第22話

 呆然と立ち尽くすより先に身を翻し、俺は本能で走っていた。桜木が燃え上がりながら追いかけてくる。両脇に並ぶ水槽の間を駆け抜け、ともかく奥を目指す。背に熱を感じる。火の雨。炎の雫が落ちるたび、コンクリートが蒸発する音が聞こえる。水溜りならぬ炎の溜まりが広がり、入口に近い側の水槽から赤い光に炙られていく。俺のカメレオンコートも仄暗い青から明るい赤へと色を変えているかもしれない。

 静から動へ。あまりに急激な展開に状況が把握できない。青い静寂から一転、真っ赤な喧騒に包まれた地下室。首だけ振り返れば階下から濛々と黒い煙が立ち上り始めている。間近まで追いついてきた相棒はさながら火の玉のよう。どうにか一時的な猶予を得られるところまで走り切るも、そこで地面に倒れ込む。俺は足を止め、再び身を翻し、拳銃を構えた。倒れた桜木綾の近くの水槽を撃つ。養殖の人体が格納されている、それだ。穿たれた穴から水鉄砲よろしく液体が吹き出す。二発、三発、四発。四つ目の穴が空くなり亀裂が入り、次いで水槽が盛大な音を立てて砕け散った。液体が一気に溢れ出し、桜木の身体の炎を洗い流す。人間めいた皮膚や髪をすべて焼失した桜木はどうにか人型ロボットの形状を保っているけれど、あわせて外見的な個性をすべて失っていた。まるで倉庫内に転がる鉄骨を組み合わせて造られた骨組みのよう。掃除用ロボットや洗濯用ロボットよりも無機質な大昔のロボットめいたその姿、そちらの方が安堵を覚えるのはおそらくは明里の姿でなくなったからだろう。

「桜木刑事、大丈夫か!」

「トクニ、モンダイ……アリマ……セン」

「大ありって様子じゃねえかよ!」

「イシダイラッ!」

 ラグビーのタックルよろしく森木東明里もとい桜木綾の皮が剥がれたヒューマノイドロボットが突進してくる。抱きかかえられ、倒されるのでなく、そのまま奥へ。さらに奥へ。見た目には損傷を受けていそうな様子ながらも俺を肩に担いで楽々と運べるあたり、さすがは人工知能人間であろう。

 しかし今さら慌てて飛び出すとは一体どうしたことだ。未だ刻々と広がりを見せているとはいえ、ひとまずは炎の絨毯からは離れられたはずなのに。部下の女性刑事に抱えられ、地に足が着かぬ状況ながらも、俺はさらに離れていく階段の側を目を細めて覗う。爆発でも起こりそうな予兆がみられるのだろうか。けれど生身の人間の目では黒煙に邪魔をされ、いまいち状況がわからない。

 刹那、俺でもわかる轟音が、それこそ大きな爆発音が起こり、間髪入れずに階段の上から巨大な火の玉が降ってくる。炎の中心に人影が見えた。先ほどの桜木綾と同様に火だるまになった人間だった。しかも落ちてくるなり立ち上がり、赤々と燃えながらもこちらを目掛けて駆けてくる。生身の人間でないことは明らかだった。

「……な、んだありゃ? 桜木刑事! あれは!?」

「ウメハラダユウイチ、デス」

「梅原田だって!?」

 猫安と香菜はどうしたのか。なにより梅原田はなにを目的として炎上してまで地下室へ飛び込んできたのか。瞬間的にあれこれと思考が回る。不意に梅原田がステップを踏み、斜めに斬り込むように走った。養殖人体の側の水槽を一つぶち破っては液体を浴び、同様に次を。次を。二つ、三つ、四つ。次々と壊しながら迫ってくる。桜木と同じ方法で体表面の消化を終えた梅原田もまたすっかり個性を失っていた。金属めいた人型の骨組みのみ。外見だけでは、もはやそれぞれの区別がつけられない。

「……オイツカレ……マス。フリキレ、マセン。ココデ、ゲイゲキシマス」

 迎撃します。桜木が言う。不意打ちで炎に巻かれた桜木綾と火の海だと認識したうえで後から飛び込んできた梅原田裕一だ。ボディの損傷面では桜木のほうが分が悪かろう。少なくとも彼女は脚部へダメージを負っている。警察官として造られた新型の桜木とはいえ、そのビハインドを仕様の差で埋められるだろうか。そこでふと疑問を抱く。そもそも梅原田はなにを目的として造られたヒューマノイドロボットなのか。

 桜木が肩に担ぎ上げた俺を減速せずにそのまま両手で押し出した。再び宙を舞う俺を他所に彼女が足を止めて振り返り、梅原田を前に戦闘態勢に入る。これが走馬灯だろうか。未だ地に足の着かぬ俺は慣性によって後ろへ飛ばされながら、二体のヒューマノイドロボットの激突をスローモーションで視界に捉える。桜木綾が先手必勝とばかりに地を蹴り、右ストレートを放つ。的を絞らせないよう小刻みに頭を振る梅原田が低い姿勢でそれをかわす。そのまま全身して桜木の懐へ。桜木はすぐさま撃墜用に膝蹴りをお見舞いしようとするも、やはり脚部を損傷しているらしい。よろけて不発に終わってしまう。

「桜木っ!?」

 胴回りががら空きだった。そのままタックルを受け、マウントポジションまで取られてしまえば勝ち目は薄い。けれど次の瞬間、俺の彼女への心配は杞憂に終わる。梅原田は桜木綾に構うことなく、その脇を抜け、一直線に俺を目指してきたからだ。

 ──死。

 確かな、そして確実な『終わり』を意識させられた。生身でロボットに衝突されるのはダンプカーに轢かれるに等しい。相手が狙いを定め、敵意を持って突っ込んできた場合、直撃すれば即死もありえる。下手に瀕死で生き残るよりは、いっそその方が幸せかもしれない。時がゆるりと流れる視界の中で俺はそんなことを考えた。脳裏を森木東明里と花澤木香菜の顔がよぎる。前者は明里の顔なのか、はたまた桜木綾なのか。二人の違いどころか、なぜだか香菜との境いまでが曖昧にぼやけてくるから不思議だ。三者の輪郭が熱に溶けて一つの炎の塊と化す様がイメージされる。もう目と鼻の先にまで梅原田が迫っていた。

「イシダイラッ!?」

 桜木の叫び声が聞こえる。万事休すだ。今年も師走は乗り越えられなかったどころか、『石平彰』は『エピソードⅦ』で最終章を迎えてしまうらしい。クリスマスプレゼントの役割も果たせず、こうして捜査半ばで戦線離脱することになろうとは些か悔やまれる。そういえば天国か地獄かはさておき、あの世というものは実在するのだろうか。もし存在するのなら俺が逝った先で森木東明里や中岡隆盛といった人工知能とも逢えるのだろうか。突発的に風の切る音が耳元を抜ける。何事かと我に帰れば予想に反して梅原田が俺の脇をもすり抜けていく。さらに先を目指して駆けていく人工知能人間、彼が立てた風に肩を押されて尻もちを着いた俺はいきおいそのまま後ろ回りをした。水槽の割れる音が回転する視界に響いてくる。どうにも背筋が震えた。目蓋の裏で森木東明里が、そして花澤木香菜が、烈火のごとく怒っていたから。「生をあきらめるとは何事だ」「死を受け入れるとは何事か」と。たまらず跳ね起き、状況把握に努める。生き残っているという奇跡を噛みしめるのは己がたしかな生存を確認してから。振り向いて視線を巡らせれば梅原田が砕け散った水槽の中で眠ったように動かない。その両の腕に養殖人体が抱きかかえられている。

「……ナル、ホド。ソウイウ……コトダッタ、ノネ」

 眼前のヒューマノイドロボットがつぶやいた。一体どういうことなのか。なにを納得したのか。確認する前に桜木だったロボットも梅原田よろしく俺の脇を抜け、残る養殖人体の水槽へ頭から突っ込んでいく。呆気に取られた俺を他所にまたしても階段の側で爆発が起こり、さながら特撮映画といった光景に包まれる。なにがなんだかさっぱりわからない。ともあれ奥に退避して正解である。あれだけの爆炎に巻かれては生身ではひとたまりもない。しかし安心してもいられない。状況不明なれど一つだけたしかなのは、あの火の海を突破しなければ地下室から脱出できないということ。そして俺には時間も残されていないということ。黒煙が地下室を満たし始めていた。燃え盛る炎が酸素を燃焼させていく。

「……あ。あ、あ。あ、あ、あ。あいうえお。あい。い。い……石平係長?」

 聞き慣れぬ女性の声。この非常事に輪をかけて混乱を生じさせてくるのは見知らぬ女性だった。それも裸の。黒煙で視界が悪かろうと、酸素不足が始まろうと、彼女が幻覚でないことだけはわかる。エキゾチックな目鼻立ちや扇情的で肉厚な唇。豊かな胸に引き締まった腰。モデルのように長く伸びる手足。褐色に近しい肌のハリウッド女優さながらの美人。間違いなく覚えがない。一体何者なのか。どこから現れたのか。俺たちより先に地下室に潜んでいたのか。あるいは例の怪しげな組織に拉致でもされたのか。なにより疑問なのは、どうして俺の名を呼んでいるのか。

「石平係長! これをつけてください!」

 窮地に援軍が駆けつけるのは物語の常だろうけれど、それが見ず知らずとは石平彰『エピソードⅦ』は一体どんな安物のミステリーなのだ。ともあれ放物線を描いて黒っぽい何かが飛んでくる。その向こうで先ほどの女性がガスマスクらしきものを装着する様が見える。スキューバダイビングで使うようなゴーグルと呼吸機が一体化したマスクが俺にも放られたのだと察する。キャッチするなり慌てて身につけた。黒いラバーを引き伸ばし、頭部全体を覆うようにかぶる。汚水の濾過装置に似た仕組みなのだろうか。酸素ボンベがない。周囲の空気から有害物質を廃し、人体に必要なものだけを吸い込ませてくれる仕様なのかもしれない。あるいは何かしらを元手にマスクの中で酸素を生成してくれるのか。

「念のために身体に二つ備えておいて助かりました」

 無類のスタイルを誇る全裸の美女が駆けよってくる。裸にラバーの質感をもった黒の全頭マスクとはどうにもたまらない。目のやり場に困るとはまさしくこの状況だ。彼女が身体に二つ備えている凶悪な膨らみにどうしても注意を引かれてしまう。もしも脳を拡張していたならば、こうした時に視線を矯正することもできるのだろうか。

「……ああっと、石平、係長? すいません。その、私の身体……というのは、こちらのことでなく、あちらの……です」

 マスク越し、ゴーグル越しにも、不躾な視線を感じ取ったらしき女性が、細く長い指で砕かれた水槽の側を指し示す。桜木綾だったヒューマノイドロボットの抜け殻が破片の中に倒れている。

「んっ? 俺を係長と呼ぶってことは桜木刑事……なのか? っと、悪い!? とにかく、これを着てくれ!」

 中岡の遺品がこんなところでこんな形で役に立とうだなんて。羽織っていたカメレオンコートを彼女にかける。見ればやはり炎の色を吸って赤みを帯びていた。コートのほうが俺よりも遥かに現状に適応していた。

「係長、詳しい説明は後です。私は桜木綾です。そして梅原田裕一は味方でした。彼はハメられたんです。そして、後ろに」

 桜木の視線を受けて振り返れば後方に一人の男が立っていた。身長は一八〇センチ代後半、あるいは一九◯センチあるかもしれない。均整の取れた肉体というよりは少しばかり歪、筋肉隆々だ。肥大化した大円筋や上腕三頭筋が邪魔をし、脇が締められなさそうである。その様はさながらボディビルダーを思わさせる。顔立ちはわからない。デザインこそ多少違えど、彼も黒の全頭マスクを装着しているから。もしや災害対策用マスクは人工知能人間の必須装備なのだろうか。さておき言わずもがな全裸である。そのうえ俺にはもう貸し出せる衣類はない。今は生き死の狭間における非常時、ひとまず見た目のことは横に置いておくしかない。

「……お前が? 梅原田なのか?」

 卯なか富士で配膳をしていた時とはあまりに身体つきが別人であった。驚きを隠さぬままに俺が問えば巨漢のマッチョが首肯する。その後ろ、砕かれた水槽の中に、先ほどまで梅原田裕一だったヒューマノイドロボットの残骸が倒れている。

「よし。そっちが桜木刑事で、こっちが梅原田裕一だな。細かいことは後にして、まずはお前たちを信じる。どうにか全員でここから脱出するぞ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る