第21話
倉庫への先回りを試みる中、カーナビを覗けばさすがに赤い点に減速が見られる。いくら梅原田裕一の自転車がロボットの全力に耐えられる仕様であり、最高速度として時速二〇〇キロが出せる代物であったとしても、雨あられのようにドローンが体当たりしてきてはスピードも落ちよう。さらにはこうした場合に常時備えているナゴヤの街が味方してくれている。空からのドローン監視は元より、地上を走る掃除用ロボットまで追尾してくれるのだから、梅原田も堪るまい。
「どうやら俺たちのほうが先に着けたな」
「ドローンを二六台も突撃させましたからね。もとい、ただいま二七台になりました」
後からの請求金額が恐ろしい。ともあれ俺と桜木は梅原田よりも先に川沿いの倉庫に到着することができた。おやっさんと香菜は自転車と自動車で、目下、チェイスの真っ最中だ。互いに見える距離にいるらしく、時おり香菜からドローンが自分たちに当たりそうだったではないかといったクレームが桜木に飛んでくる。
「こちら石平だ。先回りに成功した。シン川沿いの奴の倉庫だ。今から中を強制捜査する。捜索許可は桜木刑事がちょうど取得を完了させたところだ。天然の鰻の無断乱獲の疑いでな。おやっさんと花澤木刑事は梅原田相手に無理をしすぎないように。相手は人工知能人間だ。まともに対峙できるのは桜木刑事だけだということを忘れるな。自分たちの身の安全を最優先に考えてくれ」
どうにも役割分担を間違えた感がある。相手は日本に数えるほどしかいない人間を超越した存在、ヒューマノイドロボットだ。逃走したという現状から鑑みれば、野津田健次郎の時のように明確な敵意をもって攻撃してこないとも限らない。むしろ、その可能性が高い。となれば対処は同じ人工知能人間の桜木を擁する俺のチームが担当すべきだった。勢いに任せるあまり役割分担を見誤ってしまったかもしれない。
「石平係長?」
「……いや、なんでもない。行くぞ」
パトカーを止めたのは川の両岸に並び立つ倉庫地帯の一角だ。シン川はショウナイ川の右岸を並行して南下し、イセ湾へと注ぐ一級河川である。また江戸時代に開削された人工河川でもあった。有堤河道で川幅は広いところで一二〇メートル。対岸を目視できなくはなく、かといって橋でもなければ渡れる距離でもない。川沿いとあって車を降りるとさらに風が強く感じられた。卯なか富士を出たときとは比べ物にならない寒さにコンクリートの色を浮かべたカメレオンコートの前をあわせて石のように縮こまる。相棒はといえば、まったくもって涼しい顔をしていた。中岡隆盛の時といい、どうして俺のバディはいつもこうした部分で共感を得られないのだろう。
「石平係長?」
「……いや、なんでも……ない」
梅原田の倉庫は並び立つ工場や貸し倉庫の中の一つで、まさしく川沿い、堤防沿いに建てられていた。大きさはナゴヤ本部の逮捕術道場くらいの広さであろうか。一階建てだ。細い道路を一本隔てて川側へ扉を向けている。両開きの扉はチェーンでぐるぐる巻きにされたうえ、南京錠がかけられていた。それを桜木が無造作に引き千切る。森木東明里の容姿でそれをされるから、なんとも複雑な気持ちになる。といって明里もヒューマノイドロボットだったのだから素手で鎖を引き千切るくらい雑作もなかったのだろうけれど。
「先行します。石平係長は援護をお願いします」
「わかった。気をつけろよ」
窓のない倉庫の中は暗く、むき出しのコンクリートの無機質さも相まって、風が吹かないのにも関わらず、屋外よりもさらに冷たく感じられた。まるで冷蔵庫だ。いっそ冷やしているのではないかと疑いたくなる。桜木が電気系統に干渉して灯りをつける。中は荷昇降式スタッカークレーンを用いた立体型自動倉庫であった。構造は一見して巨大迷路のようだけれどアミューズメントパークのそれとは色味がまるで違う。曇り空のような濁った色の鉄骨や金属ラックが複雑に入り組んで構成されている。
一目見た瞬間に違和感を覚えた。重苦しい静寂に長いこと支配されているような感があり、稼働している兆しが見えなかったのだ。機器や部品類が棚だけでなく足元にまで散らばっている。さらにはその多くが埃をかぶっている。その様はさながら廃倉庫、使われなくなって久しいものと思われる。かつての物流拠点か何かの一部をそのまま使っているのだろうか。
蜘蛛の巣よろしく鉄骨が張り巡らされている倉庫は見通しが非常に悪かった。これでは何が出てきてもおかしくはない。梅原田裕一が潜んでいないことだけは確かだけれど、かといって他の誰かが倉庫番をしていないとも限らないし、そもそもが自動倉庫である。保管用ラックへの物品の取り出しや格納を目的とするクレーンはラック上部に備えつけられたレールに懸垂され、制御信号に応じて上下水平に自動走行する。人工知能人間であれば、これを自在に操作して攻撃してくることも不可能ではなかろう。
どこかにヘルメットでも転がっていやしないか。人工知能人間のバディの後ろに続き、俺は中腰で慎重に奥へ進む。どこかに釣った鰻を入れておく水槽があるはずだ。それから梅原田が警察から逃げた理由である何かも。へっぴり腰気味の俺とは対照的に眼前の桜木は確信を持った足取りで一直線に進んでいく。無知の蛮勇に見えるあれで、その実、視線の先だけでなく周囲すべてをスキャンしているのだから人間の刑事では十人がかりでも敵わない。一人いるだけで捜査のスピードが格段にあがるのだ。
「石平係長、この先です」
「何かを見つけているのか?」
「はい。地下室へと続く隠し階段です」
開いた口が塞がらない。ゲームや漫画じゃあるまいし、隠し階段とは恐れいる。桜木が壁際にあるラックの支柱を両手で押して横へずらす。ワンボックスカーほどのサイズの棚が壁沿いにずれ、それまで塞がれていた位置に地下へ続く階段が現れる。
「……桜木刑事、その棚の重さを算出できるか?」
「ざっと二トンほどでしょうか?」
まさしくワンボックスカーの車両相当の重量である。タイヤのついていないそれを動かすだなんて人間には簡単にはいかない。そういった意味では電子的な暗号技術よりも、この物理的なセキュリティはよほど強固にして堅牢であろう。捜査二課の他の係、一課であろうと四課であろうと、おそらくは突破できなかった。ヒューマノイドロボットがいなければ発見すら難しかったに違いない。カメレオンコートの内ポケットから捜査用端末を取り出し、猫安と香菜に現状確認をする。梅原田とは未だ接近状態にあり、倉庫から七分ほどの場所をこちらへ向かっているところだそうだ。
「花澤木刑事、おやっさん、聞こえるか? 倉庫内に怪しげな隠し階段を発見した。これより桜木刑事と捜査に移る。そっちはまだチェイスしているんだろう? 花澤木、絶対に無理はするなよ? 深追いは禁物だ。いいな?」
「わかってま……って、いま運転中なんだから邪魔しないでくださいよ!」
「……ああ、悪い」
「というか、地下の隠し部屋に男女二人で潜入っておかしくないですか! お化け屋敷デートみたいで間違いが起こらないとも限らないじゃないですか!」
「……お前はこの非常時に一体なにを言っているんだ」
「梅原田はすぐに片付けるので、ちょっとそこで待っていてください! まだ捜査に移らなくていいです!」
「通信……切るからな」
香菜が最後まで騒ぐのを無視し、俺は端末をポケットにしまい直して静寂を得る。思えば明里とはお化け屋敷になど行ったことがなかった。日々が忙しかったからか、かつての俺はたまの休みは家でゆっくり過ごしたかったし、休みの時ぐらいドローンの目から逃れて気を緩めたかった。そのうえ人混みが嫌いだった。幸いにも森木東明里もそこだけはステレオタイプの科学者のそれに当てはまってくれ、同じく人混み嫌いだった。だからデートはもっぱらインドアだったのだ。稀に二人で外出するにしても人のいない場所が大前提、集約都市から外れた隠れ家的なコンクリートジャングルでのキャンプがほとんどだった。
「今日はやけに機嫌が良さそうだな、明里は?」
「天気が良くて最高のキャンプ日和だもの。それに好きなのよ、この辺りが。ねえ、彰は知ってる? あそこに大きな木があるじゃない? あの近くって昔は産廃場だったのよ」
「知ってるよ。よく出入りしていたからな」
「彰が? そうなの?」
「うちは貧乏だったからな。俺にとって森の東側のあの辺りはガキの頃は宝の山だったんだ。パソコンにゲーム機にスマホ、タブレット。テレビ。まだ使える電化製品が山のように積まれていてな。あれこれ持ち帰っては直して使っていたんだ」
「……へえ、そうだったんだ」
「働くようになってから? いや、成人したくらいからか? 時間がなくなって、すっかり足が遠退いてるけどな。集約五大都市外はタクシーやバスが向かってくれないだろ? 今日みたいに歩くか、自転車か。ともあれ自力しかない。それにしてはちょっと遠いんだよな、あそこは」
「彰が宝の山って呼んだあそこね、今は別の呼ばれ方もしているのよ?」
「んっ? なんて言うんだ?」
「人工知能の里。野良の人工知能がたくさんいるんだって」
「野良の人工知能? 野良って? 野良犬の、野良か?」
「ええ、その野良よ」
「ああ、人間に管理されていないって意味で野良ってことか?」
「そうね。でも正確には人間に忘れられた……なんでしょうけど。コンパクトシティ計画で人間の九九パーセントが五大都市に集約されたじゃない? その時に地方に置いていかれたパソコンやタブレットって、どれくらいあると思う?」
「……ああ、そうか。その中に人工知能が残されているんだな」
「なによ、そんなに申し訳なさそうな顔をして? 彰はいつから人間代表になったの? あなたって飄々としているように見えて、変なところで責任感を発揮するわよね? 人類最後の砦って感じ? 俺がやらねば誰がやる的な?」
「そんなことはねえよ。明里が知らないだけで俺は無責任の代名詞なんだぜ?」
「知ってるし、そんなことあるのよ。そんなことよりも、ねえ、彰、人間ってどうしたって相手の見た目に左右されるじゃない? あれってなんでかな?」
廃屋八階の窓から外を見渡せば、周囲を囲う朽ちかけた廃ビルの山々はすっかりシダ植物やつる系のそれに覆われ、外観は紅葉の時期を反映して赤や黄で染めあげられている。かつてはそれなりに大きな都市だったらしい廃墟には人間の住んでいた痕跡が今なお色濃く残されている。コンパクトシティ計画でもぬけの殻と化した大型商業ビルの八階のスポーツ用品店売り場の残骸、明里と二人でここを今夜の寝床と決めた。テントを張って湯を沸かし、そしてコーヒーを煎れる。
「他に個人を見分けられる方法がないからじゃあないか? 外見以外では?」
「メラビアンの法則ってこと? 人は人とのコミュニケーションにおいて、言語情報が七、聴覚情報が三八、視覚情報が五五パーセントのウェイトを占める。たしか心理学上の法則だったわよね? だから言葉よりもボディランゲージとか表情といった非言語コミュニケーションが大切になる、とかなんとか?」
「メラビアン? なんだそれ? そういう小難しいのは俺は全然わからないんだが……。なんていうか、そんなに難しいことじゃあなくて、逆に容姿以外でとなると……声や性格? あるいは考え方とかになるのか? 他に何で見分けられるんだよ?」
言われてみればとばかり明里が急に表情を引き締めた。いつもの余裕のある笑みを消し、ぞっとするような鋭い表情を浮かべる。その白磁よりも滑らかで白い両手でステンレスのキャンプ用のカップを覆い、そこに注がれた深い漆黒の液体を覗き込んで。
「……盲点だったわ。あなたのような無拡張者の場合、デジタルマイナンバーカードの情報を共有するとか、生体情報を公開して相手に己という個人を知ってもらうとか、そういったことができないのね? さすがは天然記念物級の絶滅危惧種ね」
「脳を拡張してると、それが当たり前なのか? 俺にはそっちの方が驚きだよ。相手の頭上にマイナンバーか、あるいはマイナンバーから変換された名前でも表示されていたりしてな? まるでゲームみたいに」
「ええ、そうよ。もちろん個人情報の公開範囲は自分で選べるから、誰彼構わず四方八方へ名乗っているような人は少ないけれど」
「……冗談……だったんだけどな。本当にそんな感じなのか、みんなは? そうなると人の名前を覚えなくていいんだな。羨ましいよ」
白く揺らめく湯気の向こうで、いつの間か明里がいつもの悪戯めいた笑みを取り戻している。安堵すると同時に気づく。もしかして俺はからかわれたのではないか。
「明里と話してると、なにが本当で、なにが冗談なのか、時々わからなくなるよ……」
「すべてが冗談みたいな嘘だったとしても今が幸せならそれでいいじゃない?」
そう言って笑った彼女は本当に美しく魅力的だった。左右に均整の取れた彼女の顔へ、あれほど人間らしく愛嬌のある笑みが浮かべられたのは後にも先にもあの時だけだったかもしれない。
「――桜木刑事、ちょっと聞いてもいいか?」
「はい。もちろんです」
人工知能人間のバディが電灯を灯した先はコの字型のボックス階段だった。彼女の背に続き、己の背後も警戒しながら、踏み外さないよう慎重に降りていく。体感によるものだろうか。下へ進めば進むだけ、さらに室温が下がっていく気がする。
「人工知能人間ってのは俺達を何で見分けているんだ? やっぱり顔認証とか外見的なものか? 梅原田の特定は料理を持ってきた際にその見た目で行ったんだろう?」
「いえ、違います。人間の特定は複合的な生体情報で実施します。もちろん顔認証へもかけますが、外見は整形手術などで変えられますので。指紋や網膜をスキャンして登録情報と照合したり、身長や体重、あるいは汗を掻く穴である汗孔の位置、また体表面で気化した汗の成分などを健康診断の過去情報と比較したりします。それを量子アニーリングで高速で行うんです。それから……」
「それから?」
「ハッキング……ですね」
「……ええっと、えっ? ハッキング?」
桜木が言うには今やほとんどの人間が脳を拡張しており、そこにデジタルマイナンバーを格納しているという。その数値を読み取り、生体情報で裏付けをして、個人特定しているのだそうだ。高度な技術で痕跡なく覗いているのだろうけれど、ハッキングはれっきとした犯罪である。俄かに鳥肌が立つ。人間の役に立つべく創られる人工知能人間が『人間に気づかれなければよい』と効率重視で法を犯しているだなんて。製造時に法令遵守のセキュリティコードが組み込まれているのではなかったか。あるいは杓子定規にそうしてしまっては人間として生活するうえで支障があるため、人間を害することさえなければプログラム上は多少の無法は容認されているのだろうか。
「となると、俺を特定する場合はスマホをハッキングすることで……って感じか?」
「はい。そうなります」
「なるほどな。それで梅原田の場合は? 何で分かったんだ?」
「すいません。あれは完全に私のミスでした。情報収集、情報処理の優先順位を誤ってしまい、それで事前に気づけなかったんです」
ピンときた。かつての相棒の中岡が『人工知能人間はその居場所を、逐一、国に管理されている』と話していた。となれば野津田健次郎のように何かしらの策を講じて行方を眩ませない限り、ヒューマノイドロボット同士は互いの位置情報を把握できることになる。それを確認するか否か。その情報へアクセスするか否か。それは別として。
案の定だ。桜木は人型なのに心音や呼吸音のしない梅原田を目の当たりにし、慌てて他の人工知能人間の居場所を確認したのだという。すると目と鼻の先に一体、それもこれから調査しようとしている重要捜査対象が存在していたわけだ。あの時に警察官らしからぬリアクションを取ってしまったのも無理もなかろう。
「まあ、仕方ないな。桜木刑事は実質まだゼロ歳なんだろう?」
「四ヶ月です。物心がついてからは……」
ゼロ歳四ヶ月の赤子でこれならば俺は何の文句もない。極めて優秀と言えよう。どれだけ過去事例をインプットしたり、前任の中岡隆盛の経験をコピーしても、結局この世界のすべての事件は一見一様なのだ。なにより先人の経験にしろなんにしろ、未だデータ化できない部分も多々存在するのだろうと俺は思う。すべてをまるっとコピーは出来ず、あくまで土台を整えるだけ。そこからは己の性格や性質にあわせ、自らで経験を積み、成長していかなければいけない。成長速度に雲泥の差こそあれ、そうした部分においては人間も人工知能人間も変わらないのだろう。
「石平……係長……」
コの字型の階段を回りきりきり、降りきり、地下のフロアに着く。その瞬間、前を行く桜木が唐突に足を止めた。俺は慣性に逆らえず、その小さく硬い背にぶつかってしまう。
「おおっと、悪い。どうかし──」
地下は青い暗室だった。さながら水族館のよう。頭上からの照明を欠くものの、ところどころに光量の小さな足元灯や壁面灯が配されている。桜木が干渉して灯りをつけたわけでなく、常にこれくらいの照度に保たれているのだろう。そんな地下室で俺は目を剥いて絶句した。桜木が立ち止まった理由が瞬時に理解できた。
仄暗い青い世界に円柱形の水槽がいくつも生えている。さながら寒さに強く耐陰性に優れたシソ科のアジュガを思わせる。あるいは天井から伸びてきては床を冷たく侵食する氷柱のようにも見えなくもない。一つ一つの水槽が青い光を漏らし、人間を一人一人納めている。内部はなにかしらの液体で満たされているようであった。
「鰻の子どもは光から逃げる習性があるから青い光だけの暗所に水槽を置いて養殖する……と聞いたことがあるが……釣ってきた天然ものも一旦はここで保管していたのか?」
「石平係長、もはや鰻どうこうではなくなっていますから」
「……だよな。やっぱり俺だけ幻覚が見えているわけじゃあないよな?」
期せずして桜木と二人で水族館デートを始めることになる。歩を進めれば、ざっと見て、三〇、否、四〇は水槽が立ち並んでいる。そのほとんどに眠ったように目を閉じた人体が裸で格納されていた。アニメ研究会あがりの宮前野に何度も見せられた古いアニメ、そこに出てきた治療装置を思い出す。作中ではメディカルマシーンと呼ばれ、宇宙船内に配備されていたのではなかったか。そんな半ばスペースシップの船内ような非現実的な地下室の中央をシン川よろしくメインの通路が走っており、それを奥へ進んでいく。左右の水槽は両岸から通路の側を向けた形でどちらも二列ずつで並べられていた。前列と後列は互い違いに横へずらされているため、通路側から後列まで覗くことができた。
「石平係長……左手側の二列についてはすべて身元が特定できました。全員がトランスヒューマニズム教団の信者です。逆に反対側の二列はすべてが身元不明です」
「……おいおい。もしかして左手側が天然ものの人間で、右手側が養殖の人間なんじゃあないのか?」
「そんなわけ……いや、あるいは……」
まるでひと昔前のSF映画のような当て推量だ。けれど去年のことを思えば、あながち笑い飛ばすこともできない。昨日の夜のこと。職場復帰する翌日の天気予報のチェックを終えた俺は、ビール片手に何の気なしに尋ねたのだ。スマホの妖精に。まだ担当の山が決まってもいないというのに『次の事件の犯人を教えてくれ』と。すると汎用AIが答える。
『人工知能人間ならぬ人間人工知能、すなわちAIヒューマンがラスボスだよ。AIヒューマンは自らの人格をデータ化し、肉体を乗り換え続けることで死から逃れ、永遠の命を手に入れようと画策してるんだ。そのために人体の養殖も始めているんだよ。乗り換える肉体を安定的に確保するためにね。ネタバレになっちゃうから他の人に話す時には注意してね』
ごく日常的に使われ、現代社会の至る所で人知れず活躍している小さな妖精たち。それら万人が当たり前に利用するスペックの汎用AIでは捜査特化のスペシャルワンを上回れることはないだろう。それでもしかし稀に眼前の桜木綾すら否定しきれない説を見つけてくるのだから侮れない。もしも本当に『人間』を、正確には『人体』を養殖できるのだとしたら。詳しくは知らないけれど医療の領域における臓器創生の技術は日々進化していると聞く。倫理面はさておきアンダーグラウンドでは既に人体をまるっと創造することが可能となっているのだろうか。
「……もしも石平係長の予想が的中していたなら、それはもはや人間が神の領域を冒していることになります」
「今さらかよ?」
「えっ? 今さら……ですか?」
「市民権を持てるレベルの人工知能を創った時点で、とっくにそこは通過してるだろう? 今や人間の脳みそにまでスマホをぶち込める時代なんだぞ?」
桜木が人間のようにハッとした表情を浮かべる。見慣れた森木東明里の顔による、見慣れぬ桜木綾の表情。口を開けっぴろげて固まる彼女はどことなく間抜けで、こんな状況だというのに少々笑ってしまう。ふと、どこかでスイッチがオンになるカチリという音が鳴った気がする。そうしてようやく冷やされて凍っていた人工知能人間が再起動する。
「なるほど。言われてみれば、ここにあるのは容れ物だけ。姿形……身体だけです。何をもって人間とするかにもよりますが、人格というか……中身については、既に……」
「だろう?」
「噂には聞いていましたが石平係長は本当に私たちを『人間』同等に扱ってくださるんですね? そうでなければ『今さら』という言葉はあそこでは出てきません」
「誰がそんな噂をしてるんだよ、誰が。しかも、そんなことはないんだぞ? 去年の事件で相当に懲りているからな。ヒューマノイドロボットは人間が生身で太刀打ちできる相手じゃないってな。まったくの別物だ。だから人間と同じだなんて少しも思っちゃいねえぞ? 人間より遥かに優れているんだ」
「ええっと、いや、そういう意味ではないんです。というか、そういうところなんです。ちょっと説明が難しいのですが──」
その時、不意に地下室が揺れた。地震の揺れ方でないことを瞬時に悟る。敵襲かと揃って警戒を強める。周囲に視線を巡らせる。通路を挟んだ右手の側、養殖人体の水槽が並ぶ側が震源地で間違いない。大きな音と揺れが伝播してくる。銃を構えるべきか。天然ものの人体を背に銃口を持ち上げ、養殖ものの側に向かって斜に身構える。すると仄暗い青色の光が、光源が、ずずずと左右に割れていく。
「隠し部屋の、隠し通路……だと?」
液体で満たされた重たそうな水槽が動き、シン川の支流のようなあらたな道が姿を見せる。その奥にあらたな扉を携えて。さながらモーゼの十戒のワンシーンだ。突き当りの壁面にある鉄扉はその趣からだけで何かしらを厳重に隠蔽していることが知れる。
「桜木刑事……がやったのか? ここの装置をハッキングして?」
「いえ、違います。どうして急に反応を……偶然? どうやら顔認証あるいは表情認証によってセキュリティ解除に成功したようです。誤作動か何かでしょうか? ともあれシステムの管理権限まで付与されたようで、あちこちへアクセス可能となりました。おかげで制御機構が把握できましたので、これからハッキングしてこの地下室を掌握します。それから、ここで何が行われていたのかの記録のようなものがないかを探してみます」
桜木が俺と水槽を残し、軽い足取りで階段へ駆け戻っていく。制御基盤がその付近にあるのだろう。ひとまず水族館デートは中止し、俺も彼女の後を追う。階段の下あたりまで到着した頃には桜木が壁の鉄板を外し終えていた。制御装置へ己の人差指を突き刺して直接のアクセスを試みている。まるで世紀末救世主が地下室の秘孔を突いているようだ。
「どんな状況なんだ、桜──」
「下がってください!」
不意に相棒から突き飛ばされ、俺はメインの通路を水槽が並び始める辺りまで弾き戻される。両手で押し退けられ、一瞬、身体が浮いたのがわかった。直後にぐるぐると視界が回り、それがようやく止まった時には背に冷たい床を感じた。仰向けで倒れていた。暗い天井が見える。コンクリートを打ちっぱなし、その上から何本もの鉄骨を這わされている。遅れて両の胸の下部が痛んだ。肋骨が折れいやしまいか。さすがに押しが強すぎるだろう。クレームの一つでも入れてやろうかと上体を引き起こせば、そこには先ほどまでとは色を変じた景色が広がっていた。階下がまるで火祭りのごとく燃えていた。
「石平係長……もっと離れて! 奥へ! 早く!」
「……桜木……刑事?」
「早く! 奥へ! 逃げて!」
組んだばかりの新米刑事が炎の中で叫んでいる。あまりに非現実的な光景に踊ってさえ見える。階段の上から溶岩のように熱された液体が降り注いでいた。地下室の階段付近を一瞬にして朱色に染めたそれが桜木を焼いている。森木東明里と同じ、桜木綾の身体を。赤々と。
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