レプタリアン6

 こんなはずじゃなかった。

 森本豊は、もはや何本目かも曖昧なビール缶のタブを起こしながら思っていた。

 500ml缶を一気に半分ほど飲み干す。ちゃぶ台の上に置きっぱなしだったそれは温く、不味かった。だがどうでもよかった。アルコールならなんでもいい。飲まなければやっていられない。そう自分を慰めた。なぜなら、こんなはずではなかったのだ。

 ではどんなはずだったのか。どうすれば別の道を歩めたのか。どうすれば現状から抜け出せるのか。そう自問し、内省し、行動に移せる人間であれば、そもそもこうはなっていない。

 実のところ、それは豊自身が誰よりもわかっていた。わかっているからこそ、それを忘れ、直視せずとも済む一時を提供してくれる逃避の先が、彼の片手に握られている缶だった。

 豊が酒を覚えたのは、高卒で入隊した陸上自衛隊だった。

 特に志があったわけではない。地元奈良でも底辺と揶揄される高校に出された求人票の中で、豊なりにもっともマシと思われる選択肢が自衛隊だっただけだ。

 学もなく、かと言って一目置かれるほど運動が出来るわけでもない。家庭環境を考えれば、進学どころか自動車学校に通って免許を取る費用さえ厳しい。自衛隊なら免許もタダで取れるし、貯金も出来る。楽ではないだろうが、嫌になれば任期満了で辞めてしまえばいい。

 教育隊を可もなく不可もないまま過ごし、普通科連隊に配属された豊にとって、陸自は楽な環境だった。確かに訓練は厳しい。だが、陸自を構成するピラミッドの最下層である陸士は、ただ上に言われたことをやるだけの繰り返しでいいのだ。

 指定場所に居住する義務から、駐屯地での営内生活は相変わらずだったが、教育隊よりは外出の自由のある部隊で、豊が夜の街での遊びに手を出すようになるのに、時間はかからなかった。

 せっかくの休日を、することもなく駐屯地で寝て過ごすより、遥かにマシだし楽しい。そう豊は思った。

 決して高給ではないが、仮に無一文になろうが、駐屯地に戻れば食堂での三度のメシと、営内という寝床が確保されている自衛官ならではの余裕は大きかった。当初は嗜む程度だった酒、パチンコ、風俗遊びにかける時間と金は、徐々に、しかし着実に増加していった。豊に対する部隊内での評価が悪化し始めたのも、それに拍車をかけていた。

 上から言われたことをやるだけでいい、それが許されるのは最初の一年目だけだということを、豊は理解していなかった。

 二年目になれば、自動的に新たに入隊してきた後輩たちの指導を任されることになる。教育隊で基礎は叩き込まれているとはいえ、部隊のことはまだなにもわからない後輩たちに仕事を教え、彼らの失敗は自分の責任として引き受ける。自衛官として、社会人としての最初の一歩だったが、ただただ受け身で過ごしていた豊に、それがうまく出来るはずがなかった。

 なんでこいつらの面倒をみなければならない?なんでこいつらはちゃんと出来ない?なんでこいつらがミスった時に、俺までちゃんと指導しろと叱責されなければならない?俺のせいじゃないのに。豊の頭にはそれしかなかった。

 そして、その苛立ちをそのまま後輩たちにぶつけた。かくして出来上がったのは中身のない言葉を無意味に怒鳴り散らすパイセンだ。

 最初こそ、後輩たちは豊に対する恐怖から従っていた。豊を指導する立場のベテラン陸曹や幹部たちも、そのうち慣れ、豊自身も成長し変わるだろうとの期待もあり静観していた。

 だが、豊は一向に成長しなかった。任期制隊員が自動的に昇任出来るのは陸士長まで。それ以上を望むなら、さらに言えば任期ではなく定年まで陸自にいたいのであれば、陸曹昇任試験を突破しなければならない。

 この頃には、豊はこのまま楽な陸自に居座り続けるつもりでいた。部隊としても、なんにせよ意欲があるならばと昇任試験を受けさせた。

 だが豊は落ちた。同時に受けた同期たちがあっさり受かった中、ただ一人落ちていた。それは豊にとって、初めての挫折だった。

 この挫折を乗り越えて成長出来たならば、話は違ったのだろう。しかし豊は挫折感を酒とパチンコと女で埋める道を選んだ。いつしか入隊にあたり、両親と約束していた毎月の仕送り分にまで手を出すようになっていた。

 当然のごとく、翌年の昇任試験も豊は落ちた。この時点で豊の部隊内での評価は上からも下からも固まった。一言で言って、使えない、だ。

 同期どころか後輩までもが次々と3曹に昇任し、責任ある立場を任されていく中で、昇進も出来ず、上からも下からも評価の芳しくない陸士長を、部隊がとりあえず人数合わせで飼い殺してくれたのも3任期、6年目までだった。

 引き止める者もなく、あるはずだった貯金もなく、事実上陸自を追い出された豊は、大阪の聞いたこともなかった土建会社に就職した。

 自衛隊より給料が貰える。それだけの理由で就職したそこは結局長続きせずに、以降彼は職を転々とする生活に陥ることになる。

 それでも、慎ましくしていれば生活出来る収入はあるはずだった。しかし、陸自で狂った金銭感覚はそうそう治らない。だが遊ぶには金が足りない。

 ――足りなければ借りればいい。返済は、まあその時に考えればいい。

 10万が20万になり、1社が2社になる。気づけば借金の総額は3桁を超える多重債務者に成り下がっていた。

 稼いだ金は端から返済に消えていく。そこに来て、夜の街で知り合ったつまらない女が孕んでくれたおかげで――



「こんなはずじゃなかった」


 一人の部屋で、豊はいつの間にか空になった缶を握り潰すと、忌々しげにつぶやいた。

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