タコハチヤ・タコヤキーヤ3
何をやっても絵になる男。本人に自覚はまるでなかったが、零事案情報隊行動2班長、村木達郎2等海尉は、紛れもなくそういう類の男だった。
長身のよく引き締まった身体に、清潔感溢れる着こなし。29歳という年齢よりも若々しく中世的で整った顔立ちだけでは決して出せない品の良さが、嫌みのない魅力というかたちで全身から発散されており、無駄のないしなやかな動作と、決して崩さない穏やかな笑みが醸し出す余裕と相まって、どこかマジシャンやカードディーラーの類を連想させた。
単に病院の廊下を歩いている今でも、世の女性を振り向かせ、視線を集めるには十分な魅力を放っていた。振り向かないのは彼の妻かマヤくらいなものだ。
村木は訳ありで転属してきた零情メンバーの中でも数少ない、真っ当に特殊部隊畑を歩んできた男だった。
大学卒業後に一般幹部候補生の区分で海上自衛隊入隊後、水中処分員を経て、海自の特殊部隊である特別警備隊の選抜課程を突破。
第2小隊長として部隊を率いていた際に佐藤に見込まれ、転属してきた経緯がある。
その一歩後を続く行動2班員、鮎沢健一は、村木とはまるで正反対の男だった。許容量を超えるアルコールに染まった浅黒い肌。ニコチンで汚れた黄ばんだ歯。でっぷり突き出た腹に、32歳という年齢には不相応な不健康さとやさぐれた雰囲気を全身から発散させており、荒れ放題な無精髭に左目の大きな傷と相まって、どこか時代劇の山賊や野武士を連想させた。
鮎沢の前職は、航空自衛隊第204飛行隊のF-15J戦闘機のパイロットだった。ある夜アンノウン出現の報により、アラート待機中だった鮎沢は僚機とともにスクランブル発進する。
しかし、遭遇した地球外からの円盤の攻撃により僚機が撃墜され、鮎沢の機も大破してしまう。炎上する機体から辛うじてベイルアウトし助かったものの、僚機のパイロットは死亡。更に鮎沢も脱出の際にヘルメットのバイザーが左目に突き刺さり、大幅に視力を失ってパイロット生命を絶たれた。絶望し、病院の屋上から人生最後のフライトを行おうとしていたところに佐藤が現れ、その誘いに乗って零情の一員となったのだった。
とはいえ、空を飛べない苦痛は未だに彼を蝕んでいた。二度と空を飛べない悲しみ、翼を奪ったマル外に対する憤り、そんな時につい酒とタバコに頼ってしまう自分に対するいらだち。その悪循環が重なり続け、ぶつけ所のない感情を受け止め続けた結果が、いまの身体だった。
スーツの胸ポケットで端末が震えるのを知覚し、村木は鮮やかな動作でそれを取り出した。
病院内、「通話はご遠慮ください」が常識の環境にいるという倫理観から一瞬迷ったが、相手は佐藤。ボスからの連絡となれば仕方ない。やけに広く薄暗い廊下には人影もなかった。聞こえるのは自分たちの足音だけで、誰かがいる気配もない。大丈夫だろうと判断し、受信ボタンを押した。
「ムラ、いまどこだ?」
「いま例の女子高生が搬送された病院に到着したところです」
深夜の訪問、それでなくとも重体で話は――と鮎沢に応対したナースステーションの看護師には難色と遺憾の意を示されたが、村木がさわやかな笑みで「警護の交代です」と一言告げればあっさりと突破できた。
「うまいこと潜り込んで、病室に向かっていたところです」
「わかった。いま神崎たちから連絡があったんだが、ヤバいことになるかもしれん。気をつけろ」
「――了解。また連絡します」
村木が端末をしまうと同時に「なんだって?」と鮎沢が声をかける。
「ヤバいことになるかも、ってさ」
「かも、ねえ」鮎沢は皮肉たっぷりに肩をすくめてみせた。「そいつは結構だな」
言いたいことはよくわかる。佐藤がそういう時は必ずロクでもない事態が発生するのだ。よくて死にかけ、悪くて本当に死ぬクラスの事態が。
「まったくだね」言いながら突き当りを左に曲がる。看護師によれば、病室はすぐそこだ。
――そして二人は、その場でぴたりと立ち止まった。
病室の前に、椅子が転がっていた。ありふれた折り畳み式のものだったが、いったいどういう状況でどんな負荷がかかったのか、ひらがななら「ぐにゃぐにゃ」、カタカナなら「ギタギタ」で表現するのが適切なほど派手に歪んでいた。
それだけなら新手の芸術作品と思えなくもない。しかしながら、そこかしこに血痕が付着しており、半ば開いた病室のドアからどす黒い血溜りが現在進行形で広がっているとなれば、それは芸術的感性とはまた別の、極めて現実的かつ重大な問題を提起していると言わざるをえない。
「なあ相棒」鮎沢はすっと落としたトーンで語りかける。右手をコートの内側に忍ばせながら。「警察官が警護についてるって話だよな?」
「ああ」答えながら村木も左手をコートの内に忍ばせた。「そう聞いてる」
「――椅子だけだぜ?」
病室の中から、ばきり、と重々しく、同時にどこか軽快な音が連続して響いた。それなり以上に修羅場を潜り抜けてきている二人は、ごく自然にそれが何なのか察していた。
――骨の砕ける音。
二人が09式9ミリ拳銃を抜いたのは同時だった。オーストリア社製の自動拳銃、グロッグ19の改良型を零情で制式採用したもので、装弾数は15発。外観上オリジナルとは区別がつかないが、零技術――地球外生命体からもたらされた特殊な改造が施されている。
消音器はすでに装着済みだ。「お静かに」が原則の病院という環境に合わせたわけではない。普段から人目をはばかる後ろ黒い仕事をしているせいだ。
二人はスライドを引いてわずかに後退させ、初弾が装填済みなのを目視で確認した。
「いつも通りな」
鮎沢は左手の指を三本立てひらひらさせた。村木が頷いた。鮎沢が突入。村木は援護だ。
スタンバイ。三本から二本へ。二本から一本へ。スタンバイ、スタンバイ。
ゴー。
スライドの扉を一気に全開にすると鮎沢は室内に踏み込む。同時にむせ返るような血の匂いと、なぜか腐った海水のような匂いが鼻腔に絡みつき、目には大惨事が飛び込んできた。
ああ、ちくしょうが。胸中に悪態をつきながら、鮎沢は素早く視線を巡らす。腐っても元戦闘機乗り。音速を超えるスピードで戦う術を身につけた男の動作に無駄はなかった。
壁にも床にも天井にも、そこらじゅうに血がぶちまけられていた。ベッドの上には女子高生。死んでいた。腹部を引き裂かれ、零れ出た臓物がのたうち、カッと目を見開いていているとなれば生きている方が驚きだ。更に一歩踏み込む。靴底にべったりと血が張り付く感触。
――動。窓際で何かが動いた。鮎沢は素早く視線と銃口をそちらに向けた。
スーツ姿の男がいた。警護についていた刑事だろう。それだけならハローと声をかけるが、それを躊躇う理由がいくつかあった。
その1。首から上がない。
その2。宙に浮いている。
その3。背後に化け物のようなものがいる。
職業柄、大概の人間より異常事態に造詣の深い鮎沢だったが、それでも一瞬凍りついてしまう。
――なんだありゃあ?
更に一歩を踏み込む。ズレた焦点が定まる。刑事の身体に、触手が蛇のように絡み付いていた。その先に、直径1メートルはある巨大な球体がうごめいていた。
限りなく紫に近い赤。頭部なのだろうが、目らしい感覚器官はなかった。よく見ると体表を粘液が覆っており、小汚い海に浮く虹色の油のごとく、不規則に色が変わってる。
それは頭部から延びる6本の触手で直立していた。ちょうど七夕飾りの吹き流しのように。グロテスクな夏の風物詩。頭足類によく似た構成。タコだった。本家とは違い、まるで食べたいとは思えない巨大なタコ型生命体がそこにいた。
それが他より図太い吸盤付きの二本の触手――おそらく、地球上のイカ類が持つ触腕と同じように、捕食のために特化したもの――で刑事を抱きかかえ、巨大なカラストンビで頭から食らっているのだと鮎沢が理解するまで2秒かかった。
そして、そういや朝の情報番組で「しし座のあなたはタコに注意」とか書いてたな、これのことかよ、と降って湧いたどうでもいい思考のおかげで、さらに1秒無駄にした。
結果として3秒間、鮎沢は呆然と立ち尽くすことになった。それはタコが鮎沢の存在を察知し、食いかけの刑事をその辺にぶん投げ、触腕を狂気じみたスピードで伸ばすのに十分な時間だった。
やばい!!反射的に体が動くが、突っ込んでくる触腕は回避できないと、反射神経さえ凌駕する戦闘機乗りの思考で理解していた。やばい、捕まる――
瞬間、9ミリ弾の直撃を受けた触腕が千切れて弾け飛ぶ。同時に、消音器で大幅に抑制されたくぐもった銃声が耳朶を打った。
病室の戸口という絶妙な援護位置にいた村木は、触腕を狙い撃って相棒のピンチを救うと、銃口をタコの頭部に向けた。タコが何が起きたのか理解し、反応するだけの間を与えず、弾倉一つ分の弾丸を一気に叩きこむ。排出された薬莢が床に散らばり、微かな金属音を散らした。そして次の瞬間、裏返るように形状を変化させると消滅していく。
収縮薬莢弾。零技術――地球外生命体によってもたらされた特殊な合金で製造されており、化学反応によって発砲から約3秒で1ナノメートルまで収縮する。弾丸も同様に収縮するため、事実上現場には何の痕跡も残らない。優れた消音性と合わせ秘密部隊である零情にはうってつけの特殊装備の一つであり、射撃訓練の度に地べたに這いつくばって薬莢を一つ一つ回収しなければならない全ての自衛官にとって夢のような装備であり、同時にとんでもないコストがかかる悪夢だった。
弾を受けるたびに、タコは刺身こんにゃくのごとく大きく身を震わせた。黒とも紫ともつかない、あまり触りたくない色の体液がまき散らされる。
タコはタコなりに抵抗を試み、千切れた触腕に代わって触手を鞭のようにしならせ村木を倒さんとするが、村木はそれ以上のスピードで触手に弾丸を叩き込んで切断することでぴしゃりと防いだ。タコにもわかるやり方で告げていた。俺に触れるな。
怯んだタコは部屋の隅に後退する。その隙を逃さず、村木は弾倉を交換する。空の弾倉を排出しポケットにしまう――弾と違って弾倉の方は消滅してくれないため、ゴミよろしく持ち帰る必要がある――と同時に、たっぷりと弾の入った弾倉を引き出して装填する。鮮やかすぎて手品のように見えた。
再び容赦なく叩き込む。
非常識極まりないのがデフォルトのマル外とはいえ、幸いなことに人間だったら一発で死ぬか、よくて死にかける弾丸をしめて30発も食らえばダウンするだけの常識は通じてくれた。タコは壁にもたれかかり、身を支えようとするが、果たせずその場に倒れ込んだ。触手が力なく蠢いている。
村木はタコの頭部を踏みつけると、とどめの一発をお見舞いした。タコはびくりと痙攣し、打ち上げられたダイオウイカか何かのようにだらりと弛緩すると動かなくなった。
突入から一分もたっていなかった。
「――なんなんだこいつは?」
鮎沢はようやくその一言を絞り出す。
「さあね。まあ佐藤さんなら知っているんじゃないかな」
村木は力なく微笑むと、端末を取り出した。
「佐藤さん――えらいことになりましたよ」
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