違和感

緋雪

第1話

 きっかけは、とても日常的なものだったのだ。そう、特に何も珍しくもないことだった。



「あつっ!!」

 藍子あいこは、料理中に味見をしていて、不用意に、揚げ物を時間も置かず、口にしてしまった。

 当然のように、口の中を火傷した。

 仕方なく、氷を口に放り込みながら調理を続けた。


 その日の夜遅く。


「んー」

「どうかした?」

 夫、洋介ようすけが気付いて聞いてくる。

「口の中が変」

「変?」

「上顎の皮が剥けてる感じ」

「なにそれ?」

 藍子は、夫に、夕飯準備のときに口の中を火傷したことを話した。

「あ〜、火傷か。俺もたまにやるよ」 

「私もたまにやるんだけどさ、なんか、いつもよりひどい感じなんだよね」

「そうか。あんまり酷いようなら、病院行った方がいいかもな」

「そうだね」



 そのうち、上顎の皮がベロンと剥がれてきたのが、舌の先の感覚でわかった。

 藍子は、日数をかけ、少しずつ舌でそれを削いで、全部剥がした。

 よし、これで、この火傷とはおサラバだ。

 藍子は、やっと安心した。

 

 しかし、数日経っても、上顎の皮膚の違和感は治らなかった。


 何かがおかしい。剥がしたはずの上顎の皮が、ただれた感じで復活している。そして、剥がれてぶら下がっている。

 冷静になって、指で上顎をさわってみると、そこに全く異常はなかった。


 何日経っても治らない

 そのうち、その剥がれた皮が勝手に動くような気がした。

 何度自分の舌先で確かめても、指で上顎を触って調べてみても、何の異常もない。


 そんな日々が半月ほど続いて、藍子は我慢ができなくなった。

「病院に行ってこようかと思うんだけど……」

 朝食の片付けをしながら、洋介に言う。

「その方がいいかもね」

「うん。……でも、何科に行けばいいんだろう?」

「う〜ん、そうだなあ……」

 洋介がネクタイを締めながら、少し考えて言った。

「口腔外科? とかになるのかなあ?」

「そんな専門的なとこ、この辺にないよ?」

「とりあえず、近くの耳鼻咽喉科に行って相談してみれば? 必要なら紹介状書いてくれるだろ」

「紹介状かあ……どこ行けばあるんだろ口腔外科?」

「ん〜、大きな総合病院か、大学病院?」

「うわあ、やだなあ」

「とにかく、耳鼻咽喉科行ってみろよ。ごめん、もう行くわ」

 そう言って、夫は出勤してしまった。


「ふぅ……」


 溜め息ひとつ。一人になると、たちまち口の中の違和感が増してくる。


「中野さんでも行ってくるかな」


 洗濯機から洗濯物を取り出しながら、近くの耳鼻咽喉科へ行ってみようと思った。



「どうだった、病院?」

 会社から帰ってくるなり、洋介が尋ねてくる。メッセージで、病院に行ってくるということは送っていたが、結果は報告してなかったのだ。

「……薬をね、貰ったんだけど……」

 藍子は病院で貰った薬を夫に見せながら言う。

「あ、よかったじゃん。結局、何の病気だったの?」

「う〜ん……」

「どうした?」

 言い辛そうにしている藍子に、洋介が聞いてくる。


「『精神的なものだと思われるから、精神科に行ってください』って言われてさ」

「精神的なもの?」

「思い当たる節が全然ないんだけど……」

「そうか……」

「薬はね、『精神安定剤』みたいなものなんだって。先生が専門外だから、『効果があるかどうかはわからないから、なるべく早く精神科にかかってください』って、紹介状まで書かれちゃった」

「治すための薬じゃないんだ」

「そうみたい……」

「そうか……う〜ん……」

「どうしよう……精神科なんて行ったことないし。……なんか、頭がおかしいとか思われないかな、知ってる人に見られたら。」

「そんな風には思われないって。眠れない人でも行くんだから」

 洋介はそう言ったが、藍子の中は不安でいっぱいだった。

「……一緒に行ってくれないかな」

「……わかった」

 


 病院は、どこと決めてあるわけではなかった。紹介状にも、どこの病院にでも行けるよう、宛先を配慮してくれていた。

「ねえ、『心療内科』とか、『メンタルクリニック』とかじゃダメかなあ」

 助手席でボソッと言う。

 「精神科」と名前のついた病院へ向かう車の中だ。

「そうか……」

 洋介は、近くのスーパーの駐車場に車を停めると、スマホで駅の近くの「心療内科」や「メンタルクリニック」を調べ始めて、診察してもらえるかどうか、片っ端から電話をした。


 「『澤田メンタルクリニック』で診てもらえるって」

「ホントに? 良かった……」

 やはり、「精神科」と名前がつく所には行きたくなかった。最寄り駅からバスを乗り換えて4つ。家から近くではなかったが、バスしか移動手段のない藍子には助かった。


 こうして、藍子は「メンタルクリニック」へ通院するようになったのだった。

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