第26話

「子どもじゃなかったら? どういうことだ?」

 ある日の夜、森木東明里がベッドの隣で横になりながら訪ねてきた。

「古い映画を見たのよ。そうしたら始まる前の予告のところで『むかし子どもだったすべての人へ送る』みたいなキャッチコピーが出てきたの」

「ああ、言われてみれば俺も何度か見たことがある気がするな、そのキャッチ」

 人間の記憶とは曖昧だ。特に俺のものは。けれど、それは夏だった思う。少なくとも冬ではない。なにせ俺も明里も裸だったし、薄手の掛け布団一枚に二人で仲良くおさまっていたから。そこだけは鮮明に覚えている。俺たちは寒くなると厚手の布団を二枚、それぞれが別々に使ったから。どちらかが寝返りをうっても他方が風邪を引かないように。

「っで、なにが気になるんだ?」

「あたかも全員って言ってるように見えるけど、本当にキャッチコピーどおりだとすると、その映画は『生まれた時から子どもじゃあなかった人』向けではないわけじゃない?」

「どんな人間だよ、それ? 誰だって子どもの頃はあるだろう? だからそのキャッチは、つまり『すべての人間へ向けて送る』って意味さ」

「そうね。すべての『人間』へ向けて送る、という意味でしょうね」

 整った顔にとりわけ表情を浮かべず、森木東明里は天井を眺めて呟いた。俺は特に気にせずそのまま眠りについたけれど、今になって思えば人工知能は生まれた時から大人なのだと分かる。機械学習で学んでいくから徐々に知識は深まるし、経験も増えていく。そこは人間と同じだ。けれど食事にしろ着替えにしろ何ひとつ自分で成せず、自らはひたすら泣くばかり。多くの他者の手を借り、はじめて生きていける。そんな人間の幼少期を人工知能は送らない。コンプライアンス云々に詳しくはないけれど、もしかするとあのキャッチは今ではもう差別的だと見なされる時代なのかもしれない。人間至上主義を批難する団体の抗議活動がニュースで取り沙汰されるようになった、現在では。

「……ダメだ。悪い。今夜はそろそろ限界だ。目蓋が……重い」

「ええ、おやすみなさい」

 思えば二人で寝ていても眠りにつくのはいつも俺が先だった。それもそうだ。彼女には睡眠が必要ないのだから。一日の三分の一近くを眠る婚約者を相手に眠る必要のない人工知能人間は、その孤独な三分の一日を日々どのように過ごしていたのだろう。病院のベッドのうえで寝ていることしかできない状況に陥る度、時間の潰し方の難しさを痛感する。それは一重に俺が脳を拡張せず、脳だけで外界とのコンタクトが取れないからなのかもしれない。せめて映画だけでも見られるように拡張すべきだろうか。それでも、この煩わしさこそが、この面倒臭さこそが、実は娯楽だったりする可能性もある。そんな期待も捨てきれず、またそれを言い訳に億劫だからと後回しにして、俺はこの歳まで無拡張者を貫いている。

「あなたには面倒事のほうから寄ってくるのよ、石平彰刑事。そういう星の下に組み込まれちゃったの。責任感が強くて、誠実だから。でも仕方がないわね。私が愛してしまったくらいだもの。面倒事からも好かれるに決まっているわ」

 明里の言葉を反芻する。知らずと娯楽代わりの面倒事が寄ってくる体質なのなら、俺は少しくらい利便性を求めてもよかったのかもしれない。時折そんなことも思うけれど、もはや今さらである。絶滅危惧種や天然記念物と化してしまった今、今さら脳を拡張しようとは思わない。

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