ヒトガタ

ヒトガタ1

 神崎誠3等陸尉は、嫌でも慣れてしまった手つきで隊長印にむらなく朱肉をつけると、直角水平を合わせた。強すぎず、弱すぎず、絶妙な力加減でしっかりと捺印する。よし。零事案情報隊長之印――っと。

 問題なく綺麗に押せた。仕上がった書類を束の上に載せる。やれやれ、これで一束片付いた。

 一息つきながら、神崎は周囲を――零事案情報隊事務室を見渡す。

 向かいの机ではマヤがパソコンに向かい、タコハチの件の報告書をしたためている。その隣では村木が内線電話で防衛省情報本部に事務連絡中。神崎の左隣、荒れ放題の机に鮎沢の姿はなかった。喫煙所で五本ばかしタバコを吸っているのだろう。

 前の部隊にいた頃、たまに先輩や同期たちの誘いで合コンに参加すると必ず聞かれたものだ。

 自衛隊って普段なにしてるの?やっぱり訓練?筋トレばっかり?戦車の運転とか?

 演習場での野営ばかりでもないし、反省と称する事実上の筋トレは教育隊くらい。部隊ではせいぜい朝礼で目覚ましがわりに自衛隊体操と腕立て伏せ25回、それに課業中に10キロランニングする程度。戦車の運転は機甲科の仕事で、機甲科隊員とて毎日するわけではない。というか毎日動かしていたら戦車も演習場もガタガタになる。

 答えがこれだった。いいえ、デスクワークです。

 自衛隊、その中でも特殊に過ぎる零事案情報隊とてお国の機関。なにをやるにも、やったにしても書類また書類だ。そして――その量がまた絶望的に多い。

 例えば車両を運転すると、どこの部隊でもそうであるように、運送屋よろしく使った燃料と走行距離を車両運行指令書に記入し、タコメーターの用紙を貼り付けて提出することになっている。

 いちいち面倒ではあるものの、これもきっちりと記録しておけば一両当たりだけではなく中隊レベルの部隊を一週間動かせば概ねどれだけ燃料を消費するかといった様々な予測が立てられる。そこから補給の見積もりが立てられ、有事の作戦計画も立てられる。また必要な予算を割り出して請求出来るようになるわけだ。

 そんなわけで些細かつ面倒なデスクワークにも一つ一つ意味があり、貴重なデータになる――と、言いたいところだが零情は虚しい。作成した書類は関係者や機関を巡った末に、最終的には秘密を守るためにシュレッダー行き。初めからなかったことにされるのだから。それでいてちょっとでも、それこそ隊長印が直角水平ではない程度でも不備があると突き返されてやり直しとなる。

 かくして行き着く先は形骸化、というわけだ。一般の部隊であれば「武器」や「車両」等それぞれ係が決められて業務をこなしているのだが、ここは家族経営レベルの零情。そんなものはあってない。手が空いたら次の仕事だった。

 いま片付けた書類にしても、本来は部隊長の佐藤が目を通し判を押さなければならないものだった。初めのうちは自分が扱って大丈夫なのかと不安を抱いていたが、いちいち気にすることもなく、全手動スタンプマシーンと化して久しい。そうでもしなければ到底回らない量でもあった。なにより、飄々としていながらその実タヌキとキツネとマムシのキメラな佐藤が、真の意味でニード・トゥ・ノウの書類を自分に任せるほどうかつでないことくらい、神崎もわかっていた。

 せっかくの3日間の休暇にしても、まともに休めたのは半日ほど。残りは自主的な残業で潰れた。

 ただでさえギリギリでやり繰りしている日常業務はタコハチの捜査に乗り出したところで止まっていたのだ。それの続きと、タコハチのおかげで増えた新たなお仕事の片付け。神崎に至ってはそこにタコハチに破壊された04式の新調の手配まで追加なのだから堪らない。予備の銃なら山のように武器庫にあるので差し当たり問題ないが、それはそれ。数はきっちり揃っていなければならないし、この機会にオプションパーツも最新のものに変えておきたかった。

 同じく残業だったのはマヤと鮎沢もで、唯一村木だけがきっちりと休んで家族との時間を過ごしていた。オンとオフの切り分けはしっかりと。そして仕事は定時内に全てこなせるだけの優秀さもある。彼はそういう男だった。

 これで残業代が稼げるならまだマシだが、どっこい特別職国家公務員は固定給と決まっている。すなわち、そんなものは出ない。

 そりゃシャバの友人からいい仕事を紹介されるや、陸士はおろか幹部や中堅陸曹でさえ呆気なく辞める者が後を立たないわけだ。職種によるとはいえ、運転免許以外にもシャバで役立つ免許や資格を取る機会は多い。ましてやその手当てが民間の方が貰えるとあらば尚更だった。

 とはいえ、なんだかんだでいまの仕事は嫌いではなかったし、辞めるつもりはなかった。だいたい辞めたくても辞められないのだ。対外的には、神崎誠という人物は既に死んでいるのだから。

 そもそも他部隊や防衛省の様々な部署と比較してもやたらとデスクワークが多いのは、零情の特殊な事情によるところも大きい。

 前身である未確認飛行物体調査研究班、そして零事案情報隊の名が示す通り、本来であれば零事案及び地球外生命体に関する情報収集、分析、研究を主たる任務として編成されたのが零情だった。

 しかしながら2班が病院でいきなりタコハチに遭遇したように、捜査を進めている最中不意に遭遇という事態が編成当初から多発し、殉職者も度々出た。また、駆除するにしてもおいそれと他部隊に任せるのも情報保全的にもよろしくない。

 餅は餅屋、マル外は零情に。かくして急速に零情は対マル外戦特殊部隊としての性格を強め、隊員も陸からは特殊作戦群や空挺レンジャーから、海からは特別警備隊や水中処分員を中心に、空からは主に戦闘機パイロットや救難隊のメディックからと精強無比な人員が集められ、全盛期には4個小隊プラス本部管理小隊、さらに隊本部で構成されるそれなりの所帯であり、所在も第1空挺団と共に習志野駐屯地にあった。また陸自のヘリ隊や海自の潜水艦隊、空自の飛行開発実験団等を隠蓑にした支援部隊も密かに置かれていた。

 ――それがいけなかった。徐々に、しかし確実に規模を拡大しながらも、秘密を盾にその詳細は明かさない零情は政府内で危険視されるようになった。

 そして十年ほど前になにかが起きた。なにか、とにかく致命的ななにかが。その詳細はわからない。いまの零情で知るのは当時からいた佐藤だけだった。そしてタチの悪い動物ばかり集めた合成生物はもちろん具体的に語った試しはない。

 いずれにせよそのなにかがきっかけで、零事案情報隊は一度解隊された。隊員のほとんどは陸海空それぞれの特殊部隊に転属するか、または退職する憂き目にあった。ただ一人、零事案担当官として佐藤だけを残して。

 そこから佐藤は這い上がった。たった一人で。必要に応じて他部隊を指揮下に置く基幹部隊として零情を復活させ、最初に空自の航空学生だったマヤを、そして村木と鮎沢をと徐々に人員を集め、神崎を自隊に引きこんだところでようやく一応の体制を整えた。神崎が来る前は佐藤も現場に出て辛うじて2つの行動班と戦闘班を維持していた――らしい。主に2班の二人から聞いた断片的な話だった。

 零情が全員幹部という歪な構成なのは、ニード・トゥ・ノウの観点から幹部以上が望ましいのもあるが、それよりは基幹部隊として生まれ直した現在の性質が遥かに大きかった。

 すなわち佐藤を長とし、必要な場合は全盛期同様最大で4個小隊を編成出来るように四人の幹部、というわけだ。その場合の人手は陸自の特殊作戦群や海自の特別警備隊といった、解隊時に転属した元零情隊員がいる特殊部隊から借りてくる。佐藤は隊長兼一人隊本部、残る神崎たちは一人小隊長といえる。

 もっともタコハチの一件のように、基本的には零情単独で無理矢理解決することの方が多かったが。というより、なるだけそれは避けたい話だった。なぜならデスクワークがまた一段と増えるからだ。軽く過労死ラインに達するほどに。

「ばあああん」事務室から直接隊長室へと繋がるドアが佐藤のセルフ効果音と共に盛大に開いた。「しょくーん!」

 佐藤のセルフ効果音がばあああん!だから大した用件ではないな。部隊歴が一番浅い神崎でもそれくらいはわかっていた。その証拠にマヤは顔を上げることさえなく黙々とタイピングを続け、村木は通話中。となると――おれかあ。

 しぶしぶ神崎が立ち上がる。「お疲れ様です、隊長」

「おうカンザーキ!お仕事頑張ってるかね?」

「たったいま隊長からの業務が終わったところです」

「なんと!早いな!」佐藤の目がきらりんと輝く。しまったと後悔した時には遅かった。佐藤は珍しくこれぞ自衛隊幹部な回れ右で隊長室にとって返すと、いましがた片付けたゆうに三倍の書類の束を神崎に手渡した。

「ではこれも頼んだぞ神崎3尉!ハンコ押すだけでいいからな!」

 自衛隊において上官からの命令に対する返答はYESかはいが原則である。いかに家族経営レベル、ともに日々死線を潜り抜けている者同士特有の固い絆があろうとも、なにからなにまで形骸化していようとも、それは変わらない。

「アッハイ」

「それとこれが新たに確認されたヒトガタのリストだ。駆除はお前たちに一任する。では諸君、お仕事頑張ってくれたまえ!!」

 バタン!盛大にドアが閉まる。あのドアいつか壊れる――確信めいたものを抱きながら、神崎は盛大にため息をついた。

「神崎」ちょうど通話を終えた村木が顔を上げる。「いま佐藤さんから渡された書類、渡してくれ」

「やってくれるんですか!?」

「うん。ぼくじゃなくアユがだけど」

 言いながら村木は束を受け取ると流れるように鮎沢の机に置いた。

「気にしなくていいよ。いつもアユがやってることだからね」

「ひょっとして、自分が席を外してる時に机の上にあるやつって――」

「そう、アユの仕業」

「村木2尉もでしょう」区切りがいいのか、ようやくマヤは顔を上げると神崎に向けてリストを寄越せと手を差し出す。「私もだけど」

 さらりと付け加えられた度し難い衝撃の真実に神崎が唖然とする間に、マヤはさっとその手からリストを奪い取り目を通す。

「新たなヒトガタは都内に3体。沖縄に1体。沖縄のはΣ4に任せましょう。あとは我々が」

「片付け方は?」と村木。

「ヘリ狙撃」

「了解。では1ヘリ団への連絡はぼくが。期限等は?」

「リストのヒトガタはいずれも脅威度は低い。1ヘリ団にはそちらの都合に合わせると伝えて。今月中に片付けられれば充分。駆除は1班が。2班は待機」

「了」言いながら村木は内線の受話器を上げると早速木更津駐屯地の第1ヘリコプター団へ連絡する。

 ういー。そこへニコチン臭を全身にまとった鮎沢が戻ってくる。散らかり放題ながら、机の上の新たな仕事にはすぐ気づいた。昔のドラマで名俳優が演じた刑事よろしく声を上げる。「なんじゃこりゃ!?」

「隊長がよろしくと」努めて真顔で神崎。

「本当かあ?」

「本当よ」マヤもΣ4へのメールを打ちながら言った。

 お嬢がいうなら、まあ仕方ねえな…ひとしきりぶつくさと呟いたあと、鮎沢は生真面目に仕事に取り掛かった。

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