第16話
訓練用の逮捕術道場の入口は開け放たれていて、外側から中を垣間見ることができた。師走の寒い冬だというのに、たちまち全身の毛穴から汗が吹き出す。考えるよりも前に駆け出していた。事情は分からない。しかし猫安のおやっさんが窮地に陥っている。
「石平さん!?」
背中を追いかけてくる花澤木香菜の声を置き去り、靴のまま構わず柔道畳に乗り上げた。最短距離で賊の背中へ突進する。苦痛に歪む顔がこちらに向くかたちで柔道着姿の老体が高々と吊り上げられていた。片腕のネックハンギングツリー。いつぞやに俺が野津田にやられた、あれだ。背を向けている賊の側も今の香菜の声でこちらに気がついたはず。振り向く前に一撃お見舞いする。右足の飛び蹴り。左の革靴で畳を踏み蹴り、前進の勢いそのままに賊の背へ叩き込む。次の瞬間、激しい痛みが俺を襲った。蹴り込んだはずの右の足、足裏から伝わってきた電撃が膝のあたりで爆発する。反動、反射、反発。硬い。ともかく硬かった。まるで冷たいコンクリート壁を思い切り蹴ってしまったかのよう。弾かれるままに畳に落とされ、俺の不意討ちは不発に終わる。しかし、そこはさすがの猫安武である。賊の意識が俺に向かった一瞬の隙を見逃さない。すかさず己の首にかけられている相手の左手に足を絡め、三角絞めなのか、飛びつき腕十字なのか、回転腕十字なのか、ぐるりと巻き込んで身体ごと賊を畳へねじり落とす。こらえようとする相手の重心を巧みに崩し、力で跳ね返せないようにして。
「ナイスだ! おやっさ──」
瞬間、全身が凍り付いた。言葉で言い表せない程の衝撃が走った。体温が数度下がったのが分かる。血の気が引く、というのはこういうことなのだろう。一拍の空隙の後、右膝の痛みが吹き飛ぶくらいの猛烈な混乱に襲われる。
――顔があったのだ。そこに顔が。
背中までの深い黒髪と何里も先まで見通すような切れ長の目。整った顔立ちは半ば整いすぎており、創りもののように左右対称だ。均衡を崩す唯一の特異点は口元の左側にある、小さなホクロ。
そう、森木東明里の顔が。
「よう、係長。一体どうしたんでい、血相を変えて?」
「……おやっさん……これは一体?」
「ああ。こちらは桜木綾巡査だ。石平係長が職場復帰された本日の朝から知能犯特別捜査一八係に配属されてきた新人さんだよ」
己の目を疑った。猫安のおやっさんが手を離し、ほぼ同時に畳の上に立ち上がった二人。片方は見慣れたかつてのバディである。小柄で痩せた老刑事だ。息を切らし、身体から湯気を立ち上らせている。もう一方は新人だと言うけれど、おかしな事にこちらも顔だけは見慣れていた。猫安と対照的にまったく息切れを起こしていない。どこまでも整ったその立ち姿からは、とても今の今まで格闘訓練をしていたように見えない。そもそもそれ自体が似合わないのだ。格闘よりも実験や研究。柔道着よりも白衣。警察官よりも科学者といった出で立ちの彼女は俺の元婚約者と同じ顔をしていた。酷似というレベルではない。俺の目からは違いがわからなかった。どこからどう見ても明里だった。
「ちょいと人工知能人間さんに稽古をお願いしていてな。もちろん純粋な腕力や速さで勝てるなんてえことは思ってねえよ? 俺の技が少しくらい有効なのか否かを試してみたくてよ。っで、桜木刑事に付き合ってもらっていたわけだ」
柔道着に見えた猫安武の白い道着はよくよく見れば微妙に形状が違っていた。柔道着よりも袖が短く、上着の丈が長い。ズボンの丈も短めだ。合気道着に違いなかった。猫安は柔術や合気道の達人として有名な男なのである。腕力や俊敏性では敵わなくとも相手の力を利用して戦ったならば、もしかしたらヒューマノイドロボットに通用するかもしれない。そんな風に考えたのかもしれない。見れば桜木綾も同じく合気道着を身に着けている。
「……稽古、だったのか。すいません。勘違いで邪魔をしてしまって。桜木刑事も申し訳ない。いきなりの飛び蹴りが最初の挨拶になってしまって」
「いえ、問題ありません。X型人工知能搭載ヒューマノイドロボット『XFW04012005』こと桜木綾巡査です。石平彰警部が職場復帰されたため、本日より、ナゴヤ警察本部、刑事部、捜査第二課、第六知能犯特別捜査第一八係に配属となりました。以後、よろしくお願いします」
言葉の選択肢は違う。しかし背格好だけでなく、声音も完全に明里だった。一体なんの冗談なのか。宮前野守の『大変そう』という言葉には、ここまでが含まれていたのか否か。しかし誰の、なんの思惑があっての、この状況だろう。山寺田警視監か、そのまた上か。あるいはナゴヤ警察に潜伏するという例の組織だかなんだかの嫌がらせか。なにかしら試されている感が否めない。俺を一体どのように動かそうというのか。ふと、己が身が震えているのがわかる。精神的なものでなく純粋に寒さによるものだと気づくのに数秒かかった。すっかり寒さを失念していたのだ。開け放たれた広い道場には屋根こそあって雨は凌げれど、風は防げず、気温の面ではまるきり屋外と大差ない。それを見て取った猫安が混乱の納まらぬ俺に代わって口を開く。
「石平係長。このまま立ち話ってのもなんだろう? かといって二課のフロアで懇親会ってのも、この時間には少々やりづらい。いっちょ着替えて外に出ようや、みんなで。まだ一四時だが好きなタイミングで飲み食いができ、また長居もできる暖かい場所を、俺が手配するからよ。まっ、割り勘だけどな。どうだ?」
「いいですね。今日はちょっと仕事って気分でもなくなりましたし……」
香菜が即座に同意の声をあげ、少し遅れて桜木も首肯で賛同の意を示す。
「……ええっと。おやっさん、それじゃあ店は任せます。みんな、そういうことだ。帰宅の準備をして売店前に集合だ。南側の小さい方の売店な」
「石平係長は悪いがちょっと片づけを手伝ってくれや」
猫安のおやっさんがそう言うと、すかさず香菜が自分も加わろうと身を乗り出す。その出鼻を絶妙なタイミングでくじくあたり、さすがは合気道の達人である。相手との間や呼吸を完全に掌握している。
「お嬢さん方は先に戻って帰り支度をしていてくれや。男二人で片付けた方がささっと終わるからよ。この寒い中、だらだらと大人数でやるもんでもねえしな。それから花澤木刑事、ここまで来たついでだ。戻る前に桜木刑事にシャワーの場所やら使い方やらを教えてやってくれ。データとしては把握しているんだろうけど実際に本部庁舎に来るのが彼女は今日がはじめてだからな。頼んだぜ?」
「……はい。わかりました」
花澤木香菜はとびきり優秀な刑事である。しかし優秀すぎるがゆえか、その気性ゆえか、扱いづらさもピカイチだ。新米係長の俺としてはチーム分けの際にそこを一番に気にしなければいけない。けれど一八係に猫安のおやっさんがいると知ってからは、その懸念がきれいさっぱり払拭されている。百戦錬磨の眼前の刑事なら、たとえ部下という立場からでも難なく香菜を制御してくれるだろう。
「それじゃあ花澤木刑事、桜木刑事、また後でな。おやっさんも先に着替えてきてください。片付けはわかるところから俺で進めておきますから」
メンバー全員が勢揃いしたはじめての場所が捜査二課の暖房の効いたフロアでなく、この極寒の逮捕術道場というのがなんとも俺たちらしい。扱う事件がイレギュラーが前提なのだから、これくらいでちょうどよいのかもしれない。微妙に渋った様子の女性陣二人を強引に先に戻らせ、俺たちは男二人で本題へ入る。おやっさんから密かに合図が出ていることに俺は気づいていた。随分と昔の話とはいえ、これでも二年も一緒に組んでいた元バディだ。なにかしら個別で話したいことがあるのだろうとはすぐに察せた。
「それじゃあ更衣室まで付き合ってくれ、石平係長。片付けなんて今日の内容じゃあ特にすることはねえからよ」
猫安のおやっさんが皺の増えた両手に白い息を吐きかけながら言う。
「そうだろうと思っていましたよ」
「お前さん、そういうところがあるよな。昔から。察しがいいというか。ロボットにはない人間特有の、野生の勘……ってえのか? ちょっとイメージが違うんだが、生き物としての感覚が研ぎ澄まされてるって感じがするよ」
眼前の還暦超えの刑事は人生の先輩や警察官としての大先輩という点を差し引いても信頼のできる男である。そんな猫安から誉められたように言われると、どうにも恥ずかしく、そしてそれ以上にこの歳でも嬉しい。そういえば森木東明里にも同じようなことを言われた覚えがある。彼女は『彰は異常に共感力が高い』といったような言い回しをしていた。俺としては自分に特別な何かがあるとは思わない。ただただ人間然としているだけで。
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