第2話
「教祖ではありませんよ」
窓の向こうに目をやれば見上げていた時よりも幾分か黒い雲に近づいていた。ドローンはもっと低いところを飛んでいるらしく、その姿が見えない。部屋に入るなり雨のにおいは遮断されたものの、あらたに僅かな鉄臭さを感じた。高層階特有の薄めの空気によるものだろうか。騒がしかったドローンの飛行音まで遮断され、静寂に包まれた八一八号室。八一階の、エレベーターの側から数えて八番目にあたる部屋。地上からおよそ二七〇メートルの高さである。
地べたを這いずり回るのが仕事の俺からすれば天界にも等しいそんな高所に住む野津田健次郎は白髪を長く垂らした老人だった。老人の姿をしていた。失礼ながらも、痩せ細り朽ちかけた老木のようだと思った。髪とは対象的に皮膚は色素沈着が進んで黒く、そこに刻まれた皺がことさら樹皮のような肌を構成している。あまりにステレオタイプなその外見は教祖を名乗るためにあえて設えたようにさえ思えた。そんな風貌をした彼の口から真逆の言葉が飛び出すものだから少々面食らってしまう。野津田は微塵も戸惑うことなく、すんなりと朝早くからの事情聴取に応じてくれた。やましいことはない、と暗に主張したいのだろうか。そんな風に勘ぐって逆に怪しく思っていたところであった。それなのに。
「私は宗教観など欠片も持ち合わせていませんから」
「……ええっと、えっ? 教祖じゃあ……ない?」
俺と中岡が通されたのは、なんの変哲もない1LDKのリビングだった。寒々しくすら感じられるほどに生活感が薄く、こざっぱりとしている。観葉植物の一つもない。人間であればミニマリストの類に入ろう。しかしてヒューマノイドロボットであれば、これが普通なのかもしれない。思えば俺は中岡をはじめ、彼らの日常をあまり把握していない。だから想像することもできない。人間であれば孤独を感じてしまいそうな飾り気のない空間で、眠る必要のない人工知能人間は日々どのような生活を送っているのだろう。
さておき今は事情聴取に集中しなければ。せっかくあがりこめたのだから少しでも多くの情報を持ち帰らねばならない。あらためて視線を巡らせればリビングには木製のテーブルが一つ、そこへ揃いのイスが四脚配されていた。キッチンを背にする側に野津田が座り、対面に俺と中岡が座している。俺の左手の側、中岡の向こうに玄関へと続く廊下があり、右手にあたる南側にバルコニーに通ずる窓が見える。大きめの窓からは暗い曇天が覗けていた。カーテンは敷かれていない。そもそも設置すらされていないようだ。寝室は俺の背の側にある壁の向こうだろう、引き戸の仕切りがあったことを入室時に確認している。壁や天井はシンプルに白で統一され、床はフローリングというごくごく一般的な洋室だ。とりわけ目ぼしいもの、というか物自体がほとんどない。
それでいてしかし、テーブルには温かいお茶が三つ湯気をあげている。小腹の空いてきた俺としては少々残念ながらお茶受けはなかった。家主がヒューマノイドロボットならば当然だろう。むしろ来客者用のお茶の用意があったことのほうに驚くべきかもしれない。とはいえ、やはりロボットはロボットである。室内の温度にまでは気が回らないらしい。あるいは彼らにとって、これが適温なのか。まるで屋外と変わらなかった。俺としては、お茶よりも暖房機器を作動させてもらいたかった。けれども早朝に押し掛けている手前、こちらからは頼みにくい。部屋の中でコートの前をあわせながら、ふと、この場で湯呑みで暖を取っているのが己だけであることに気づく。三人のうちの二人、過半数がロボットなのだ。もしかすると室内にいる三人それぞれの適温、その平均を人工知能が算出した結果、この寒さとなっているのかもしれない。おそらく真の意味で冬の寒さを感じられるのは、ここでは俺だけなのだ。付け加えるならば空腹を感じられるのも俺だけだろう。
「あの、もう一度確認させてください。あなたは教祖ではないのですか? トランスヒューマニズム教団の信者は、たしかにあなたがナゴヤの教祖だと話しているのですが?」
「あなたとは誰を指しているのですか?」
「もちろん、あなたです」
オウム返しの俺の返しに野津田があからさまに不機嫌さを浮かべた。そのあまりに人間めいた表情の変化に心中で衝撃を受ける。少しでも気を抜けばロボットであることを忘れてしまいそうだ。隣の中岡隆聖しかりであるけれど。しかし刑事である中岡よりも野津田のほうがさらに表情が豊かだった。むろん教祖と呼ばれる老人である。子どもや一般人よりは感情を読ませぬところがある。それでも今回の事件で、はじめてヒューマノイドロボットと接している俺にとっては驚愕以外のなにものでもない。人工知能人間とは、ここまで人間然としているものなのか。改めて驚く。
「……石平彰刑事、もう一度聞きます。あなたとは具体的に誰を指しますか?」
呆気に取られていられるのも束の間、野津田が唐突に、それも湯呑みを倒しかねない勢いでテーブルに身を乗り出し、強めの口調で詰めてきた。相手が人間であれ、ロボットであれ、こうした時に事情聴取でやることは変わらない。俺は視線を切らさず、眼前の教祖然とした老人を正面から見据えた。毅然として言い切る。
「目の前にいる野津田健次郎さんが教祖だ、と伺っています。違うのですか?」
「……やはりね。石平彰刑事、残念ながら今のあなたの言葉には大きな矛盾があります」
「矛盾……ですか?」
脳の拡張すらしていない人間であり、不完全であることを自覚している俺だ。人工知能に指摘されると、たちまち不安になってしまう。気弱を悟らせぬように表情を固定する。知らずと手にした湯呑みに力が入り、掌に伝わってくる熱がじわりと増した。わからない。今の俺の言葉のどこに破綻があり、どんな矛盾が生じているのか。
「そもそも私は野津田健次郎とかいう全国に数体しか存在しないヒューマノイドロボットではありません。人間です」
絶句した。まさかの返しに言葉に詰まった。やはり一筋縄でいく事件ではないらしい。どうにも最初から異様だったのだ。なにがとは言いにくい。けれど、なにかがおかしかった。事情聴取を受け持つと言っていた中岡も隣でこの有り様である。ポーカーフェイスを決めこんではいるけれど、野津田を見るなり故障したかのごとく、固まったまま一言も発さない。
「……えっ? ええっと、えっ? それでは……あなたは?」
「
「若本木? こちらは野津田さんのお宅だと登録されているのですが?」
「そうみたいですね。私も少し前にそれを知らされました。しかし私は野津田健次郎という人物を知らないんです。この部屋も私の意思で借りたのですが、どうしてこんなことになっているのか……」
ひと昔前の三文小説であれば記憶喪失を疑うところであろうか。しかし現代では違う。契約事の大半をAIが代替してくれる世の中だからだ。もちろんそれをしてくれるのは、日本に数体しかいない希少なヒューマノイドロボットなどでなく、人間の生活を便利にしてくれる姿なき人工知能たち、現代社会のそこここに溢れる、俺いわく『小さな妖精』だ。ゆえに若本木本人に手続きの記憶が薄くても、なんらおかしな事はない。彼自身、多くの人間同様に、拡張脳内の補助AIに契約手続きを丸投げしたに違いないから。
「AIがミスをして間違った名前で手続きを? いや、それは考えにくいか。となると、契約後にデータベースをハッキングされ、書き換えられた……のか?」
本物の野津田健次郎が己の真の所在を掴ませないため、他者の名義を己のものに書き換えたのかもしれない。人工知能人間のハイスペックなAIであれば、小さな妖精たちを欺くことなど容易かろう。たちまちこの場に人間が二人いることになり、見えていた風景がにわかに様相を変じる。さながらカメレオンコートの色のように。無機質で色のなかった野津田のリビングに色彩が灯り、病室のような白さだと感じていた壁が柔らかく黄色味を帯びて見えてくる。生身の人間が二人、お地蔵様と化して黙しているヒューマノイドロボットが一人。多数決で人間が逆転した。
「これは失礼しました、若本木さん。失礼ついで、というとなんなのですが……念のため、あなたが人間であることを確認させていただいても?」
「ええ、構いませんよ」
捜査用の端末をテーブルの上に取り出し、人物認証アプリを起動する。目を上げれば、若本木が少々驚いた顔をしていた。
「……スマホというものを久しぶりに見ましたよ」
「皆さん、大抵は頭の中に入れてしまいますもんね」
「もしかして石平彰刑事は脳の拡張をしていないんですか?」
「ええ、そうです」
「やはり。それで……」
「ええ、それなのでこちらの捜査用端末とそれと別にこちらも。プライベート用端末です」
コートの内ポケットから私用のスマホも取り出して隣に並べてみせる。若本木が俺の顔をじっと見つめ、それから視線を机に落として懐かしさに目を細める。
「このご時世にまさか二台も同時にスマホを見られるとは思いませんでした」
「まあ、操作中に手が塞がるという点を除けば、スマホ相当の機能を拡張して脳に入れるのも、こうして手で持ち運ぶのも、それほどの差はありませんから」
「捜査中に手が塞がる? 捜査の妨げになるのなら警察の方としては致命的なのでは?」
「ああ、いえ、違います。潜入捜査などの『捜査』でなく、スマホを操作するの『操作』です」
「ああ、なるほど」
頷く若本木を促して端末の画面中央に人差指を置いてもらう。ついで中指、薬指、小指。最後に親指の順に。すぐさまAIが判定をくだし、眼前の老人が人間の若本木規夫であると知れる。年齢は八二歳。結婚はしていたものの、六年前に奥さんを病気で亡くしていた。六年前に婚約者を失った俺と、やや似た境遇だ。子どもはおらず、それからは一人暮らし。記録によれば四年前に引っ越しをしている。けれども転居先の住所が不明となっていた。この部屋の借り主が野津田健次郎にすり替わってしまったからだろう。
「わかってもらえましたか?」
「はい。ご協力ありがとうございました。ちなみに、こちらにはいつからお住まいに?」
「四年前に引っ越してきました」
言動に不自然なところはなく、引っ越してきた時期も即答。それもデータどおりに。これはいよいよ嘘をついていそうにない。
「……ここ最近なんです。おかしな人たちが、この部屋を訪ねてくるようになったのは」
「最近とは具体的にどれくらい前からですか?」
「半年くらい前からでしょうか。石平彰刑事たちと同じように……私を……野津田健次郎という人だと勘違いした人たちが……」
となると、若本木規夫の名義が野津田健次郎に書き換えられたのは半年前なのかもしれない。これまで一向に見つけられず、行方不明であった野津田の居場所が特定できたのも、間違いなくそれの影響だ。半年はかかったもののようやく特定できたと言えるのか、なにかしらの計画のためにあえて掴まされたのか。どちらもありそうな線である。
「宗教関係の人たちですよね?」
「はい。全員が先ほど石平彰刑事がおっしゃっていたトランスなんちゃら教の信者の方々でした。私のことを教祖と呼び、処理速度の向こう側? そこへ連れていって欲しいとか、なんとか?」
「状況はわかりました。お時間を少しください。どうしてこうなっているのか、調べてみます。ちなみにマスコミの関係者や新聞記者が訪ねてきたことはありますか? ここはまだ私たち警察関係者しか知らないはずなのですが?」
「マスコミ? そういった人たちは……今のところは、まだ……」
「そうですか。安心しました。しかし既に信者が訪れているとなると油断はできません。ここが注目されるのも時間の問題です。申し訳ありませんが、しばらくの間、身の安全を確保するために若本木さんには別のところに避難してもらわざるをえません。マスコミ関係者や事件の遺族の方々が、若本木さんを野津田と間違え、攻撃的な行動に出てしまうかもしれませんので。急で申し訳ありませんが、明朝、お迎えにあがっても?」
「……わかりました。準備しておきます。といって老い先短い身ですので、特に持っていくようなものなどありませんが」
出たとこ勝負の一歩目が大きなぬかるみにはまってしまったことは人間である俺であっても容易に理解できた。捜査一課のエースはといえば、その優れた演算能力をもってして数多のシュミレーションを繰り返してでもいるのか、未だ隣で押し黙り続けている。どうにも深刻な顔で。仙人のような老人が異常な様相を呈している中岡に触れないでいてくれるのが、せめてもの救いである。
「本日は朝早くから押しかけてしまい本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、大丈夫です」
「それではまた明日の朝に伺いますね」
喉は乾いていなかったけれど、礼儀とまで、握っていた湯呑みに口をつけた。温かい緑茶が喉を通り、ゆっくりと腹の底まで落ちてくる。しかし目の前の状況は何ひとつ腑に落ちていかなかった。間違いなく難事件である。不意に今は亡き婚約者の言葉が蘇り、にわかに鳥肌が立った。背筋を寒いものが走り、知らずと身震いが起こる。たまらず外に視線を逃がせば、ちょうど雨が降りはじめたところだった。空腹の感はすっかりおさまっている。朝飯どころではない事態への突入を、ひと足先に身体が察したのかもしれない。
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