第2話
メンタルクリニックの待合室は、静かに優しいクラシック音楽が流れている。ビルの6階にあるので、道行く人からは絶対に見えないけれど、太陽を半分以上遮った窓が作る心地よい暗さが、気持ちをラクにしてくれる。
何よりも、病院特有の雰囲気や匂いや音がないのが助かる。段々落ち着いてきた。
呼ばれて、診察室に入る。優しそうな初老の男性医師だ。
聞かれて、藍子はこれまでの経緯を話した。
別室で、心理検査などを受けるように言われ、夫を待合室に待たせて、検査を受けた。
「これで何がわかるんだろう……」
藍子は半信半疑だ。
検査を受けて、また待合室で待って、診察室に呼ばれた。
「少し神経質なところは確かにあるけど……検査の結果をみる限り、その『違和感』について以外は、特別に気になっていることはないように見えますね……。何か他に心配事でもありますか?」
聞かれて、特に思いつかなかった。
「心配事に覚えがないなら、少しホルモンバランスなんかが悪くなってるのかもしれないね。専業主婦で、毎日同じことの繰り返しで、メリハリのない生活をしているからかもしれないし……。ええと、趣味はありますか?」
「はい。お菓子作りとか、編み物とか」
「いいですね。それを進んでやってみましょう。違和感が段々気にならなくなると思いますよ」
医師は、そう言って、安定剤を2種類ほど処方してくれた。
「2週間分ありますが、その間で調子が悪くなったら連絡してくださいね」
「良さそうな先生じゃないか」
帰りの車の中で洋介が言う。
「うん……ちょっと安心した」
「大丈夫だよ。良くなるって」
「うん……」
それから、次の通院まで、藍子は、時々趣味のお菓子作りや、サマーヤーンでの編み物、ちょっと遠くの店への買い物を散歩代わりにやってみた。
なるほど、気が紛れるからだろうか、口の中の違和感は、少しずつマシになりつつあった。生活にも張りができて、身も心も健康になっていく気がしていたし。
次の通院のときに、医師にそう伝えると、
「いい傾向ですね。このまま続けてみましょう」
と、同じ薬を処方された。
次の通院まであと5日という時、藍子は、足の指をぶつけ、筋を違えたようになった。
足のしびれ、締め付けられたような感じがあったので、整形外科に行く。
「骨に異常はありませんね。湿布で治ると思いますよ」
そう言って湿布を処方された。
また感覚がおかしくなった。
ぶつけたのは右足だけだったのに、左足までが痺れて、締め付けられる感じがしてきたのだ。
洋介に相談してみる。
「そうか……なんでだろうなあ」
「口の中の違和感も、また酷くなってきたんだよね……」
「うーん。俺によくわかるわけじゃないんだけど……、整形外科で神経の方の検査とかはしなかったの?」
洋介は、知人に、
「その可能性もあるって、検査をしてもらったんだけど、違ったみたいなの」
「そうか……」
「また『違和感』。なんなんだろう、これ?」
藍子は不安で仕方なかった。
病院帰りに、近所の人たち3人が立ち話をしているところに通りかかる。
「こんにちは〜」
藍子は関わるまいと、挨拶だけで通り過ぎようとした。
「あら、大野さん、足、どうかした?」
佐藤さんに尋ねられる。この町の二丁目の班長だ。
「足……ですか?」
「いや、なんか引きずってるからさ」
知らぬ内に痺れの強い方の足を引きずっていたようだ。
「あ、ああ。この前ちょっとぶつけちゃって」
「あらまあ、気をつけてね」
ありがとうございます、じゃ、失礼しますとにっこり笑って去るはずだったが、佐藤さんに呼び止められる。
「ねえ、聞いた? カラスの話」
「カラス……ですか?」
唐突に何?
「この辺だけカラスがいないよねえって、皆不思議がってるの。」
そう言われてみれば、昨日のゴミ出しの時にもカラスがいないなあとは思っていたが。
「さあ……わからないですねえ」
そんな話はどうでもよかった。藍子にはもっと大事な話がある。まあ、でも、確かに、この辺のゴミ捨て場にだけカラスがいないというのも、変といえば変だが。ここまで帰ってくる間にも、あらゆる場所で見てきたのに。
藍子は、また「違和感」を感じて、ゾクッと寒気がした。
「ただいまー。暑さが本格的になってきたなあ」
ネクタイを緩めながら、洋介が帰ってきた。
「おかえりなさい。あのね……」
「中に着てたTシャツさ、コピー機直してた時にインクで汚しちゃってさあ。もう使えないから捨ててきたよ」
「あ……うん」
「ホントにさあ、バカ野口のやつ、コピー機壊しやがんの。参ったよ〜」
……この人は、こんなに喋る人だったかしら? 会社のコピー機のことなど、藍子にはどうでもいいことだった。こんなくだらないことをべらべら喋るような人ではない。なんだか、本当の洋介ではないような気さえする。
「何か変」。疑いだしたら止まらないだけだ。藍子は、首を振ってくだらない妄想を振り払う。
「洋介、大事な話があるの。聞いて」
藍子は、洋介のどうでもいいお喋りを遮って言った。
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