第24話
ようようマスクを剥ぎ取った手が薄暗い地下室にあって尚、血に塗れていることが感覚される。己の血で濡れている。身をよじって仰向ければ傍らまで歩み寄った猫安に再び銃口を向けられる。
「……おやっさん、俺だ。石……平、だ」
「ああ、わかってるよ。最初からな」
「最初……から?」
「俺が刑事を何年やってると思ってるんだ? 舐めてもらっちゃあ困る。ひと目見た瞬間から、お前が俺の元バディだってことはわかっていたさ」
地べたに倒れる俺を嘲笑うように見下してくる猫安武の顔は、今までに見たことのないものだった。まさしく犯罪者そのもの。俺が知る穏和な先輩刑事の仮面を完全に脱ぎ捨てていた。口の中に苦い金属の味がし、鼻の奥を鉄臭さが塞いでくる。水嵩を増して表面張力を張る涙に視界が滲む。猫安の顔が酷く歪んで見える。
「しかし本当かよ? 人工知能人間同士で相討ち? まったく嘘みたいだな。願ってもねえ展開だぜ」
「おやっさん……どう……して?」
「まるで刑事ドラマや映画のワンシーンだな。なあ、石平? そうは思わねえか? ここで勝ち誇って調子に乗り、時間をかけてベラベラと喋る犯人、そんなのは間抜けだって?」
「……駆けつけた……味方に……やられるパターン……ですね」
「そうだろう? 俺は今の今までそんな状況に置かれた犯人の気持ちなんざ、さっぱり分からなかった。だから、ああいうシーンが酷く不自然に思えていた。馬鹿らしい、とな。まあ、ドラマや映画は創りものだから仕方がねえとも思ったものさ。だがよ、案外、あれはあれで的を射てるのかもな? お前を殺す前にどうにも説明してやりたい気持ちに駆られているよ」
「せめてもの情けとして……なのか、優越感に浸りたいから……なのか? どっち……ですか?」
「……お前ってやつは本当に不思議だな、石平? 嫌味なく、シンプルな疑問として、それを聞いてくるなんてな。それも、この状況で?」
「ドラマや映画では……よく見るシーンでも……実際にとなると、なかなか遭遇することのない……場面……ですからね。俺としては……刑事歴二〇年で初……です」
喉のほうに流れてきた血を吐き出そうとして俺の身体が反射的にむせる。咳の反動が穴の空いた腹に響き、激痛が走る。再び血が逆流し、咳き込む。腹を撃ち抜かれたというのに未だ痛みを感じなくなることはなく、麻酔を打たれたがごとく気が遠退くこともない。むしろ焼けるような痛みが意識をより鮮明にさせてくる。
「……まあ、たしかにな。俺なんて刑事歴四〇年で初だぜ? しかし、うーん、どうだろうな? 答えてやりてえんだが……俺自身がよくわかってねえ。難しいな。両方って感じか?」
「両……方?」
「人間ってのは本当にしょうもない生き物だぜ? この年になっても『俺はすべてを知ってるんだぜ』って調子に乗って優越感に浸りたい気持ちがむくむくと湧いてきやがる。それでいてバディだったこともあってか、お前に情が湧いてもいてな。あとは……そうだな。自己中心的な『許されたい』って気持ち……それもあるのかもな? まあ、単純に『誰にも話せない話を抱えてる』ってストレスに負けそうってのもあるんだが。誰かに話したい。でも話せない。そうだ。今から殺す相手になら話せるじゃねえか、ってな?」
「……それじゃあ、冥土の土産話を……頼みますよ」
「石平、お前は本当に不思議なやつだな? 命乞いをするとか、俺を批難するとか、いろいろとあるだろう? 想像できるパターンやらドラマや映画にありそうなパターンを裏切ってくるなよ。さすがに混乱するじゃねえか?」
「おやっさんにも……事情……あると思いますし、頭ごなしに……批難するのも……」
「まったく理想の上司だな。素晴らしい係長だよ、お前さんは」
あらためて見上げれば、どちらが素であるのか、猫安はすっかり俺の知る顔に戻っていた。先ほどまでは無理をして悪人の皮をかぶっていたのだろうか。あるいはテレビや映画からのインプットによって暗黙的に取り得る行動を制限され、自然と置かれた状況にあわせた役を演じてしまっていたのか。となれば台本から外れたことでアドリブをする必要が生じ、素が出たということになるのかもしれない。突きつけられていたはずの銃口も既に俺から外されている。
「葬式に来てくれたから、お前も知ってるだろうが……娘が……死んじまってな」
「まさか……殉葬って……やつ、ですか? 娘さんの墓の隣に、埋める……みたいな?」
「アホか。ここは古代エジプトでもメソポタミアでもねえ。というか、娘と面識も少ねえお前を、なんで殉死させるんだよ?」
「……実は、俺のことが好きだった……とか?」
「冗談だよな? それとも……お前……結構めでたいやつなのか? うちの娘は結婚もしてたし、子どもいただろうが? そもそも死んだのは七年前だぜ? 誰かを殺して一緒に埋め、あの世で世話をさせるにしても今さらすぎるだろう?」
それではどうしてか。この七年間、娘と孫の一人を失った猫安は刑事をする傍らで残された孫の世話に勤しんでいたらしい。今年で一七歳と一三歳、女の子と男の子の二人。母親と一緒に亡くなったのは長男で生きていたなら今は間の一五歳だったという。孫たちにとってのお婆ちゃん、すなわち猫安の奥さんは病気で早くに亡くなっている。次いで娘と孫の一人もということで、今は義理の息子と男二人で子育てをしているのだそうだ。息子と猫安の関係は良好とはいえ、義父と義子、互いに遠慮があれば気も使う。疲れることも多いらしい。それでも育児支援ロボットの手助けもあって上手く育てられているもの、と過信していたのだそうだ。最初の頃は。しかし日が経つにつれ、子どもたちが母親を必要する場面が散見されるようになり、あれこれ悩んでいるときにそれと出会ったのだという。
「トランスヒューマニズム教団? おやっさん……あそこの信者……だったんですね?」
「……とりわけ信仰心があるわけではねえけどな」
「復讐……ですか? 教祖の野津田健次郎を逮捕し……廃棄……送りにした、俺へ?」
「信仰心はねえって言っただろう。そんなんじゃねえよ。野津田健次郎も若本木規夫も、俺にとってはどうでもいいんだ。俺としては娘を生き返らせたい。それだけさ」
すべてを察することができた。トランスヒューマニズム教団の違法な試み。人格のデータ化や転写、さらには養殖人体の製造、猫安武はそれらに加担しているのだ。己が娘を生き返らせるために。
「野津田と……若本木の……あれも、ここで?」
「みたいだな。そのあたりは俺は詳しく知らねえんだが。とりあえず、ここに研究施設があって、ここの内容がバレちまうと娘を生き返らせられなくなるかもしれねぇ……って話でな。それもまだ二ヶ月くらい前に知らされたばかりなんだが」
「そうか、それで……おやっさんは一八係へ?」
「運良く異動希望者の募集されていたしな」
「……ここを隠し通せたら、娘さんのこと……なんとか、なりそう……なんですか?」
「重ねて言うが、お前は本当に不思議なやつだな? もしかして人工知能人間なんじゃねえか? 普通じゃあねえぞ? 腹から血を流しながら生死の境で俺の方の心配をしてくるんじゃねえよ。お前のその目……場合によっては協力しますよ、って感じじゃねえか?」
「……もしも技術的に……大切な人を生き返らせられるんなら、そりゃあその方が……良いじゃないですか? 七〇とか過ぎて……ほぼほぼ寿命を真っ当された人だったならまだしも事故や事件や病気で……早くに亡くなられた人の場合は……特に」
けれども現実はやはり厳しく、そんなに簡単には人間は真なる神の領域へと踏み込ませてもらえないらしい。現時点では『人工知能を形成する人格データの人体への転写』のみ実現可能という状況で、いわば去年の野津田の頃から進歩していないそうだ。つまり人間の脳からの人格の抽出がまだ実現できていないらしい。
「……そもそも三年前に……亡くならてしまっている娘さんの、人格データって……どうやって……復元する……んですか?」
「墓に埋めてある骨から? DNAの抽出とかするんじゃねえか? まっ、難しいのはわかってるさ。可能性がゼロじゃねえってだけで俺に取ってはありがてえ話なんだから」
薄暗い地下室で血の足りない瀕死の際にあって尚、否、だからこそか、猫安の表情がはっきりと知覚できた。それでいて眼前の男の内心を推し量ることはできそうにない。少なくとも人生の先輩にして警察官の先輩でもある男が複雑な思いを抱えていることだけは察せられるけれど。
「おやっさん……ひとつ、聞いても?」
「なんだ?」
「なんで人間の脳からは……人格を……抽出できないんですか?」
「お前な、もうちょっと目の前の……今の状況とか、俺の事情の深堀りとかよ。そういうのに意識を向けろよ? 聞きたい疑問がそれなのかよ?」
「いや、まあ……気になっちゃって……」
「そもそも人間の脳から情報を人格データに変換するのが難しいらしいぜ?」
「人工知能人間の野津田は……人間である若本木の身体に人格転写した後、元に……戻れなくなっていました。元はデータ化された人工知能の……人格なのに」
「ああ、俺もそれが疑問なんだ。人間の脳にはなにかしら天然のセキュリティでもかかっているのかもな。今の人工知能ですら突破できねぇほどの」
「ありがとう……ございました。それじゃあ、そろそろ頃合い……ですね?」
「そろそろ、だと? お前、時間稼ぎをしていたのか?」
「違いますよ。聞きた……い、ことは、聞けた……から。そろそろ終わりにしてもおうかって。いい加減……痛くて。次の一発で……きっちりと仕留めてくださ……いね?」
這ってみると顕著にわかるけれど地下室は床に近いほうが仄暗かった。対して見上げる天井は夜よりも深く暗い。剥き出した鉄骨が縦横無尽に走り回っている様も目を凝らしてどうにか確認できるぐらいである。俺の腹よろしくどこかに穴が空いていないものか。分厚く冷たいコンクリートや重たく固い金属の蓋で閉ざされている地下室だ。隙間など望めるはずもない。けれど可能であれば最後に空を拝みたい気分だった。痛みが引かない。意識が遠退かない。それでいて手足はまるで動かせない。指の一本さえも。既に心が諦めているからだろう。『動かない』『動けない』でなく、実のところ『動かさない』なのかもしれない。たしかに眼前の猫安を前にして最後まで足掻こうという気持ちは湧いてくれない。逆に抗うことが煩わしいとさえ感じている。
「……悪いな、石平。もしも実現できるようになったら……俺がお前を蘇らせるからよ」
「やめて……くださいよ。やってみて、俺が……生き返るとも……限らないし、たとえ俺が……生き返れたとしても……別の身体で……ってなると、本当に……俺なのか、どうなのか……」
「気持ちはわからんでもないが、さっきも言ったとおり、俺には自己中心的な許されたいって気持ちがあるからな。そいつは聞けねえ頼みさ」
「それじゃあ……味閃の……激辛ラーメン、煮玉子トッピング……にんにくチャーハン……つきで、手を打ちます」
「ああ、いくらでも奢ってやるよ。だから、まあ、大人しく生き返らせられてくれや」
穴の空いた腹から発されるのは痛みのみ。とりわけ空腹は感じない。それなのに真っ先に味閃のラーメンが思い浮かんだのはどうしてだろう。己でもわからない。今日の昼前に宮前野と話をしたからだろうか。走馬灯というものは映像だけでなく匂いまで再現されるのかもしれない。塗れた血の臭いの合間に微かに感じた気がするのだ。蘇る過去の映像とともに、にんにくの臭いを。そういえば猫安は宮前野を疑えと言っていた。実際はその猫安の方こそ警察という組織の内部に潜む裏切者だったとは、まったく驚きである。
……組織の内部。組織。警察組織でなく、例の。あの方と呼ばれる存在のいる組織。
不意に姿の見えない巨大な組織の存在が思い起こされた。警察の上層部にも喰い込んでいるというそれは俺には尻尾どころか影さえ見えない。猫安もその組織というものに唆されているのだろうか。あるいはドローンによる電波で洗脳でもされているのだろうか。どちらにしろ今ここで潰える俺には関係あるまい。自然と目を瞑っていた。暗室の薄暗さから孤独な暗闇へ落ちていく。森木東明里と飲んだコーヒーよりもずっと深く、静かな黒に包まれる。撃鉄を起こす音が頭の近くで聞こえた。天国か地獄かはさておき、あの世というものは実在するのだろうか。そう考えるのは本日二回だ。もし存在するのなら俺が逝った先で明里や中岡といった人工知能とも逢えるのだろうか。刹那、銃声が鳴った。一発目の時よりも軽く弾けるようなそれが地下室に響いた。
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