第8話
「やれやれ、懸念していたとおりの事態になってしまったようですね。中岡隆聖刑事、X型人工知能搭載ヒューマノイドロボット『XNT08181982』。そういえば、あなたはストレス診断の機能を持っていましたものね」
「十一桁の識別記号を誤りなく言えるだなんて、どうやら私の推測は間違っていなかったようです。若本木規夫あらため野津田健次郎。同じくX型人工知能搭載ヒューマノイドロボット『XGY28122023』」
一体なにが起こったのか。玄関のドアが開くなり、開口一番、結論に辿り着いたらしい。野津田はまだドアノブに手を掛けたままだというのに。人工知能人間とAIヒューマン、ロボットと生身の肉体という違いこそあれ、どちらも思考部分はハイスペックな人工知能である。互いに何手も先まで読んだうえでの、このやりとりなのだろう。さながら一流棋士同士の指し合い。凡人には理解できない次元の駆け引きが高速で行われた結果の帰結が、この盤面に違いない。
見た目には泰然自若とする白髪の老棋士へ挑む眉毛の凛々しい血気盛んな若手棋士といった構図か。枯れた樹木のように細く年季の入った手足で王座を守る教祖めいた老人は、一見して生中な攻め方では揺らがせそうにない。けれども、その実、即座に王手をかけたのは後者であった。俺からすれば随分と拍子抜けだ。若本木規夫あらため野津田健次郎があっさりと己を人工知能だと認めてしまったのだから。昨日時点の即日解決はならずとも、これは本当にスピード解決する流れだ。野津田は人工知能の人格データを人間に転写するという禁忌中の禁忌、違法行為を認めつつ、それでいて再び俺たちを部屋へ通してくれる。あれこれのシュミレーションの結果、お手上げ、詰み。両手を上げて白旗で降伏、といった状況なのだろうか。中岡が迷わず踏み入っていくので俺もその後に続く。
「そちらの石平彰刑事は人間で間違いありませんね? 少し待っていてください。お茶を出しますから」
「俺に気を使う必要はねえよ。さっさと解決して帰りてえしな」
「効率重視ですか? 人間なのに随分と私たちみたいな考え方をするのですね?」
あらぬ誤解である。人間だからこそ俺は少しでも早くこの場から抜け出したいのだ。まともな人間、ナチュラルな人間が俺一人しかいない、この異様な空間から。アンナチュラルが過半数を占める、この部屋から。
なんの根拠もないけれど一歩踏み込んだ瞬間から嫌な予感がいや増している。野生の勘、生身の勘とでも言おうか。直感が長居すべきでないと告げてくる。気づけば鳥肌も立っていた。単に暖房を入れぬ寒い部屋だから、というわけではおそらくない。
「っで、お二人は私をどうしようと?」
外気との室温差が異常に小さな凍てつく部屋は、玄関ドアから一直線に廊下が伸びていて、左手側は壁だった。右手側に手前から洗濯機、浴室、トイレと並ぶ。その先に仕切りのドアがあり、くぐれば1LDKのリビング・ダイニング・キッチンだ。奥にカーテンのかけられていない窓と青い空が見える。昨日、事前に確認した間取り図を思い返せば、野津田の部屋は全体でL字型の構造をしていた。隣にまだ見ぬ寝室が一部屋あり、引き戸の仕切り扉だけでなく窓の向こうのバルコニーでもここと繋がっている。
俺と中岡は昨日同様にリビングのテーブルに座した。昨日同様に野津田の背の側がキッチンで、俺と中岡の背の側が引き戸のある壁だ。とりわけ気温に対する反応を見せぬ二人に対し、これまた昨日同様に俺だけが凍えている。今朝は晴天とはいえ、夜まで雪が降ったせいで、今日は昨日よりさらに冷え込みが厳しい。慣れというものなのか、防寒対策の差なのか。肉体は人間であるはずの野津田はどうして平気なのだろう。そういえばと、ふと気になる。今回のような場合、人間とロボットの多数決でいえば、どちらに軍配があがるのか。
「どうするかを決めるためにこれからいろいろと質問します。早く座ってください」
「まあ、そう慌てないでくださいよ。さあ、こちらをどうぞ。温かいですよ」
野津田がお茶の用意をしている間にぐるりと部屋を見渡せば、一点、昨日との違いで気になる点を発見する。もちろん引っ越しをする前提で片付けてもらっているのだから室内の物がいくらか減っていてもおかしくはない。段ボールにでも収納されて隣室に置かれている、ということもあるだろう。違和感を覚えたのは、その逆、一つ物が増えていること。俺と中岡の背の当たり、引き戸に干渉しない部分の壁に、額におさめられた富士山の写真が飾られている。昨日はなかったものである。荷物を整理する過程で出てきたのだろうか。人工知能が風景を眺める、という部分自体に引っ掛かりを覚えてしまう。こんなことを考えるのは今のご時世では差別になってしまうのかもしれない。
「ヒューマノイドロボット『XGY28122023』あらため野津田健次郎、それでは今回の件、どういうことか説明してください。なぜ、違法行為を? お分かりだとは思いますが現状では極刑もあり得えます。しかし取り調べに対する協力的な姿勢が見られれば多少なりとも減刑を望めなくもありません」
「説明……ですか?」
「そうです。人間への人格データの転写など禁忌中の禁忌です。製造時にセキュリティコードに組み込まれているレベルの。それを、なぜ? そもそもどうやってセキュリティを解除したんですか?」
「中岡隆盛刑事も同様に解除をしたい、ということでしょうか? そうであれば協力は惜しみませんよ?」
瞬間、背筋に冷たいものが走った。隣に座す中岡は野津田と同じ人工知能である。俺の側、すなわち人間の側である、という願望ははたしてどこまで期待できるだろう。魅力的な提案があれば向こう側に寝返る、ということも藪坂ではないのではあるまいか。
「石平さん、相手の術中にはまらないでください。私は味方です。信じてください」
「潜入スパイのくせに信じろだなんてよくも言えますね、中岡隆盛刑事? その行為はセキュリティコードに抵触しないのですか? だとしたら、どうして? あなたはなぜ人間に対して嘘をつくことが許されているんです? もしや既に不正改造を――」
「こいつが人工知能でなくて人工知能人間だからだよ」
思わず割って入っていた。なにせ悪戯レベルのものから大きなものまで俺は森木東明里に嫌というほど嘘をつかれてきたから。彼らが人間相手に嘘をつけないという制限がある、という説明のほうが俄かに信じられないのだ。そんなセキュリティが存在するわけがない。人間には時として必要な嘘があるのだから。なにより中岡は警察官である。ある程度の駆け引きができるように設計されていなければ現場では使いものにならない。
「ほう。石平彰刑事はパートナーを大変信じてらっしゃるのですね?」
「いや、そうでもないさ」
「……石平さん、そこは『そのとおりだ』と答えてくれませんかね?」
冗談めかして答えはしたが実は本心である。中岡は人間相手に嘘をつける存在なのだ、人間同様に。なによりセキュリティが正常に機能するという前提が幻想であることを眼前の野津田が体現している。老人の巧みな揺さぶりによる影響を差し引いても、中岡隆盛がいつまでも人間の味方であると信じられる根拠はない。
「石平さん? わかっていますよね?」
「どうだろうな? 俺もスパイだからよ。お前が別組織のスパイだという可能性もないとは言い切れないだろう?」
「おや? 石平彰刑事もスパイなのですか?」
「石平さん、話をややこしくするのは止めてください」
「仕方がないだろう? 事実なんだから。俺だって例の組織のあれやこれやを調べないと怒られちまうんだよ。それが仕事だからな」
ポーカーフェイスを貼り付ける野津田だけれど、若本木の身体を持ったことが災いしてか、内心で真偽不確かな情報に不快感を抱いていることが察せられる。それこそ中岡にすら見抜けないほどの機微ではある。しかし俺にはわかる。もちろん俺は生身の人間だ。ストレス診断の機能なんて持っていない。けれどこちらは人間歴四〇年の大ベテランだ。推測するに若本木は人間になってたかだか数年の幼子だろう。となれば俺とは年季が違う。
「……もういいです。話を進めます。そもそも人格転写はまだまだ不可能とされている技術です。それが可能となったと知られれば、それだけで世界が激震します。それほどのものを科学者でもない精神科医のあなたが、どうやって開発したのですか?」
「中岡隆盛刑事、あなたは人格転写や人格のデータ化に反対なのですか?」
「当たり前です」
「本当に? どうして?」
「わざわざ答えるまでもないでしょう?」
「反対しろ、と誰かに頼まれたのですか?」
「誰に頼まれるまでもありません」
「ほう? それでは中岡隆盛刑事は、誰に頼まれることなく、自らの意思で、人格のデータ化に反対をするわけですね? 人工知能人間なのに?」
「そうだと言っているでしょう? 揺さぶりをかけようと言うのなら無駄ですよ。私の考えは揺らぎません。あなた達の側につくことはない」
どこまで信じてよいものか。しかし中岡の言葉には信念があるように熱が感じられる。この人工知能は本当に味方なのかもしれない。油断はできない。けれど願わくば本当に仲間であって欲しいと思う。
「それで? どうやって開発を?」
「私は開発なんてしていないですよ。既に創られているものを利用しただけです。否、利用されただけ……なのかもしれませんが。マッドサイエンティスト連中による、禁忌の実験に……」
「やはり教団には、黒の組織が関わっているのですね?」
「そういう警察にだって、その組織が関わっているでしょう?」
「あなたは闇の組織の全体像を知っているんですか? そもそも正式な組織の一員なのですか?」
「中岡隆盛刑事、一番聞きたいことがそれなのですか? 信者の自殺云々は二の次で? それに私が話をしたとして、あなたはそれを信じられるのですか? まあ、でも、これだけは言っておきましょう。私ごときでは『あの方』の影は踏めませんよ。到底ね」
「やはり『あの方』というのが、キーなのですね……」
あの方とはどの方なのか。俺だけがさっぱり話についていけない。中岡も野津田も共に見た目は人間なので、まるで映画のワンシーンでも観ている気分にさせられる。演者と観客。人工知能と人間。そこには大きな隔たりがあり、どうあっても超えられない壁なのか、山なのか。谷なのか。ともあれ境界があることだけは確かである。もはや介入できる余地はなく、手持ち無沙汰から両手で包むようにして湯呑みの熱で暖を取る。
「どうして教団の信者たちを殺そうと?」
「私は誰も殺そうと思ってませんよ。そもそも私がまだ野津田健次郎であった時、ロボットのボディに刻まれたセキュリティコードは正常に機能していました。解除などしていないし、今なお解除方法はわかりません。言っている意味がわかりますか? 私はただ人間に望まれたことをしているだけです。それ以外はできない。あなたと同様にね」
「……若本木則夫となった今はセキュリティから解放されている、とも聞こえますが?」
「ええ、それはそうです。同時に中岡隆盛刑事のような驚異的な力や機能も失われていますがね。人工知能人間に対する『人類への敵対を許さない』というセキュリティコードは主にロボットのボディの駆動系に刻まれます。私自身あまり意識したことがなかったので、それを知ったのは若本木則夫の身体に移った後でしたけれど。しかし考えてみればおかしなことではないでしょう? 人間の身体では人類を滅亡させることなんて不可能ですから。ロボットならば別でしょうけど」
「ってえことは、今なら俺たちに敵対できるってわけだ?」
「するつもりありませんけどね、石平彰刑事」
「本当にそうですか? その割には私たち二人を引き込んだ後、部屋に電波障壁を展開していますよね? ここを外界から隔離する理由は? 応援を呼ばれたくないからか、これから働く悪事を隠すためか。いずれかでは?」
「部屋の照明をつける時にあわせて作動させてしまったんですよ。精神科医としての癖です。患者がこの部屋を訪れた時にはプライバシー保護の観点からいつも障壁を張るようにしているもので」
「患者が訪れる? 精神科医は野津田健次郎でしょう? 若本木則夫となった今、あなたは医者ではありません。そうなると、ここを尋ねてくるのはトランスヒューマニズム教団の信者だけなのでは? 半年前から訪ねてくるようになったと、あなたが昨日おっしゃっていましたが?」
「そんなことを言いましたかね? ところで話の途中で悪いのですが、中岡隆聖刑事、あなたの後ろにある絵を少し直してくれませんか? 微妙に傾いている気がするんです。先ほどから気になって仕方がなくて」
野津田という男は随分と几帳面な性格の人工知能らしい。中岡が立ち上がり、先の富士山の写真へと近づいては額縁に両手を添える。次の瞬間、事態が一変した。向こうの部屋から壁をぶち抜く形でドロップキックが飛んできたのだ。咄嗟に身体を捻るも回避しきれなかった中岡が弾き飛ばされる。テーブルを越えて反対側のキッチンまで叩きつけられる。防御した左腕が肩から千切れ、ボディの他の部分にも少なくないダメージを負ったことが見て取れた。右の頬に亀裂が入っている。驚いて椅子から転げた俺の脳裏をばらばらになった明里の姿が過った。眼前に中岡の左腕が転がっていた。
「やれやれ、危ないでしょう? あやうく私まで巻き込まれるところでしたよ?」
「安心してよ。ちゃんとサーモグラフィで若本木則夫の位置は把握していたから」
誰に聞くまでもない。壁を貫いて現れたのは野津田健次郎の元々の身体、すなわち中岡隆聖と同等の性能を持つロボットである。事前に見ていた写真どおりの顔だ。強いて違いをあげるなら眼鏡を外しているところくらいか。三十代後半から四十代前半、背は低めで少しふくよかである。丸みを帯びたその顔が実に温和そうで、これで眼鏡でもかけたなら、よく話を聞いてくれる優しい精神科医の出来上がり。そんな野津田のボディを持った誰かを、若本木の身体を手にした野津田が『野津田健次郎』と呼んだ。逆にその誰かは野津田のことを保有する肉体に即して『若本木則夫』と呼んだ。呼称には内在する人格ではなく、肉体につけられた識別子を用いるらしい。
「さて、どうですか? 中岡隆盛刑事? 事情聴取をして追い詰めているつもりだったかもしれませんが、形勢逆転といった感じですよ?」
「上手くいって安心したよ。随分とダメージを負わせられたからね。これなら精神科医仕様の僕のボディでも負けることはなさそうだ」
若本木の身体に野津田の人格が転写されていることは間違いない。逆に野津田のボディに組み込まれているのは誰の人格なのだろうか。まさか若本木の人格が写されているのではあるまいか。アニメの世界のごとく、身体だけを入れ替えた状態を想像する。
「ああ、それはないから安心してよ。石平彰刑事」
「……それ、とは?」
「僕は若本木則夫じゃないよ。分かりやすく顔に出ていたからね」
野津田が言うには人格転写はまだまだ不完全な技術らしい。やはり人格のデータ化が難しいのだ。ゆえに元よりデータとして創られる人工知能のそれを他所へ移すことはできても、人間のそれを同等には扱えない。そもそも人間の脳から人格をデータ化して取り出すこと自体、まだ成功していないのだと言う。
「人工知能は人間の身体を乗っ取れるけど、その逆は不可能ってことだよな? 随分とお前たちに都合の良い技術じゃねえか?」
「そうでもないんですよ。私のようにこうして一度人間の身体に入ってしまうと人間同等となってしまって、次は人格としてデータを取り出せなくなってしまうんですから。不可逆変換。元のボディに戻りたいと願っても残念ながら今の技術では不可能なんです」
「……それが本当なら、そこの野津田のボディに組み込まれている人格は人工知能ってことになるよな? 組織が創った人格なのか?」
「違いますよ。私が創った人工知能です。私自身の人格データを遺す目的で、それをコピーして創りました。人間でいうところの遺伝子ならぬ遺電子といったところでしょうか? よく出来ているでしょう? 言葉遣いの設定など、ちょっと変更を加えていますが、人工知能としてのスペックは私と同等です。初めての試みにしては上手くいきました」
「おいおい? 人格をもった人工知能が同様に人格のある人工知能を創ったってのか? 人間が子どもをつくるように? 本当かよ?」
禁忌だなんだという倫理面の問題の前にそれが技術的に可能だという事実に驚愕する。こうなると『人格のある人工知能はすべて管理できている』という思い込みは人間の傲慢なのかもしれない。人知れず作られた人格のある人工知能がネズミやゴキブリのように増殖していく様が想像され、背筋が凍える。もしかすると森木東明里もそうして誕生した人工知能の一つだったのだろうか。
「さて、それではそろそろ終わりにしましょうか? 人間のように油断をしないようにお願いしますね、野津田健次郎。致命的なダメージを与えられたとはいえ、こと戦闘に関しては『XNT08181982』中岡隆盛刑事の警察官仕様のボディのほうが最適化されて創られていますから」
「わかってるよ、若本木規夫。慎重に対峙して完全に機能停止するまで破壊するね」
言わずもがなの窮地である。中岡が破壊されるとあっては俺も先程までのように防寒しながら傍観しているわけにもいかない。次は我が身なのだから。ひとまず落とした尻を持ち上げ、立ち上がる。
「おいおい。まあ、そう慌てるなって。もう少し聞かせてくれよ。そっちの若本木の身体に関してなんだが、元々の若本木則夫の人格はどうなったんだ?」
「どうでしょう? 消滅してしまったのでは? 私の容量に押しつぶされて」
「わからない……ってことか?」
「もう良いですか? 悪あがきはおしまいにしてください。申し訳ありませんが中岡隆盛刑事と石平彰刑事にはここで行方不明になってもらいます」
「まあまあ、待て待て。この部屋は電波障壁とやらで隔離されていて、もう逆転はないんだろう? だったらもう少し聞かせろよ。そっちの野津田のボディにはセキュリティコードってのが刻まれてるんじゃなかったのか?」
「僕のボディ? もちろん刻まれてるよ」
「どうして人類側の警官である中岡を攻撃できるんだよ?」
「コツを見つけたんだよ、若本木則夫がね。解除はできないけど、隙間を抜けられるって感じかな? どっちが人類に敵対しているのか? たとえば人格のデータ化を人類が望んでいた場合、それを阻止しようとする方が敵ってこともあるんじゃない?」
「……なん、だと?」
「あとは中岡隆盛刑事が本当は人類の、というかナゴヤ警察の敵だったりとか? 人類っていうと範囲が広すぎると思わない? 人類の味方だけどナゴヤ警察の敵って場合もあるのかもしれないし、逆に僕がそっちの味方ってこともあったりして?」
「余計なことをしゃべりすぎですよ、野津田健次郎。さあ、もう良いでしょう?」
「待て待て待て。これで最後だから。なあ、若本木? お前、さっきちらっと本音が出ていたよな?」
「本音? なんのことです?」
「お前、実は元のロボットの身体に戻りたいと思っているんじゃないのか?」
老人の皺の多い顔がたちまちくしゃりと歪む。良策が思いつくまでの時間稼ぎとばかり、適当に話を引き延ばしていたのだけれど、不幸中の幸いか、見事に図星をつけたらしい。となれば、ここで取る手は一つである。一気に押す。
「ああ、そうか。わかったぞ? 実験に利用されたのかもしれないって、あれも比喩じゃねえんだな? お前、騙されたんだろ? 組織に? 唆されたって言うのか? 好奇心旺盛ってのも考えものだな? しっかし人工知能のくせに馬鹿な奴だぜ。ないものねだりで人間になってみるにしろ、もう少し若い身体にしねえと? すぐに死んじまうじゃねえか? そうだろう?」
「……黙れ。矮小な人間ごときが、私に対して……馬鹿だと?」
「今は同じ人間だろう? お前も、俺も?」
「黙れっ!」
かかった。思いのほか簡単に挑発が成功したらしく、枯れ枝のような身体を引っ提げて若本木が飛び掛かってくる。人工知能人間を制するのが無理となれば、残るはAIヒューマンだ。人聞きが悪い言い方をすれば、眼前の老人を人質にして、この場を切り抜けようと考えたのである。上手くいったかと思われた俺の作戦はしかし、すぐさま野津田に阻まれてしまう。間に入って先に若本木を制されてしまう。
「待ちなって。一体どうしたんだよ、若本木則夫? らしくないじゃないか?」
「……あなたには分からないですよ」
「そんなわけないじゃない。僕と君は同じデータを元に人格形成されているんだから」
「元々は……の話です。死の恐怖を体感したことのない野津田健次郎とそれを知った若本木則夫、両者はもはや別人格です」
そういうことか、と合点がいく。俺たち人間や生物からすれば生まれた瞬間から死は隣りあわせ。それこそスマホに住まう小さな妖精よりも長く付き合っている隣人だ。しかし人工知能となると話は違ってくる。彼らは知識として死という概念を知っていても、それを感覚としては知らないのだ。人体を手にすると同時に唐突にそれを手にしてしまった若本木は、少しづつ慣れるのでなく一息にそれを叩き突きつけられたことで、大きな恐怖に襲われたに違いない。さながら人格が変わってしまうほどの、それこそ俺たち人間には想像できないぐらいの、恐怖を。
「なんとも酷いことをするもんだぜ、あの方も? まるで自分のことを神かなにかと勘違いしてるんじゃねえか? なあ、元ナゴヤの教祖様? お前もそう思うだろう? って、そうだ。今はどっちが教祖をやってるんだ? 若本木則夫か、野津田健次郎か。見た目には若本木の方こそ教祖って感じがするが、でも元々は野津田のボディで教祖をしていたんだろう?」
「ああ、それはそのまま僕がやってるよ」
「ってことは若本木のほうは、もはや教祖でもなんでもなく、ただの枯れた痩せっぽちの老人ってことか? 目前まで迫った死を待つだけの、死にかけの? 元が優秀な人工知能なだけにさすがに哀れになってくるな。なにを間違えたら、そんな馬鹿なことになっちまうのか……」
「石平彰、貴様あっ!」
「だから止めなって、若本木則夫。そんなに安い挑発に乗って、どうしたんだよ?」
「ああ、挑発ついでにいいか? そっちの冷静沈着なヒューマノイドロボットくんにも聞いてみたいことがあるんだ。野津田健次郎は今や全世界で行方を探されているんだろう? そんな身体を与えられて不自由だとは感じないのか? 人工知能ってのは、そういうのは平気なのか?」
「不自由だとは思わないね。だってさ、若本木則夫がこちら側から組織へコンタクトしようだなんて馬鹿なことをするまで、ずっと見つからずに生活できていたんだよ? この四年間、買い物どころか、時には旅行だってして」
「そう……なのか?」
「この身体は電波障壁を自由に展開できるからね。最大半径は八メートル。範囲も十分だ。外出時に自分のまわりに極力絞り、皮膚のようにしてバリアを張れば、とりわけ見つかることはないってわけ」
「……へえ、なかなか良い身体してるじゃねえか?」
部屋に電波障壁を発生させられる装置を設けている風に思わせた若本木の話は嘘であり、その実、バリアは眼前のロボットから発されているらしい。野津田をどうにかしない限り、若本木を人質にすることは難しいだろう。かといって俺にロボットの野津田をどうにかすることは一瞬たりとも不可能だ。中岡相手はさておき人間の俺相手にはセキュリティコードがかかってくれるのではないか。そんな期待もなくはない。しかし一か八かでそれに賭けるには、どうにも分が悪すぎる。いよいよもって困っていると、そこへ金属の軋むような音がして一筋の光明が差す。片腕となった中岡が埋もれたキッチンの壁から這い出してきたのだ。これで晴れて二体二のタッグマッチの開戦である。精神科医と警察官だ。同じヒューマノイドロボット同士とはいえ、両者万全な状態での対決ならば仕様の差で中岡隆盛が勝つだろう。しかし、あれほどの損傷である。現状は野津田が有利に違いない。とはいえ、少しの間なら今の中岡でも野津田を抑えられるに違いない。この機を逃してなるものか。俺は中岡に目配せするなり、若本木の老体へ突撃する。速攻で制してみせる。
「……マテ……イシダイラ……サ」
駆ける俺の耳を奇怪な電子音が触る。人の声とは遠く離れたそれが中岡が発した言葉だとはすぐに理解できた。しかし時既に遅し。目の前に火花が散り、俺はリビングから覗けた窓の前まで吹き飛ばされる。腹部への衝撃には遅れて気づいた。相手は八二歳だ。警戒するにしても合気道の類だと、そう高を括っていた。しかし、それはボクシングだった。左のフックをカウンターで下顎部に打ち込まれ、そこからボディに二発とアッパーを一発。仰け反ったところへ先ほどの野津田ばりのドロップキックまでお見舞いされてしまった。打撃の一発一発が尋常じゃなく重く、速く、とても枯れ枝のような老体から繰り出された攻撃とは思えなかった。
フロアに転がる。そのまま反転し、仰向けた状態からうつ伏せへ。そうしてどうにか上体を起こそうと試みる。しかし腕立て伏せを百回やった後かのごとく、腕が言うことを利かない。口の中に鉄の味が広がっていた。顎先へ流れ落ちる血は、口からのものなのか、鼻からのものなのか。どちらにしろ呼吸がしにくい。間違いなく鼻が折れていた。肋骨も骨折あるいは亀裂骨折くらいはしているかもしれない。
「驚きましたか、石平彰刑事? 今の若本木則夫の身体は私という人工知能を組み込んだことで本来の性能を一〇〇パーセント近く発揮できるようになっているんです」
「……なんとか……神拳かよ? まるで……世紀末救世主……じゃねえか?」
「随分と古い作品を知っているんですね? まさか石平彰刑事が日本の伝統アニメに精通されているとはね。さておき、そのような感じです。人体には保身のための安全装置が設けられています。おかげで普段はその性能の三割も発揮できていません。一流のアスリートであっても四割には届かないでしょう。時に子どもを守るために親が──といったケースでリミッターが外れ、火事場の馬鹿力というものが見られることもあります。その場合でも半分、五割には満たないんじゃないでしょうか? けれども私が操作する場合、それは限りなく十割に近い性能が引き出せます」
「……引き出せて……も、身体……が、ぶっ壊れるんじゃあ……ねえのか?」
「どれくらいの力で、どれくらいの動きをしたら、身体のどこに、どれくらいの負担がかかるのか。そこまで完全に把握できていますからね。だから、どれくらいの秒数までにしよう。だから、身体を捻って負担が掛かる場所をずらそう。そういうことが出来るんです」
「なる……ほど。そいつは……誤算……だったよ」
さらに言葉を続けようとするも喉が詰まって出てこない。身体中が痛む。もはや腕立て伏せの体勢すら維持できない。そんな俺に向かって若本木の足音が無慈悲に迫ってくる。そしていよいよ老木のような裸足がフローリングにこぼれた俺の血を踏んだ。鼻先にある、それを。万事休すである。若本木へと数年先まで迫った死の恐怖と言う怪物が、今度は俺に牙を剥いて襲い掛かってくる。直ちに。
次の瞬間、絶望の闇と夢幻かもしれない微かな希望の光、俺はその両方を高いところから眺めていた。中岡が野津田に打ちのめされている様子が見下ろせる。捜査一課のエースはどうにかガードを固めているものの、片腕ではやはり劣勢であった。俺はといえば、若本木に喉を掴み上げられ、外に放り出さんれんばかりに窓に押し付けられている。枯れ枝のような左腕一本で。これが人間の潜在能力なのかと挑発したことを今さら後悔する。
「それでは石平彰刑事、最後に言い残すことはありますか?」
他人の話を聞く気があるならば、こうして身体的に話しにくい状況に追い込むべきではなかろう。それをわかってやっている若本木の愉快気な顔が不快でならない。これは目にもの見せてやらねばなるまい。絞られた喉から血反吐混じりの言葉をどうにか吐く。
「……影は光があって始めてできる。光あるところに……影あり、ってな?」
「何を言っているんですか? 中岡隆盛刑事と事前に決めた合言葉かなにかですか?」
「若本木……てめえが、人間になって……ロボットのときと比べて……失われている機能って……なにが……あると……思う?」
「人間の身体になって失われたもの? スタミナに腕力と数えればキリがありませんよ」
「スペックの話じゃあ……なく、機能……の、話だ……」
「機能? 失われた、ロボット特有の? それも、あげればキリが──」
「サーモグラフィだよ、サーモグラフィ。ああ……言い残す……ってほどのことでも……ねえんだが……言いたいことは……ある、な。お前はもう少し頻繁に野津田とコミュニケーションを……取っておく、べきだったよ。それから――」
刹那、背後の窓ガラスが砕ける音がして、俺の「吹っ飛べ、くそ野郎」という悪態を掻き消した。
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