第11話

「──どうかしましたか、石平さん?」

「いや、なんでもない。ちょっとな」

 見慣れた病院の、見慣れた天井の、見慣れた白さ。清潔さを追求するあまり青味がかった壁の色はボタンを押す前から集約五大都市ナゴヤの無機質な空を映したかのよう。ベッドに仰向けて見上げていれば、そのうちドローンが飛ぶのではないかと思えてくる。窓が一つもなく窮屈な個室で、そうしたところもナゴヤの空に似ていた。もちろんボタンさえ押せば気分はたちまち屋外、壁は窓を超えてその隔たりを失し、天井にはリアルタイムで今の空が描写されるのだけれど。俺はしかし、長い入院生活の中、もう三年もその機能を起動させたことはない。

「せっかく私がお見舞いにきているんですから呆けないでくださいよ」

「……呆けもするだろう。あのな、香菜……お前、二時間前にも来たばっかりだよな?」

「トイレのお世話にはそれくらいの間隔で来ないと困るでしょう? 石平さんは足が折れているんですから」

 左の足首と鼻骨を骨折。肋骨の左側三本に亀裂も入っていた。打ち身や打撲は数知れず、まさしく満身創痍である。さすがにAIヒューマンの攻撃である。足など、いつのタイミングで折れていたのか。しかし不本意ながら、いつもどおりと言えばいつもどおりである。俺は今年もまた入院したのだ。判を押したかのごとく全治一年あまりの重症を負って。保険会社の連中がこの病室を熊が冬眠する穴倉だなんだと影で揶揄している声も聞こえてきている。

「そういうのは看護師さんを呼ぶから、お前は気にしなくていいんだよ」

「そういうわけにはいきません。石平さんの面倒をみるのは私ですから」

「恋人や婚約者ってよりも、もはや母親みたいな気概だな……」

 あれから三日、まだまだあちこち痛むのだから落ち着いて寝かせておいて欲しいのだけれど、それを許してくれないのが花澤木香菜である。今回に限っては命の恩人でもあるため、いつも以上に邪険に扱うことが憚られる。

「……っで、この二時間でなにか進展はあったのか?」

「ええ。やはり予想通りでした」

「えっ? あるのかよ、進展が?」

「当たり前じゃないですか! 私をなんだと思っているんですか? これでも仕事はきちんとこなしているんですからね!」

「いや、そうは言っても……たったの二時間だぞ?」

 捜査一課のホープは伊達ではないということか。どうやら香菜は俺の想像以上に優秀な警察官らしい。さながら人工知能のような速度で捜査を進めていく。生まれ持っての素質であるのか、脳の処理速度が俺よりも格段に速いのだろう。これでは休職している間にいつの間にやら彼女の部下に配置されているという未来も冗談でなく起こり得そうである。

「それで? なにがわかったんだ?」

「若本木は人間の人格をデータ化すべく、いろいろな実験を行っていました。そのために教祖である野津田に信者を呼び出させ、あれこれと実験台にしていたみたいです」

「組織に実験台にされた若本木が、今度は人間を実験台に……とはな。っで、失敗していたわけだ?」

「はい。その結果、多くの信者が自殺していました」

「なるほどな。それであんなに自殺者が……って、そうなのか? 他殺を巧みに隠蔽して自殺に見せていた……って感じじゃねえのか?」

「いえ。自殺は自殺でした。どうも人間には『脳の処理速度を高めると、自ずと自殺に向かう』という傾向があるみたいです。他の五大都市に加え、イギリス、ドイツ、アメリカと国内外の複数の大学の研究結果として立証されているみたいなので、たしかな情報かと」

 言われてみれば『学歴や知能指数が高く、どこかしら人工知能に近しい系統の人間ほど、最後は自殺で終わる』といったイメージは俺も昔から抱いている。合理的な人間がどこまでも合理性を追求すると『遅かれ早かれ死ぬのだから、それは今でも同じ』という結果に辿り着いてしまうのかもしれない。それどころか『早く死んだ方が地球のため』といった結果に達してしまう可能性もある。明里の付き添いで参加したフォーラムでそんな主張の演説をする科学者を目にした記憶がある。人間は生きているだけで二酸化炭素やゴミを大量に排出する生物なのだから、とかなんとか。

「勉強を頑張って脳の処理速度を高めていくと、ある段階を超えた時点で思考が自殺に傾いていくってことか? まるで人体に潜むバグだな。それじゃあ、なにか? 野津田が教祖をしていたトランスヒューマニズム教団のナゴヤ支部ってのは学習塾みたいな集団だったのか? 皆で仲良く勉強しましょうって?」

「そんなわけないじゃないですか。違法な脳力拡大集団ですよ」

「能力の拡大が違法なのか? それはただの努力だろう?」

「可能性の方の『能力』じゃなく、頭脳とか脳トレの方の『脳力』ですよ。脳です。努力しないでそれを拡大しようって腹の怠惰な連中です」

 脳力とは大きくわけて二つの要素『記憶容量』と『処理速度』で構成される。いわゆる現代の『脳の拡張』とは前者を科学と医療の力で拡大する術を指す。しかし後者については現時点では禁止されていた。まだまだ危険を孕んでいるからとの理由で。思えばその危険のひとつが先の自殺に関する人体のバグなのかもしれない。

「違法な脳の処理速度向上に挑むカルト教団だったってことか?」

「正確には元々あった宗教団体のナゴヤ支部を乗っ取り、カルト教団に作り変えたって感じです」

「野津田の奴……ある意味で大したものだな。いくら賢いとはいえ、人工知能が人間の心の機微を理解し、人心を掌握して教祖にまで上り詰めたってことだろ?」

「野津田健次郎は精神科医として創られた個体ですからね。洗脳みたいなことが得意だったんでしょう。メンタルケアという名目にすれば、プライバシー保護を理由にカウンセリング内容を秘匿できますし。サーバーに録画情報をアップしなくてよい」

「人間にとってセンシティブな分野だからこそ、やりたい放題できたってことか……」

「うつ病だったりSNS依存症の患者は年々増えていて、精神科での治療が当たり前になったというか、診断を受けることへの精神的ハードルは随分と下がっていますからね。そのうえ数年前から匿名で予約したり、匿名で診断してもらうことまで可能になりました」

「客に困ることもなく、精神科医の仕事としてメンタルケアに従事しているように見せかけて、そこで信者を増やしていたわけだ? そうして自分の派閥というか、自分を崇拝する信者の数を増やし、遂には教団を乗っ取ったって? なかなかのやり手だな」

「ですね。信者たちに聞き込みをしたところ、揃いも揃って処理速度を向上させてくれる野津田のことを神のごとく崇めていましたよ。自分の現状の不遇は脳の処理速度さえ向上させられればすべて解決される、と信じている節もあってなかなかの異常者たちでした」

「まあ、安全確保が出来るんなら俺も脳の処理速度を向上させてもらいたいからな。その気持ちはわからなくもないが」

「冗談はほどほどにしてくださいよ。石平さんは記憶領域の拡張もまだの天然記念物的な無拡張者じゃないですか?」

「嫌なことは忘れたいから記憶容量の拡張はしたくねえけど、頭の回転が速くなるっていう処理速度の向上にはちょっと魅かれるんだよ」

「でも、結局はなにもしないんでしょ?」

「……まあな。おっさん病ってのは中二病以上に厄介なものなんだ」

「おっさん病ってなんですか?」

「なんでもねえよ」

 なんの気の迷いか、俺はそこで枕元にあるボタンの一つを久しぶりに押した。病室機能の一つがオンになる。たちまち二〇〇メートル先の大通りを通勤通学で行き交う人々とその頭上を飛び交うドローンの姿が迫る。コンクリートジャングルの真ん中にベッドごと放り出されたような感覚に陥り、すぐさま機能をオフにした。中岡隆盛が引っ提げていたカメレオンコートの元となった映像技術である。長期入院患者に人気らしいけれど、どうにも俺にはこれの良さがわからない。花澤木香菜がなにをやっているのか、といった風な視線を向けてくる。

「……ああっと、それで? 若本木の目的は元の身体に戻ること。そのために人間の脳から人格をデータ化して取り出そうとしていたわけだろ? そっちについて、うちは今後どうしていくつもりなんだ?」

「さすがは石平さんです。ポイントを外しませんね。もちろん、いつものあれです」

 香菜が肩を竦めて苦笑する。予想通りだ。森木東明里の時と同じく、この件は上層部向けのトップシークレット送りらしい。それもそうだろう。人格のデータ化が可能かもしれないなどと知られれば大騒ぎになる。さすがに一介の警察官には手に余る規模の山だ。若本木ではないけれど好奇心は身を滅ぼす。余計な詮索はやめたほうが身のためだろう。下手に知りすぎてしまっては命がいくつあっても足りない。

「今回の事件では重症を負わされた石平さんに中岡刑事、亡くなられた教団信者の方々と多くの犠牲者を出してしまいました。その真相もヒューマノイドロボットの暴走と到底見逃せるものではありませんでした。けれどナゴヤ警察本部の活躍で行方を眩ませていた犯人の野津田健次郎は見事に捕獲され、あわせて協力者であった人間の若本木則夫も逮捕。事件は無事に終結しました」

「そういうことで事件解決……めでたし、めでたし。以上。 ……って、ストーリーに決まったわけだ? 了解だ。それで中岡はどうなったんだ?」

「あの場に存在した人工知能は、すべて……」

 香菜がゆっくりと首を振る。左右にゆっくりと。僅かな時間とはいえバディであった男の人格はどうやら失われてしまったらしい。人工知能の人格形成には人間同様に外部からの刺激がランダムに作用する。すなわちスペック云々は別として、まったく同じものは二度と創れない。犯罪に手を染めた野津田や若本木に対しては処分なのだとわかる。しかし中岡はそうではなかったはずだ。

「中岡……復旧できなかったのか?」

「フリーズする直前、今回の捜査をまとめ上げた資料を私に送信してきたのですが……」

「人工知能だっていうのに最後の最後まで人間のために……見上げた警察官だな」

 俺とは雲泥の差である。即日解決ならずともスピード解決を達成した捜査一課のエースの活躍は目覚ましいものがあった。そこへホープのアシストも入り、中岡と香菜が、捜査一課の二人が、今回の事件を解決したのである。またしても数日でここに送り戻された俺は今年の冬も右往左往していただけ。大きな怪我をしたことで努力賞的に評価されているようだけれど、その実、なにが出来たわけでもない。これでクリスマスプレゼントと呼ばれるのは、どうにも肩身が狭かった。いつだって俺はプレゼントを贈られる側なのだから。

「……さすがは俺のバディだった中岡隆盛巡査部長だよ」

「随分と評価されているんですね? お好きだったんですか?」

「いや、そうでもないさ」

「そう……ですか? 感慨に浸っているところを申し訳ないんですが、まだ報告が残っていまして……実は中岡隆盛は巡査部長から降格となり、さらにはナゴヤ警察を永久追放されることで決まったんです」

「はあっ!? なんだよ、それ! 人工知能だからって差別じゃねえか? 人間の刑事の場合、殉職は二階級特進と相場が決まってるんだぞ!」

「石平さん、やっぱり中岡のことがお好きだったんですか? 私は異動希望を握り潰していたあの人のことが嫌いですが。今でも許せません」

「……ああ、それは中岡が……というか、その……って、それはさておきだ。好きとか嫌いで怒ってるわけじゃねえ。ほんの数日間の付き合いだったんだ。中岡に対しては友達って感覚もねえよ。だけどな、筋が通ってねえことは許せねえだろうが!」

「CIAのスパイだったんですよ」

「はあ? なんの冗談だよ?」

「冗談ではありません。最後に送られてきた捜査資料から中岡隆盛がCIAのスパイだったことがわかっています。野津田に電波障壁を張られたことで外部へ送信することができず、やむなく同じ部屋にいた私に送ってきたんでしょう。暗号化をして、捜査資料に見せかけて。しかし解析班の分析の結果でそれがわかりました。また、中岡がナゴヤ警察内部でなにかしらの組織を追ってたこともわかっています」

「……嘘だろう?」

「本当です。二年くらい前にハッキングを受け、そこからCIAの手先となって、あれやこれやと活動していたみたいです」

「人工知能人間がハッキングされてるんじゃねえよ。なにやってるんだよ、アイツは……っで、うちの上の方がその組織とやらに絡んでいたのか?」

「そのあたりについては権限の問題で私にはわかりません」

「あのお方ってのについては?」

「あのお方? 誰です?」

「……いや、なんでもない。忘れてくれ。どうにも人格のデータ化以上にヤバい臭いがする。知らぬが仏ってやつだ」

「ですね。 って、石平さん? 言葉と表情が違ってますよ? なにをいつまでも難しい顔をしてるんですか? パッと割り切ってくださいよ。あれ? もしかして本当にトイレですか? トイレなんですね?」

「違えって! しかし、な。まさか中岡が本当にスパイだったとは……。さすがにちょっと思うところがあってよ。すぐには割り切れねえよ。でも、まあ、ひとまずお前には感謝してるよ。香菜がいなけりゃあ俺は死んでいたからな」

「じゃあ交際開始ってことでよいですね?」

「それはまた別の話だろ! っていうかな、お前みたいな若いのが俺みたいなおっさんと付き合ってなにが楽しいんだよ?」

「いいじゃないですか、好き嫌いは人それぞれなんですから。石平さん、一体いつの時代の人間なんですか? 今はトランスジェンダーどころか、ヒューマノイドロボットまでいるんですよ? 愛が性別どころか種別を超える時代なんです。そう考えたら年齢なんて微々たるものじゃないですか?」

「種別すら? まったくとんでもねえ時代になったものだよ。しっかし人間であれ、ロボットであれ、物理的に自分より強い女ってえのはな? それも衰えた今の俺じゃなく、二〇代の頃の全盛期の俺よりも強えってんだぞ? そのあたり、どうにもな……」

「あれはたまたまです! 石平さんのピンチだったんですよ? 火事場の馬鹿力ってやつですよ!」

「いくらなんでも火事場だからで済ませられるレベルじゃなかったろう? まるで転写された人工知能が人間の身体を操っていたかのような強さだったぞ? 若本木さながらって感じで? とても同じ人間とは──」

「……石平さん、今、なにか言いました?」

「いや、なんでもないです」

 ふと、そこで溜息がこぼれた。暖房の効いた室内は十分に温かいのだけれど、なぜだか吐いた息が白く立ち上っていくような錯覚を覚える。その向こうで花澤木香菜が悪戯っぽく笑っている。似ても似つかないと思っていたけれど、もしかすると森木東明里に人間味を持たせたら彼女のようになるのかもしれない。香菜の後ろにはぼんやりひっそりと中岡隆盛の像まで浮かんでいた。無言で立つ彼のカメレオンコートになにやら文字が浮かび上がっている。『真実を恐れるな』。そうはいっても恐ろしいのが真実である。

「石平さん?」

「いや、なんでもない。それにしてもまた入院かよ? スパイだ? 組織だ? 知らぬが仏のヤバい真実より、どうして毎年こうなるのか、それをこそ俺は知りてえよ」

「いいじゃないですか。病院暮らしの大先輩の私があれこれと楽しみ方を教えてあげますから」

「そういえばお前は身体が弱かったんだよな、昔は。それが今じゃあ元気を飛び越えて、化け物めいちゃって……」

「石平さん、本当に怒りますよ」

「すいません」

「ともかく石平さんはもっと病院暮らしをエンジョイしてください。私的にはちょろちょろとできなくて居場所がすぐに分かりますし、たくさん会いに来られるし、良いことしかないです。だから、また怪我をしてくれて嬉しいですよ。入院中は石平さんが危ない仕事に就くこともなくて安心ですしね。なんならずっと入院してくれませんか?」

 不意に病室が取調室に見えた。いや、違う。本部庁舎のそれはささやかながらも窓があったから、それ以上に窮屈な、これは牢獄のイメージだ。それも人権に配慮された現代風のものでなく、中世太古の地下牢である。堅牢な石壁に囲われた窓のない部屋。収監された者たちは、当時、どんな心境だったのだろう。少しだけそれが分かったような気がする。

「……若い女に心配される、おっさんってのもな。それも女のほうは危険な刑事の仕事で活躍してるのに、こっちはこの無様ときた。恥ずかしいったらねえよ」

「仕方がないですよ。石平さんには面倒事のほうから寄ってくるんですから。きっともう、そういう星の下に組み込まれちゃったんです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る