ヒトガタ2

 陸上自衛隊木更津駐屯地は、陸自航空科部隊の一大拠点だった。広大な敷地に滑走路を抱えるここには、陸上総隊第1ヘリコプター団、東部方面航空隊第4対戦車ヘリコプター隊、そしてそれらを支える整備、補給、気象等の様々な部隊が駐屯していた。

 空を飛んでる自衛隊機は全部航空自衛隊。それほど自衛隊に興味がない人には漠然と思われているが、実際のところ陸海空それぞれが航空機を運用している。空自はイメージ通り戦闘機を、海自は哨戒機を、そして陸自はヘリコプターを主に運用していた。

 もっとも海空も救難ヘリや輸送ヘリ、哨戒ヘリ等を運用しているので、ヘリすなわち陸自とは言えない。またややこしいことに陸海空共にUH-60系の機体を運用しているのだからパッと見ではますますわからない。おまけに在日米軍の同型機も飛んでいる。隊員やオタクであれば塗装や細かい差異からすぐにわかるのだが、世間一般で一緒くたにされても仕方がない。

 かつてのマヤと鮎沢がそうであったように、航空学生として最初からパイロットを志し、筆記試験と厳格な適性検査を突破して入隊した者を厳しく教育し、時に冷酷に振るい落とし、一人前のパイロットを育て上げる海空と違い、陸自のパイロット教育はやや特殊だ。幹部候補生学校からパイロットになるコースと同時に――本人の希望や適性、また相応の努力が必須ではあるものの――職種を問わず、ひとまず陸自隊員であれば一番下っ端の陸士からでも目指せる門戸が開かれている。陸曹航空操縦課程―― FECがそれだ。

 陸自の航空科部隊は地上部隊との連携がなによりも重視される。従って、歩兵として泥に塗れた勤務経験がある者も望ましい資質がある人間、となる。

 第1ヘリコプター団第104飛行隊所属のCH-47JA特別改修型、コールサイン「アズマS」の機長、奥田直哉3等陸佐もそうしてパイロットになった一人だった。

 奥田は高卒で陸自に入隊した。入隊当初は特に自衛隊における目的意識があったわけではない。ましてやヘリパイになるなど考えてもいなかった。秋田の田舎の三男として生まれた彼が入隊したのは、進路選択の際に両親から大学に行かせる金などないと現実を突きつけられたからだった。

 当初は任期満了とともに辞めて大学に進学するつもりだった。家に金がないなら自分で稼ぐ。成績も優秀でスポーツも万能。行こうと思えば防大へ進めるだけの頭脳がありながらも敢えて任期制の2等陸士の区分を選んだ理由がそれだった。

 が、入ってみると思いの他この仕事は自分の性に合っているとわかった。地元秋田駐屯地の第21普通科連隊で新隊員前期教育を終えた彼は、そのまま中隊で後期教育を経て小銃小隊配属となり、やがて中隊長の勧めもあって受けた陸曹候補生選抜課程にあっさりと合格。仙台駐屯地第2陸曹教育隊での日々を経て3曹に昇進した。この時点で、大学進学という漠然とした目標は辞めて、このまま自衛官として生きる道を選ぶことにした。

 しかしながらとりあえず入ってみた、がスタートの彼にとって、小銃小隊での日々はどこか物足りなかった。このまま続けるにしても、なにか目標が必要だ。なにか、もっと大きななにかが――

 お前、レンジャー行かないか?そんな彼にまたも中隊長は声をかけ、奥田も面白そうだという理由でレンジャー集合教育に参加した。

 端的に言って地獄だったが、彼はその課程を突破しレンジャー徽章を手に入れた。そしてその最中に生まれて初めて輸送ヘリコプターCH-47JAチヌークに搭乗したことで、彼はようやく目指すべき目標を見つけたのだった。俺はこいつのパイロットになる!

 部隊に戻った奥田は早速中隊長に掛け合いヘリパイを熱望した。奥田を一から育て、次は幹部候補生を受けさせる腹積りだっだ中隊長は当初こそ渋ったものの、最終的には熱意に負けた。かくして奥田は努力の末に選抜試験に見事に合格し、晴れて陸曹航空操縦学生の一人として航空学校宇都宮校へ入校した。

 奥田はここでも優秀だった。ヘリパイの道は厳しい。誰であれ血の滲むような努力が必要だったが、彼はそれが出来た。出来ないものが次々と原隊復帰する中でも彼は1日たりとも努力を怠らずついにウイングマークを習得し、第1ヘリコプター団での機種教育を経て念願のCH-47のパイロットとなった。また幹部候補生学校も卒なくこなし、幹部自衛官となっていた。

 そんな奥田の配属は沖縄那覇駐屯地の第15旅団隷下第101飛行隊――現在の第15ヘリコプター隊――となる。

 第101飛行隊はその活動範囲が南西諸島全域に及ぶことから、年間250回以上も離島の緊急患者空輸に従事していた。

 当然のごとく激務ではあったが、やりがいも大きかった。空輸した急患が無事に回復後、わざわざ部隊まで挨拶に来てくれた時は自衛官として当然のことをしたまでと気を引き締めつつも、やはり嬉しいものだった。

 やがて機長となって久しい奥田に思わぬ機会が訪れる。飛行隊長直々に、非公式に米陸軍第160特殊作戦航空連隊ナイトストーカーズへの出向を打診されたのだ。二つ返事で彼は渡米した。

 ナイトストーカーズは特殊部隊の支援を目的に編成された米軍屈指のエリートヘリ部隊だった。名前が示すように、特に夜間の忍び寄るような低空飛行の優れた技量を持ち、9.11テロ首謀者の暗殺作戦を始め、様々な特殊作戦に投入されている。

 奥田はそこで6年を過ごし、次々と課せらる過酷な課程を全て突破して最高度の飛行先導資格(FLQ)の認定を手に帰国。そして彼を迎えた新たな配属先が、母校ともいえる一度は過ごした第1ヘリコプター団の第104飛行隊だった。

 奥田はヘリパイとしても、自衛官としてもこれ以上になく輝かしい道を歩んでいたが、何もかも完璧な人間はいない。こと若くして入隊した優秀な自衛官に限って妙にそうであるように、彼の家庭もまた崩壊しかかっていた――というより、とうの昔に崩壊していた現実をいよいよ突きつけられた、が正解だった。

 妻から離婚を切り出されたのはつい先月。驚きはなかった。ただそうだろなという実感だけがあった。妻とは高校時代に知り合い、入隊後も一途に交際を続けて陸曹に昇進したタイミングで入籍した。そこまでは順調だったし、いま思い返しても素晴らしき青春の一ページである。

 ケチがついたのは結婚式の披露宴。当然のごとく呼んだ部隊の仲間たちが、余興で掃除機とのプロレスを披露したところからだった。

 掃除機とプロレスである。レフェリーの「赤コーナー!佐々木3曹!」「青コーナー!掃除機!!」のアナウンスで、ヒューマン対掃除機のプロレスである。

 意味がわかるよう具体的に書くとパンツ一枚の佐々木3曹が、ひたすら黒子役の陸士が操る、部隊からわざわざ持ち込んだ業務用のデカい掃除機とプロレスするのである。

 試合序盤から掃除機は執拗に乳首を狙い、ついには股間を狙い始めた。一進一退の攻防!やがて掃除機は物すごい音を立ててパンツを吸引すると、ついで佐々木3曹にもついている男の子の股間にぶら下がっているアレに食らいついた!勝負あり!勝者は掃除機!!!!

 陸自の頭が悪過ぎるノリしか知らない奥田は大爆笑だったが、世間の常識を当たり前に持っている妻、両家の親族、妻の友人一同はもちろんドン引きである。部隊の仲間たちだけが最初から最後まで元気よく馬鹿騒ぎを続けて、披露宴はお開きとなった。

 妻にしてみれば完全にぶち壊しである。その夜が奥田たち最初の本格的な夫婦喧嘩となった。

 そこから始まったすれ違いは、年月を経るにつれて徐々に、そして確実に大きくなっていった。転勤そしてまた転勤。ましてや二人目の娘が産まれるちょうどそのタイミングで、六年間も渡米して物理的に遠のけば、どれほどのおしどり夫婦でも溝は生まれてしまう。

 さらに帰国しますます忙しくなったのが致命的となった。気がつけば家庭をまるで顧みない夫、家にいない父の出来上がり。

 妻に事情を話せるわけがなく、仮に話せたとしても妻の、そして娘たちの知ったことではなかった。どだい、披露宴の余興で掃除機とプロレスする馬鹿どもの仕事を理解しろと言うのがそもそも無理がある。

 妻とはおいおい話すとして――奥田は、愛機アズマSのコクピットで離陸前点検を黙々とこなしながら思う。いまは目の前の仕事だ。

 いまの奥田には空しかなかった。それは彼自身が誰よりもわかっていた。

 比喩ではなく妻と娘たちの顔よりも見ている計器版が、異常はないことを示していた。

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