レプタリアン4
月は出ていなかった。
あやめは顔を上げた。いつの間にかおじさんと壁にもたれかかって眠っていたようだ。すでに夜だった。廃屋の室内は、闇に包まれていた。
そうだ、おじさんは?
あやめの心臓がどきりと脈打つ。隣にいたはずのおじさんがいない。
どうしよう。おじさんまでいなくなったのだろうか?
しかしそのほとんど恐怖に近い感情はすぐに消え、あやめはほっと息を吐く。なんてことはない、おじさんはすぐそばの窓際にいた。立ち上がり、そこからじっと外を見ていただけだ。
自分が目覚めたのも、おじさんが起きた気配を察したからだろうとあやめは納得する。
「どうしたの?」
あやめは振り向くことなく外を見続けるおじさんに、普段とは違う「怖い」雰囲気を感じ取り、声をかけた。
「なんでも、ナい」
ようやくあやめが目覚めたことに気づいたらしいおじさんは、あやめに向き直り、辿々しく言った。
「だいジョうぶ、へいキ」
なんでもない、大丈夫、平気。当初こそ互いの発する言葉がわからず、コミュニケーションに苦労はあったが、頻出する単語であれば、なんとなく意味も含めて覚えてしまうものなのだろう。おじさんは、無理のあるぎくしゃくとした微笑みらしい表情を浮かべる。
なんでもない、大丈夫、平気。それはあやめの口癖だった。正確には、自身に言い聞かせている言葉だった。そして微笑むのは、心身の傷の痛みを少しでも和らげるための、あやめにとって唯一に近い処世術だった。
そういえば、とあやめは思う。初めてここでおじさんと出会った時にも、自分はそう言っていた。
2ヶ月前、今日のように酔った父に手を挙げられ、咄嗟に逃げ込んだこの部屋で、あやめはこの異形と遭遇した。
明らかに人ではないそれに対する驚きはあったが、不思議と、恐怖はなかった。
失った片腕、そこかしこに残る火傷の跡。血走った、だがその奥底に隠しきれない苦痛を湛えた双眸。それが自身と同じように追い詰められ、何かから逃れようとしつつ、果たせず、身も心も焼かれている最中なのだということを、なんとなく察したのもある。
異形もまた驚いていた。咄嗟にあやめを押し倒す。人間のそれとは比較にならない力で。ついで、容赦なく首を締め上げようとした。
ああ、殺されるんだな、とあやめは思った。だが抵抗しようという意志は、恐怖同様に湧き上がらなかった。
自分と同じ存在に殺されるなら、それでいい。そんな風に思ったのかもしれない。
「大丈夫」
ほとんど無意識に、あやめは異形に言っていた。平気だから。そして、なぜだか大粒の涙を溢しながら微笑んでいる自分に気づいた。
あやめにとって、その異形が寸刻でもたらすであろう死は、ある意味では解放だった。
父の暴力からの。生まれながら晒され続けてきたあらゆる理不尽からの。死んだらどうなるかはわからない。だが、少なくともここではないどこか、なにかになるのだろう。あるいは、なにもないのかもしれないが。
異形は、獣の唸り声のような何かを口にする。明らかに困惑していた。必死の抵抗を覚悟していたのに、それがないことに気勢を削がれたのかもしれない。
どれくらいそうしていただろうか。やがて、異形はあやめの首にかけた手を離した。
「どうして…?」
異形はまた何かを言った。それきり、静寂が訪れた。
そこからだった。おじさんとの奇妙な、それでいてひどく穏やかな時間が始まったのは。
あれ以来、おじさんは決してあやめに危害を加えようとはしなかった。
暴力を振るわない。父との生活しか知らないあやめにとって、それだけで信頼するには充分過ぎる理由だった。それが人間と似て非なる異形であろうとも。
あやめにとって、いつしかおじさんと呼ぶようになったその存在は、唯一の友人であり、また庇護者でもあった。
だから、あやめはおじさんを守ることにした。傷つき、何かに追われ、故にここに隠れていたらしい、おじさんを。
ねえ。あやめは残されたおじさんの片腕をそっと引く。おじさんはされるがままにあやめの隣に座り込む。
「ずっと一緒にいてね」
おじさんにもたれかかりながら、あやめは囁くように言った。
「いなくならないで」
おじさんはあやめの頭をそっと撫でる。その心地良さと、何よりも深い安心感に、あやめは再び眠りに落ちていた。
だが、レプタリアンは眠ることはなかった。それはじっと、窓の外の闇を見続けていた。
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