第25話

 一秒、二秒、三秒。未だに追加される痛みがない。それでいて意識が遠退き、腹部の痛みが軽減されることもない。なにも変わらないことが異変である、とすぐに気づいた。もしや直前で怖気づき、狙いを外したとでも言うのだろうか。しかし、あのベテラン刑事の猫安が今さら覚悟を揺らすとも思い難い。俺は片目ずつ、ゆっくりと視界を開いた。

「メリークリスマス」

「……にんにく、臭えよ」

 同期の宮前野だった。その小太りな男が昼飯に食べた激辛ラーメンのにんにくの臭いを未だ振り撒きながら、掛けた眼鏡に水槽の青を映して俺を覗き込んでいる。どうして捜査一課がここにいるのだ。さておき、もしや猫安は射殺されてしまったのか。心配になって慌てて上体を引き起こす。痛みに堪えて暗室内に視線を這わせればベテラン刑事は傍らに転がって痙攣していた。

「血塗れのその状態で真っ先に他人の心配とは相変わらずのお人好しだな、石平さんは。しかも相手はお前を殺そうとした裏切者だぜ?」

 非致死性兵器のテーザー銃。過去には何度か死人が出たため非致死性でなく低致死性へと呼称を改められたものの、現在では技術の進歩に伴い、再び非致死性の名を獲得するに至っている。トリガーを引かれて飛び出した射出体が物体に衝突するとスイッチが入り、瞬間的に電流が流れる仕組みで、局所的な激痛や筋肉麻痺を引き起こさせる。命中させる場所によっては気絶させることもできる代物だ。そして眼前に崩れ落ちた猫安武は見事に気絶させられている。すなわち生きている、ということである。

「……宮前野……お前、な……来てたんなら……もうちょい、早く……なんとかしろよ。生きた……心地が……しなかったぞ?」

「ヒーローは遅れてやってくるってやつだよ」

 安堵するのも束の間、腹部を激痛が襲ってくる。どうやら立ち上がるのは無理そうだ。それどころか現状維持すら不可能に近い。ふっと力が抜ける。意図せずに再び冷たいコンクリートに背を預ける。身体の中から不平や不満が液体となって流れ出ていくような感覚がある。意識をしっかり保つ努力をしなければ悪態をつく気力すら失われかねない。痛みの影に潜んでいた寒気が徐々に表に現れ出す。いよいよもって悠長にしている時間はなさそうである。

「ああ、いや、その……石平さん? いや、石平さま? 怪我をして……ヤバそうなところを悪いんたが……俺は、今、生きた心地が……していなくて……だな? なんとかして……もらえないか?」

 大の字となった俺を再び覗き込みながら宮前野が何かに怯えるように背を気にしている。こちらを向いたまま視線を少しも振り向けず、しかしそれいて何某かからの脅威をひしひしと感じ取っている様子だ。俺の死角に伏兵でも潜んでいるのだろうか。もしこのタイミングで敵方に新手が登場するのなら、眼前の男は見かけどおり迂闊で間抜けな助っ人である。せっかく助かったと思ったのに実はぬか喜びだったなんて目も当てられない。

 直後、見上げた天井に蠢く何かを感覚する。小太りの同期の頭越しに何某かの気配が感じられる。蜘蛛にしては大きすぎる。けれど何かが天井面を移動しているのは確かだ。それが剥き出しの鉄骨を伝って移動していることが徐々に分かってくる。さらに目を凝らそうと細めれば、不意にその巨大な影がこちらへ急接近してきた。飛び降りたのだと分かった時には宮前野が蹴り倒されていた。そのまま襟元を両手で掴み上げられ、浮いた足をバタバタとさせている。

「……やめろ、香奈……そいつは味方だ」

「ちょっ!? 香菜ちゃん……マジで勘弁して。石平も……ああ言ってるし……」

 猫安武すら敵だったと判明した今、味方が誰かという問いは非常に繊細で曖昧だ。宮前野だって俺たちの対岸に陣を敷いている可能性もある。それでも敵方だとはっきりしていない今、というか例えはっきりしていたとしても、香菜に人を殺させるわけにはいかない。なにより今しがた俺が命を救われたのも事実である。

「……おい。待て。おい……香菜。香菜、やめろって。そこまで……だ」

 花澤木香菜の背がぶるぶると細かく震える。そうかと思えばしばし固まる。そして次の瞬間、宮前野守の大きな尻が仄暗い青色が映り込んだ固い床に叩きつけられる。まるで地下室の冷え込みが彼女の怒りを冷却してくれたかのよう。ともあれ、どうにか香菜は自制に成功したらしい。暗室か否かの違いはさておき、取調室に似た打ちっぱなしのコンクリートの床を転げて咳き込む同期の男を見ると、まるで一年前の己を見ているのではないかと錯覚する。中岡隆盛の顔までが思い出され、ほとほと師走には面倒事に巻き込まれていることを再認識する。それでも最後の最後はどうにかなっていることを思えば俺は他人より少しだけ幸運なのかもしれない。

 きっと安心したのだろう。張り詰めていた緊張が解けたかのごとく痛みが曖昧に和らぎ、俺の意識を薄膜が覆い始める。気づけば視界も揺らいでいた。そんな焦点の合いにくくなった目で朦朧と香菜の背を眺めていれば唐突に振り返った彼女の瞳と視線がぶつかる。花澤木香菜が森木東明里と同種の笑みをゆっくりとその丸顔に浮かべるのが見えた。口元や頬とは対照的に目だけが笑っていない。なにかしらを企んでいる時の、それだ。あるいは獲物を狙う肉食獣のような。刹那、香菜の姿が死角に消えた。咄嗟に俺は肩から首にかけて力を入れる。一拍遅れて首根に短く衝撃が走った。虚ろう視界にあっても見上げる天井がぐるぐると回り始めたことがわかる。

「どういうことなのよ、宮前野! まったくなんのために裏切者のあんたに協力してあげたと思っているの! 一体どうなってるのよ!」

「すまない。まさか石平が撃たれる……なんて……」

「このスパイ野郎、謝ってすむなら警察はいらないわよ!」

 まったくもって刑事の言葉とは思えない。遠くに途切れ途切れに香菜の怒声が聞こえる。狼狽える宮前野の声も。去年の反省を活かし、香奈の手刀を警戒したおかげで、かろうじてまだ意識を繋ぎとめられている。

「早く救急車を呼びなさいよ! 石平さんにもしものことがあったら、あんたも、その上も、全員殺すわよ!」

「そこは安心してよ。もう呼んであるから。応急処置ロボットを積んで最速で回してもらってる。僕としても同期の友人に大事があっては困るから」

 必死に繋ぎ止めてはいたものの、それほどを待たずして俺の意識は暗闇の中に溶けていった。香菜がナゴヤ本部に配属されてからというもの、宮前野とは捜査一課で同僚だったはず。それが裏切者とは穏やかでない。一体、どうしたのか。闇に吸い込まれる間際、俺は疑問に思った事柄をありったけ脳へ焼きつけた。まったく拡張されていない俺の脳へ。目が覚めた時にいくつかだけでも覚えていてくれることを願いながら。

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