第5話
どうやら中岡は無言のままパトカーの内部からあれこれ指示を飛ばしていたらしい。庁舎の裏手に到着するなり、待ち構えていた香菜が小走りで迎えにくる。というか、俺に向かって突撃してくる。すぐさま左腕を捕獲され、相合傘に入れられた。すぐそこが軒下なのだから傘なんて不要だし、彼女は屋根のあるところで待っていればよく、わざわざ雨雪の下に出てくる必要はない。そんな非効率的な行動に対し、中岡は一言も指摘をしないまま、ひとり足早に庁舎内へ進む。俺と彼女が遅れて後に続く。
「お待たせしました。花澤木刑事。雨の中のお出迎えをありがとうございます。ここでは会話ができないため、石平刑事と三人で場所を変え、少しお話を聞かせてくれますか?」
「石平さんがいるなら、私はどこへでもいきますよ。あっ、そうだ。中岡さん、確認なんですけど、中岡さんは途中からお一人で捜査に戻られるんですよね? 今日は私と石平さんは、この後は揃って休暇をいただけると聞いてるんですが? 嘘じゃありませんよね?」
「ええ、それで構いません」
「やった!」
この流れでは「そんな話は聞いていないんだが?」とは言い出しにくい。なぜだか俺に固執する花澤木香菜は二年前に捜査一課に配属されてきたキャリア組のホープである。その優秀な追跡能力は警察官になる前からのもので、俺は五年か六年ほど前から彼女に追い回されている。俺が婚約者を失ったのが春先、香菜と出会ったのがその年の秋口で、はじめて労災を使う事態に見舞われたのがその後の冬のこと。当時、明里の件で相当に参っていた俺は、彼女に追い回されることで現実逃避することができ、今思えば救われていたのかもしれない。まさかその四年後に警察官となり、正面から堂々とナゴヤ警察本部に入ってくるとは思ってもいなかったけれど。彼女いわく俺と少しでも長い時間一緒にいるため、だそうだ。
言わずもがな花澤木香菜という女性はやると決めたらやるタイプの人間である。それも、とことんまで突き詰めて。見た目こそ小柄で愛嬌があり、丸顔が可愛らしく、どことなくハムスターに似ている。雰囲気もゆるゆるふわふわしたものを纏う。しかしそれでいて上司が相手だろうと言いたいことは言い、殺人犯と相対してなお毒を吐く。そうした芯の強さを持っている。そのうえ己に敵対した相手は手段を選ばず徹底的に叩くと豪語している豪傑で、実際に何度かそうした場面もあったらしい。そんな容赦の無い一面があると知れてなお、男性陣からの人気が高いのだそうだから世の中とはわからない。一重に俺が捜査一課の面々から恨みを買っている一因が、この彼女からの理由の分からぬ人気である。年齢は二九歳。少し調べてみたところ幼い頃に事件に巻き込まれ、かつての捜査の中で俺が助けた云々といったドラマチックな記録はなかった。今の彼女からは想像できないけれど、昔は酷く病弱で、幼い頃は入院生活ばかりを送っていたらしい。余命を宣告されたこともあったそうだ。そこから奇跡的な回復をみせて今に至っている。死の際を乗り越える時になにかしら恋愛感覚に異常を来してしまったのではなかろうか。俺のような冴えないおっさんのどこが良いのか、まったく理解できない。
そんな香菜を今回なぜ招集したのだろう。人工知能人間の中岡である。俺にけしかけて面白がっているわけでもなかろう。さらには捜査二課である俺と違い、香菜は直属の部下なのだ。能力についても把握済みであるはず。となれば野津田健次郎や若本木規夫に関し、彼女ならば解き明かせる謎があると見ているのだろうか。一課の山なのか、中岡が調べている別件と言うのも気になる。
雨で外回りをする人数が少なく、ゆえに庁舎内に人が多いからか、思いのほか会議室が埋まっていたため、俺たち三人は取調室を代わりに借りることにした。無機質な机を挟んで中岡が正面に、言うまでもなく香菜が俺の隣に座る。なぜだか腕を組んで。明かりの入りにくい小さな格子窓が一つの狭い部屋である。パイプ椅子に座って捜査一課のエースと向かい合っていると、これから己が取り調べを受ける気持ちにさせられ、なにはなくとも謝罪したい気持ちにさせられるから不思議だ。己の部屋だったとはいえ、こうした状況でストレスを感じなかったという若本木はやはりどこかしら異常と言える。さておき香菜はといえば、こちらもまた精神的な重圧をまるで感じていない風である。彼女もまた普通でないらしい。
「それと本題の前にもう一つ聞かせてください。私の捜査二課への異動希望って、どうなっているんですか? もう二年になるんですが?」
「申し訳ありません。花澤木さんは非常に優秀なため、どうしても捜査一課に必要な人材でして。そう簡単に二課への異動を許可することは難しく……」
「話が違うじゃないですか! 私は採用面接の時からずっと二課を希望しています。それを何度も伝えているじゃないですか!」
すかさず俺は香菜の言葉を掌で制した。捕獲されていない彼女から遠い方の手で。すぐにヒートアップするのが彼女の悪い癖である。若さゆえと言えるのかもしれない。ここではしかも責められるべきは中岡ではなかった。彼女の異動希望を阻害しているのは他でもない俺なのだから。中岡にすれば、とばっちりもいいところ。この忙しい最中、こんなことに不毛な時間を費やしているわけにいかない。
「……ああ、ええっと、悪いんだけど……花澤木刑事とは、俺が、その、一緒に仕事はできない、と上申していて……だな。花澤木刑事が二課に異動してくるなら、同時に俺を他部署へ異動させてくれ……と、願い出ていたりもする。だから、その……中岡刑事を責めるのは……筋違い、というか……でな?」
絶句。無言。沈黙。陰鬱。香菜が顔を伏せ、細身の身体を折りたたんだ。そのまましおらしく涙する、といった性質であればナゴヤ警察の本部まで追いかけてきやしないだろう。死の淵を乗り越えた尋常ならざるメンタルの強さを持ち、また俺に関する部分でのみネジが一本も二本も外れている。それが彼女なのである。
次の瞬間、捕獲されていた側の腕に激痛が走った。ハムスターが獰猛な猫科の猛獣へ、さながら虎へ豹変する。捕まえていた俺の腕を両手で振り回して壁際へと投げ飛ばすなり、同時に飛びかかってくる。いくら鍛えているからとはいえ、彼女のそれはとても同じ人間の膂力とは思えなかった。若さどうこうで片付けられるレベルでない。たちまち香菜の交差した両腕に左右の胸ぐらを捕み上げられ、俺は取調室の壁にめり込むのではないかと思うほどに押しつけられる。両足は爪先立ちに至るまで浮いていた。華奢な女性の腕で、どうしてここまでの力が出せるのか、甚だ疑問だ。
「おい、一体どういうことだよ? なあ、彰? 私がてめえと一緒に働きたくて頑張ってるってこと前々から知ってるよな? なあ? なんで邪魔すんだよ? ああん?」
「花澤木さん、そこまでです。あと四二秒で石平さんがブラックアウトしてしまいます。ひとまず手を離してください」
「黙れよ! 関係のねえ奴が横からしゃしゃってくるんじゃねえ!」
「私は職責上、花澤木さんの上司にあたります。関係なくはありません。あと二九秒です。早く手を離してください」
首が締められ、呼吸ができない。香菜と中岡の言葉が遠くなってきた。このままでは本当に意識を失い兼ねない。だからといって正面の彼女を蹴り飛ばすわけにもいかない。説得しようにも既に声は出ず、なかなかに万事休すである。持ち上げられたまま成す術なく、滲む視界に激昂する香菜を見下ろしていると、ふと欠片も似ていない明里の姿が脳裏に浮かぶ。まさか走馬灯ではあるまいか。いよいよ絞め落とされかけている俺を見て、森木東明里は、激怒する香菜と対照的に、愉快げに笑っている。笑い事ではないのだけれど。そう注意したかった。もちろん声は出せない。
「花澤木さん、そこまでです。これ以上は私も実力行使にうつらざるを得ません。カウントダウンをしますからゼロまでに手を離してください。いいですね? いきますよ? 三、二、一──」
ふっと首の締め付けが緩められる。途端に忘れていた重力を感じ、硬い床に尻もちをつく。待ち焦がれた酸素がいきなり肺に届けられ、勢いあまってむせる。咳き込む。そのまま冷たい床を転がる。雨特有の独特のにおいとカビっぽく鉄臭い取調室のにおいが蘇ってくる。完全に違法で暴力的な取り調べを受けた容疑者さながらである。
「石平さん、大丈夫ですか?」
「……ど、どうにか。持つべきものは優秀な上司だと、あらためて学びました……中岡刑事、ありがとう……ございます」
「まったく石平さんってば冗談がすぎるんだから。そんなに強くやってないじゃないですか?」
「……あれで手加減したってんなら……それこそ冗談のような話……だよ」
未だ立てずに座り込んでいる俺の肩を、香菜が軽く、しかし執拗に叩いてくる。彼女の性質は爆弾に近しい。発火するなり猛獣と化したかと思えば、爆発後は何事もなかったかのようにカラッとさっぱり元に戻る。さっきの、今で、そのハムスターのような丸顔から愛嬌ある笑みを向けられると、その落差、緩急から、なにやら寒いもを感じさせられる。メンヘラやサイコパスという言葉の片鱗が見え隠れし、どうにもまともな人間と思えない。だからといって俺が彼女を避けている理由はそれではない。まだ明里のことを忘れられていないから。それだけだ。
「……ええっと、それで本題は中岡刑事?」
「お二人を呼んで確認したかったことはもう済みました。お昼には少し早いですが、石平さんはこのまま今日は休暇を取ってください。明日は若本木の部屋の引っ越しがあるので、連日で申し訳ありませんが、朝から捜査に従事するようお願いします」
「……えっ? もう、いいのか?」
「はい、終わりました。花澤木さんはこのままもう少しだけ話をさせてください、二人で。その後は石平さんと同様に休暇を取らせますので」
事情わからぬまま一人先に追い出され、俺は捜査二課に戻って帰り支度を整えた。せっかくの休暇だし、なによりこの寒さである。さっさと帰宅しようかとも考えたのだけれど、それはそれで後から面倒な事になるからと踏みとどまり、庁舎の小さい方の売店でペットボトルのお茶を買っては脇のベンチで窓の外の雪を眺めて時間を潰した。暗黙の了解として香菜との待ち合わせはいつも人の少ない南側のこの売店なのだ。昼飯くらいは一緒に取ってから帰らなければ安心して休むこともできないとは、なんとも難儀な話である。しかもそれを相談しようものなら、たちまち自慢話だなんだと批難されてしまうから始末が悪い。ある意味で俺は贅沢者なのだろう。
雪に飽いた俺が視線をずらせばベンチとコンクリート壁の間に香菜の背丈ほどあるパキラが一鉢、ラスターポッドに申し訳なさそうに植えられている。今度はそちらを眺めて時間を潰す。三つ編み状にねじられた茎のうえを、時折、蟻の姿がちらついた。我が家にもあるこの観葉植物の名前を教えてくれたのは香菜だったろうか。それとも明里だったろうか。なぜだか時折二人の境界がぼやけるから不思議だ。まったく対照的な二人なのに、どちらも草花を好むところは一緒だった。
程なくして香菜の走る軽やかな靴音が聞こえ、俺はベンチから立ち上がった。中岡からの話はおそらく先の件の説教だろう。ゆえに俺はそこには触れず、ランチの場所をどこにするかから会話を始め、この忙しい冬の雪の降る日に久方ぶりに通院するわけでもないのに半休を取った。寒さは朝よりも増していたけれど、雨よりは雪のほうが幾分か気分はマシであった。香菜は傘は一本にすると言って譲らず、俺はやむなく相合傘におさまって歩いた。街はクリスマスへ向けた準備でちらほらと赤や緑へ色を変え始めており、なんとなしお菓子やケーキの甘い香りがする気がした。歩くだけでもそれなりに楽しめ、それはそれで悪くない午後になった。香菜からは夜までデートをし、イルミネーションを見ようと誘われたけれど、俺はもうそんなに若くない。風邪を引くからと早めに帰宅し、缶ビールを数本飲んでは翌朝に備えて早めに寝支度を整える。しがない下っ端刑事の、それも四十を超えた独身男の半休ともなれば、こうして色気もへったくれもないのが常なのだ。
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