第9話
光の雨。砕けた窓ガラスが陽光を跳ねる。乱反射する。細めた視界にバルコニーから飛び込んできた花澤木香菜の右の蹴りが若本木の皺の多い顔面を捉える瞬間が映った。小柄ながら香菜の瞬発力には目を見張るものがある。さすがのAIヒューマンといえど不意打ちなれば揺らぐはず。
「……っと、思ったんだけどな」
揺らぐどころか若本木の老体はリビング中央のテーブルの、さらにその向こうまで飛んでいった。そのまま窓際に残し落とされた俺は、どうにか一命を取り留めて咳き込む。若本木則夫も同様に生き永らえてくれていることを願うほかない。いくら痩せ細った枝のような痩身とはいえ、まさかあそこまで飛ぼうとは。一体なんという威力なのか。
それにしても幸運であった。願いにも似た俺の勘が的中したのだから。若本木に掴み上げられた際、既視感を覚えたのは香菜にそれをされたばかりだったから。それもあっての気のせいかとも思われた。しかし視界の端に映った気がしたのだ。バルコニーに潜む人影が。考えられる可能性は四つあった。
一つ、ただの見間違い。気のせい。このパターンであれば俺は死んでいた。
一つ、空き巣。八一階なれば確率は低かろう。また、このパターンでも俺は死んでいた。
一つ、中岡が呼んだ捜査一課の援軍が潜んでいる。このパターンがベストなのだけれど、電波障壁を展開されていては望みは薄い。事前に伏兵を配置していたという可能性もなくはないとも考えたけれど、そうであれば中岡の窮地に既に飛び出してきていよう。
そして最後の一つ、非番の香菜が俺の捜査に勝手に着いてきている。これこそ俺の予想の大本命であった。そして願いにも似たそれが見事に的中した。まさにストーカーの鏡である。
「……助かったよ、花澤木刑事……って、おい? 待て! おい、やめろ! 止まれ!」
香菜は俺に一瞥もくれず、大股でずんずんと若本木の老体へ迫っていく。もう長い付き合いだから後ろ姿でわかる。もう長い付き合いなのにこれまで見たこともないほどに激怒している、と。身体から湯気のように怒りが立ち上っている。そんな錯覚さえ起こる。さながら世紀末救世主伝説の主人公だ。
痛む身体に鞭を打ち、重力に抗い、俺は慌てて立ち上がる。止めなければいけない。下手をすれば若本木則夫を殺してしまいかねない。急いで香菜の後を追えば、テーブルの向こうに見えてくる。仰向けて倒れ、意識が途絶えている老人。そして、その胸ぐらを掴む香菜の姿が。
勝負は一撃でついていた。さすがのAIヒューマンといえど、生身がシャットダウンされてしまえば人工知能としての演算能力は活かせまい。肉体のポテンシャルを最大限まで引き出しようもなく、失神した若本木はただの八二歳の老人であった。この状態から追撃を受けたなら間違いなく絶命しよう。
「やめろ、香菜! 殺すな! そこまでだ。もういい。俺は大丈夫だから。なっ?」
「……殺す? 私がそんなことするわけないじゃないですか。まったくもう」
言葉を返してくる前に香菜は大きな深呼吸を三回ほどした。どうにか思い留まってくれたらしい。そしてそのまま手錠ならぬ首枷を意識のない若本木に嵌めた。これによって若本木の脳内に埋め込まれたマイクロチップはその機能を制限され、拡張部が無効化される。人間であれば通信機能や記憶容量が制限されるなど以外、特に問題は起こらない。しかし、そこを使わなければ存在できない大容量の人工知能人格となれば話は別だ。完全に封じ込められたことになる。
「これは想定外だね。まさか若本木紀夫がやられてしまうなんて」
「形勢逆転ってところかしら?」
「さあ? それはどうだろうか、お嬢さん?」
野津田健次郎が横たわる中岡隆聖の身体を蹴り上げながら余裕を見せる。香菜と俺の目前にさらに損傷の進んだ捜査一課のエースの半壊したボディが転がる。
「動けそうなのはお嬢さん一人だよ? 見てのとおり中岡隆盛刑事はもう動けない。石平彰刑事もね。はたして形勢は逆転してるのかな?」
「ちょっと笑えるわね、あなた。私は捜査一課の人間なのよ? この状況、完全に詰んでいるのが分からないの? 野良として創られ、ろくに教育されなかったみたいね? 親の人工知能とは上手くいっていなかったのかしら?」
野津田が警戒と不可解さをその丸顔に滲ませる。俺も同様に首を捻った。香菜に策があるならば、もはやそれに賭けるしかない。
「捜査一課と特殊急襲部隊の人間には対ロボット用の装備が秘密裏に配備されているの。当たり前でしょう? 人間がロボット相手の抑止力を持たないとでも? それに捜査一課と特殊急襲部隊の人間相手には特別なセキュリティがかかるのよ、あなたたちの側にね。少し自分で考えられたり、調べられたなら、それくらいすぐに分かるのに」
言うなり香菜が猫科の猛獣よろしく身体をしならせる。そして次の瞬間、弾丸のように飛び出すや文字通り指先ひとつで野津田をノックアウトした。あまりのスピードで対ヒューマノイドロボット用の制圧用武器の形状が見えず、ゆえに本当に秘孔を突いて倒したかのように見えた。なんとも滑稽である。
「……はあ? これで終わり? 嘘だろう? 捜査一課……様々だな」
「石平さん? そこは捜査一課様々じゃなく、香菜様々でしょう?」
悪戯っぽく覗き込んでくる花澤木香菜の笑みが、どうしてか森木東明里のそれに重なる。性格は真逆と言ってよいほど違うのに。不意に膝から力が抜けた。もたれていたリビングのテーブルをずり落ちる。
「ああ、そうだな。神様、仏様、香菜様、様々だよ」
「石平さん。しからば、ごめん」
「……ったく、何時代の人間なんだよ? お前は?」
一体なんの悪ふざけなのか。そう思った瞬間、何某かの衝撃が首筋に走り、俺は不覚にも意識を失った。次に目が覚めたのは、すべてが解決した後の病院のベッドの上。残された面倒事はすべて片付けられていた。捜査一課の花澤木香菜巡査が如何に優秀であるのかが垣間見えた瞬間だった。中岡隆聖巡査部長が彼女を一課から手放したくないと話していたのも、あながち詭弁ではなかったのかもしれない。
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