

 嫌な予感が頭をよぎった。


 足がズキズキと痛み始めた。

 気のせいだ。今、あの猫が、足を引き摺っていたのを見たから、自分の足のことを思い出しただけだ。

 

 気力を振り絞って、なんとか家にたどり着いた藍子は、玄関に倒れ込み、動けなくなった。


 気が遠くなる。

 薄れる意識の中で、藍子は思い出していた。あの日、庭に落ちていた食べかけの魚のことを。あれは、まさか……。


 もう何も考えられなくなって、藍子は意識を失った。

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