第17話

 ナゴヤ警察の本部には、逮捕術道場の他、剣道場や体育館、トレーニングジム、屋内走路などの訓練施設がある。柔道場と兼ねた逮捕術道場は畳張りの和風の造りをしているけれど、更衣室はその他の施設とも共同で使うため、フィットネスジムのそれに近い。開けっぴろげの道場と違い、暖房でしっかりと暖められてもいる。

 更衣室に並んだ男性用のロッカーの扉は空色だった。聞けば女性用はピンク色らしい。出入口のドアも同様にされ、男女が入れ違いとならないよう、デザイン性よりも機能性を重視するという人工知能が行なったような判断で配色が施されている。これでも半世紀前であれば問題はなかったろう。しかし今やLGBTやトランスジェンダー、はては人工知能人間など、複雑怪奇な多様性を尊重せねばならない時代である。いわく大尊重時代。主流はもっぱらユニバーサルデザインで、すなわち世間にこれを知られたなら大問題となること請け合いの旧式デザインだ。

「いやはや、あの石平が警部とはな」

「ガラじゃないんで俺自身が一番困惑していますよ」

「バディを組んでいた頃が懐かしいよ」

「あの頃は右も左もわからなくて随分とお世話になりました。また一緒に仕事ができて嬉しいですよ」

 俺のほうがやや先だったけれど、悲劇に見舞われたタイミングはほぼ同時だった。同じ春先だった。ゆえに見えない深奥での繋がりを感じる。婚約者を失った俺、娘と孫の一人を失った猫安。一方は猟奇的な暴行事件。犯人不明。一方は交通事故。違法な旧普通自動車に乗っていた高齢者が逮捕されている。呆然とする俺を慰めてくれていた当時、猫安武の瞳もまた空洞と化していたことを俺は知っている。それでも俺には逆は出来なかったのだから、己が不幸に見舞われている最中、他人を気遣えた猫安は本当に尊敬に値する。

「ちょいと待っていてくれよ。パパっと着替えを済ませちまうから」

 今日はまだ俺たち以外に誰も使っていないのか、ロッカールームに汗臭い淀みはなく、無味無臭で広々としていた。慣れた手つきで合気道着を脱ぎ、黒のブリーフ一枚となった猫安の身体は六二歳のそれとは到底思えぬほどに美しく引き締まっていた。三年後に定年退職する刑事の身体とは思えない。小顔なためか着痩せするタイプで、スーツ姿は非常に痩せて見える。それでいて実際は若本木のような枯れ枝めいた手足でなく、馬のようにがっしりとした四肢を備えている。腹筋もしっかりと割れていて体幹も未だ鍛え上げられていることがわかる。さすがは生涯現役を旨とする現場刑事である。俺がお世話になっていた頃から変わったのは頭髪の色と量だけかもしれない。真っ白に変じた髪が随分と生え際を後退させている。

 言葉通りに少しの間で手早くスーツ姿に戻ったおやっさんは、なぜか合気道着を納めたバッグと冬物のコートを再びロッカーの扉の向こうへ押し込んだ。そして手近な椅子には目もくれず、少し離れた奥の椅子へ腰をおろした。『お前もこっちへ来い』と無言で誘ってくる。おやっさんのその目顔を見て、香菜のつけた発信器に盗聴機能がついていることを懸念しているのだと察する。

「ここまで離れれば大丈夫でしょうね。それで、お話とは?」

「あの新人のお嬢さんのことなんだがな……」

 丸椅子に座した猫安武が背にした空色が、一瞬、曇ったように感じられた。俺のカメレオンコートに明るい青が反射するのでなく、逆に俺のカメレオンコートもとい俺の心情がロッカーの扉に映り込んでしまったかのように。

「さすがに俺もあれはどうかと思ってな。なにかしらの狙いがあるのかと探りを入れてみたんだ」

「それで二人で訓練を?」

「っで、だ。上がなにを考えているのかまでは分からねえが桜木刑事本人としては特に気にしてねえみたいだぜ? まあ、人間への聞き込みとは勝手が違うからよ。俺としちゃあ、はじめての人工知能人間とのコミュニケーションだ。お前と違って真意を読み取れているかどうかは怪しいものだがな」

 桜木綾は『気にしていない』のか。『知らない』ではなく。すなわち彼女は俺の元婚約者と己が瓜二つである事実を把握している、ということになる。

「……わざわざすいません、俺のために」

「いやいや俺自身の保身のためだよ。新任の上司にすぐさまメンタルでダウンされちゃあ困るだろう? ようやく一八も二組になったってえのに」

 猫安のおやっさんが桜木から聞いた話によれば、人工知能人間のボディの制作は極めて困難らしい。なにが難しいのかといえば開発技術や製造資金云々ではない。日本特有の国民感情への配慮だ。生成AIが作成したイラストが著作権侵害にあたる場合がある、というケースに少し似る。すべての日本人に似ていない顔を作るというのが相当に難しいらしいのだ。人間はどうにも己の見たいものを見ようとする生き物だから。

「俺の目に似ている」

「私をモデルにしたに違いない」

「僕の鼻と――」

 こうしたネガティブな感情は雰囲気がものを言い、物理的に顔のパーツの形状が一致したか否かはさておき、時に社会問題を巻き起こしてしまうきらいがある。ゆえに日本政府としては労力をかけて新しい顔をイチからデザインするよりも既に社会に受け入れられた実績のある顔を再利用するほうが合理的なのだ。これまで人工知能人間が欠けることがなかったためにあまり知られてはいないけれど、こうした流用優先のルールは運用初期から制定されていたという。おそらく『減った分だけ増やせばよい』と安易に『流用先がある前提』で作られたルールなのだろう。けれども必要個体の性別によっては必ずしもその限りではない。今回がまさにそのケースで、ゆえに少々イレギュラーではあるものの、森木東明里の身体データを流用することになったそうだ。初めて発見された野良の人工知能人間である。表向きは失踪したことになっているものの、その天才科学者のボディは回収後に精緻に分析されている。データ化もされている、というわけである。そうはいっても新設する人工知能人間を男型すればよかったわけで俺としては解せない感が否めない。

「まあ、なんで女にこだわったのかは……よく分からねえがな」

「再利用……となると、次に男型のヒューマノイドロボットを新設する場合は……」

「まあ、そうなるわな。中岡隆盛あるいは野津田健次郎の顔で造られることになるだろう」

 俺個人が納得できるか否かは別として、桜木綾は既に森木東明里だった顔で製造されてしまっている。桜木は悪くないのだから今さら姿を変えろと訴えるのも気が引けるし、そんな個人の我がままを司法が受け入れてくれるとも思えない。明里本人が抗議するといった自体も発生しえず、つまりはこのままにするしか他に選択肢がなかった。俺は彼女を他人の空似と強引に己に言い聞かせることにする。

「お前ももう大人だから大丈夫だよな? なあ、石平?」

「大人か否かで言うのなら新米刑事としておやっさんに面倒を見てもらっていたときも、既に大人でしたよ。成人だったという意味だけで言えばね」

「違えねえな」

「とはいえ時間が経った今だからこそ気持ち的に耐えられる、という部分も少なからずありそうです。まあ、でも大丈夫ですよ。成人式を終えたばかりの若手というわけじゃあないんですから。俺ももう四一です。四〇オーバーのおっさんです。それなりに酸いも甘いも噛み分けて生きてきていますよ」

「そいつは心強い。頼りにしてるぜ、係長殿。っと、それじゃあ、そろそろ行こうかね。あのお嬢さんたち二人を待たせすぎると別の問題が起こりかねねえ」

 腰を押さえながら立ち上がった老兵、小さいけれど大きなその猫安の背に引っ張られ、俺は立ち止まっていた足を一歩二歩と踏み出す。おやっさんがロッカーから茶色のコートを取り出して羽織った。その上から肩掛けの旅行バッグを斜めに下げる。合気道着を納めてあるのだけれど、その後ろ姿だけを見ればクラブ帰りのサッカー部の高校生である。それでいてしかし纏う空気はその肉体の質量と反比例した重厚感を漂わせている。さながら係長用の分厚いデスクよろしくだ。これが武道の達人特有の出で立ちなのだろう。

「……っかし、化け物だぞ、ありゃあ?」

「知ってます。おやっさんでも難しいですか?」

「無理だな。とても勝てる相手じゃあねえよ。手も足も出ねえ。ここまで差があるとはな。相手の力を利用するどうこう以前の問題だ。人間じゃねえよ」

「そりゃあ、まあ、ヒューマノイドロボット。ロボットですから」

「警察官になれているってことは市民権を得ているってことだろう? 住民番号もデジタルマイナンバーカードも持っているはずで、つまりは人間ってことじゃねえのかよ?」

「そういう面では人間ですが、文武においてはロボットですよ。身体能力や演算能力で生身の人間がまともに太刀打ちできる相手じゃありません」

「物理的な格闘能力ではとても敵わんね。対峙してみて、そいつがよくわかった。わずかにバランスを崩せたとしても、同じ手は二度と通じねえだろうし、なにより俺の技の何をどうしたって少しもダメージが通らねえ。ジリ貧なうえ、向こうさんはスタミナ切れがないときちゃあ、お手上げだよ」

「おやっさんでも厳しいとは……となると、やっぱり人工知能人間の相手は人工知能人間に。梅原田裕一の相手は桜木刑事に任せるしかない、ってことですね?」

 もはや出番は終わったとばかり。老刑事が両の肩を竦めて『そういうことだ』と目顔で答えてくる。すなわち自動的に犯人逮捕や事情聴取など、人工知能人間と直接的に相対する前衛は俺と桜木のチームに決まる。おやっさんと香菜のチームは情報収集や分析、その他諸々を主とする後衛配備だ。もちろん同じ係だからパシッと縦割りで役割分担するわけではない。時に入れ替わることもあろう。けれど梅原田の対応だけは桜木で固定だ。替われる相手が他にいないのだから、やむを得ない。

「ああ、それと……だ。石平、お前は自分で思っているよりもお人好しだからよ? 宮前野には、もう少し気をつけておけよ?」

「宮前野? 捜査一課の宮前野ですか?」

「さあ、そいつはどうかな? ともかくお前に近寄ってくる宮前野だよ」

「あいつ、何かやらかしたんですか?」

「いや、別に。今のところはな。老いぼれの忠告ってやつだ。あれの上がどんなものか、俺にもまだわかっちゃいねえからよ」

「上……ですか? 宮前野の?」

「ともかく注意はしておけ。減るもんでもねえし。それじゃあ行くぞ」

 男子更衣室の扉から出ると洗濯物を受け取ろうと人工知能搭載の箱型ロボットが張り切って近づいてきた。拡張脳からの通信で猫安が手配したのだろう。合気道着を入れたバッグが当たり前のようにその背に乗せられる。預けられたそれは明日の朝までに洗い終えられ、預けた者のデスクへ届けられるのだ。人工知能人間のように個性はなく、掃除用ロボットと同様に『ロボット』と一括りにされる類だけれど、ロッカーの扉や更衣室の扉と揃いの水色で描かれたゾウの絵にはそれなりに愛嬌があった。なにより彼らは働き者で、なかなかに好感が持てる。俺たちが寝静まった後も自律走行で動き回ってくれる。

「ごくろうさん」

 いつものようになんの気なしに声をかけた。ヒューマノイドロボットじゃあるまいし、俺が話しかけても彼らからの応答はない。そもそも発声器官に相当する機構がないのだ。それでも挨拶がてら声を掛けてしまう俺に対し、彼らは時にデータ通信でなにかを伝えようとしてくる。残念ながら脳を拡張していない俺はそれを受け取ることができず、キャッチボールは成立しない。

「どうかしたのか、石平? 行くぞ?」

「ああ、はい。なんでもありません」

 少し話し込みすぎた。おやっさんと急ぎ足で売店へ向かえば、香菜と桜木が既に先に待っていた。女性二人との待ち合わせとなれば、なんやかんやで俺たちのほうが先に着くこともあるかもしれないと思っていたのだけれど、そこはさすがに優秀な女性刑事たち。準備が迅速だ。皆が揃ったのを見て、俺は手にしたばかりの警部権限で警察車両を呼ぶ。もちろん中岡のように歩きながら器用に手配することはできないため、新生一八係のメンバー三人に断りを入れ、捜査用端末を取り出して操作する。

「助かった。ちょうど空きがあって、すぐに車を回してもらえるぞ。それじゃあ行こうか」

 しばしの待ち時間の後、頼りない係長が先陣を切って歩み、無人のパトカーへ乗り込む。空いていたのは小型の軽自動車タイプ。ひと昔前ならば運転手一人分が加算されるため、定員オーバーとなるところ。自動運転様々である。真っ先に前列右側の旧運転席に乗り込んだ俺はすぐさま香菜に引きずり降ろされ、後列右側の上座へと回される。隣に花澤木香菜が乗り込もうとするも『チームごとに前後に別れて乗ろう』という猫安のおやっさんからの提案により、俺の左隣は桜木となった。前列は右におやっさん、左に香菜だ。斜めに覗ける香菜の顔から隠しきれない不満が滲み出ているのがわかる。

「それじゃあ『卯なか富士』まで頼む。サカエとフシミの間だ」

「承知しました。それではシートベルトを装着させます」

 猫安のおやっさんが行き先を告げると一八係のメンバーではない声が車内に響く。乗り込んだ軽自動車の人工知能である。スマホしかり今やAIの搭載されていない電子機器は存在しないのではないか。それほどに『小さな妖精』はあちこちに潜んでいる。発声器官の機構を持たないものまで含めれば本当に至る所に。

「おっ、鰻ですか? いいですね、おやっさん」

「まあ、一八の門出だしな」

「懐かしいな。俺、ひさしぶりの卯なか富士ですよ」

「養殖の鰻だけど、なかなかに美味いし、あそこは個室がしっかりしているからな。よく若かりし日の石平係長の愚痴や惚気を聞かされたもんだ」

「その話を詳しく聞きたいんですけど、猫安さん!」

 恥ずかしいから勘弁してくださいよ、と頭を搔く前にすぐさま香菜が喰らいついていた。そのうえ桜木までが興味があるような表情をみせるから始末に追えない。そうかと思えば隣の人工知能人間は「鰻は洋食なのですか?」とトンチンカンな質問をしてくるものだから、笑ってしまう。相当に学習を積んだ人工知能であっても半世紀前から変わらず判断に苦労するのが同音異義語だという。養殖と洋食、操作と操作、性格と正確、自身と自信と地震だ。逆にいえば人間は何でそれらを判別しているのだろう。前後の文脈とよく言われるけれど、それだけでないケースも多分に存在する気がする。

「卵でとじた洋風の鰻ってのも悪くねえよな」

 呟くおやっさんの小さな後頭部は灰色のヘッドレストに大半が隠れていた。右手に視線を送れば車窓からドローンの行き来する寒空が覗ける。狭苦しい集約五大都市ナゴヤの空を彼らは互いに譲り合い、衝突しないよう器用にすれ違う。極稀れに人間のようにお見合いをしてしまう個体がいて、それはそれで実に愛らしい。夜になれば赤や緑のクリスマスカラーのストロボライトが綺麗で、いつまでも見上げていられる。それでいて洗脳電波なるものを発信しているかもしれない、というのだから世の中はわからない。じっと人間を監視している可能性だってある。真実はいつだって恐ろしい。

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