雨降りとキティ

卵白

本編

三題噺  雨 ごみ箱 ものもらい


雨降りとキティ



 朝。目が覚めて、目の上のそれの存在を知覚した途端、はあ、と大きなため息が出た。

 またか……。

 まどろみから覚めないままの指で、そっと左目にできた腫れ物、つまりものもらいを撫でる。にぶい、毒のある痛みが眼を刺した。

 ものもらいになるのは今月二度目だ。なんでまた?眠りから覚めたばかりの頭を思案の海に突っ込ませる。たしか、菌が入るのが原因だったか。それとも充血のような炎症が原因だったかな、はたまたそれもまた菌のせいだっけ。以前調べた理由はあやふやになり、頭の片隅に追いやられてしまったようだった。

 ああそれか、と思う。神様からの罰で、誰かからものをもらうと治るんだったっけ。

 考えてみて、ふっと笑う。

 ……ばかばかしい。

 迷信の類は、文化の一部としては嫌いでない。むしろそういうのを聞くのは好きな方ではある。しかし、原因としてまともにとりあうほど純粋な心はもう、残念ながら忙しい日々の中に忘れてきてしまった。

 学校、行くのやだなあ……。

 このまま休んでしまいたい。ベッドの上で、今月何度目かの叶わぬ願いを抱いた。しかし、そんな小さな望みも叶わず、一階から母の声が響いた。

 少女は観念して重い体を起こす。開いたままのクローゼットから出したシャツに、眠気の残る腕を通した。スカートを折り、リボンをつけていると、リビングからは母の焼くトーストの香りがしてきた。

 まぶたに神の戒めを受けた程度では、この規則正しい日常という名のレールから抜け出すことはできないのだ。そう実感してしまって、また少しため息をついた。


 さいあく。口の中で呟いた。

 だだだだだだだ、と水滴が傘を叩く。

 雨だ。

 傘の骨を肩で支え、学生鞄を背負い直す。

 女子高生というものは、概して雨が嫌いだ。髪はうねるし電車は混むし、写真を撮っても盛れないし。百害あって一利なし、強いて言えば湿度で肌が潤うことくらい。とにかく雨は、定期テストの次に歓迎されないものなのだ。

 この少女も例に漏れず雨が嫌いであった。湿度の高い日は、なんとなく気が滅入る。

 しかも今日は目が腫れている。ああもう、ここからでも帰ってしまいたい。

 何か学校に行きたくない、確固たる理由がある訳ではない。思春期特有のメランコリ、あるいは遅めの五月病のようなものだ。いじめや嫌がらせがあるわけでも、絶望的なまでに授業についていけない訳でもない。それでも、強いていうのならこの、予定に埋め尽くされて息をつく暇のない日々が、ただ窮屈に感じていた。

 朝は電車の時間に追われ、始業時間に追われ、授業が終われば部活に追われ、部活を終えて家に帰ってからは、身の回りのことと明日の準備をするだけで、明日の日付が迫っている。そしてまた遅刻の恐怖に追われるように眠りにつく。

 授業や、部活や、それら一つ一つが嫌なわけではない。充実していて楽しいと思うことは、確かにある。

 ただ、それらだけに日々を使っていると、どうにも気分が参る。まるで、一つの輪になっている循環線に車輪を乗せ、そのレールの上を、何度も、何度も、何度も走っている列車のような心地だ。いつまでも、一向に変わらない景色。変わらない発車時刻。卒業まで続くであろう、繰り返すだけの日々。

 そんな単調な高校生活に、どこか嫌気が差していた。

 やだやだ、やだ、やだ。いきたく、ないよ。

 やり場のない駄々っ子のような不満を口の中で転がしながら、不快な目の痛みに、なんなら少し泣いてしまいながら、それでも学校へ行く。親への負い目か、先生からの印象か、それとも部活での役割か。そのどれか、あるいは全てを混ぜて薄めたような、この身にかかる重さ。義務感とでも言うような、心にかかる重い霧。それらはどうやら磁力を持っているようで、もう一方の極を求めるその憂鬱にひっぱられるられるように、少女はレールの上を今日も歩みを進める他になかった。


 教室のドアを開ける。自席の机の横のフックに鞄をかけた。

 まだ誰も来ていない。

 電気のついていない教室を見渡す。

 ほう、と息を吐いた。

 いつもの光景だ。いやだいやだと言いながら、その実、せめてもと混雑を避けて早い電車に乗る習慣がついてしまったので、結局は1番か2番に着いてしまう。

 こんな自分がだいきらいー、なんて、最早流れ作業のように自虐をしつつパチンパチンと教室の電気を点けた。

 変わらない日常。抜け出せないレール。

 こんな風に鬱々と登校をして、一番乗りで教室の電気を点けるところまでが、一連の流れになっていた。

 いやだと目覚めて登校し、授業を受けて、部活をして、家に帰り、明日など来るなと思いながら寝る。そしてまたいやだと目覚め、朝一番で登校する。そんな、憂鬱で規則正しい毎日。

 もうやだ、なんて独りごちて、自分の席に戻る。

 首筋を絞めるようにまとわりつく髪がうざったくて、耳にかきあげ、少女はひとり席についた。


 さて。何をしようか。

 頭の中のTo Doリストを浚った。

 今日は課題もないし、提出する書類もない。

 予習復習なんて殊勝なことはしてないから、勉強することもない。今更始めようにももう遅い。少女が授業についていけなくなったのは入学後の5月のことで、カレンダーはもう六度も捲られてしまった。これからコツコツやるくらいならいっそ、次の定期テスト前に一気に全部履修してしまおう。そう算段していた。ということで勉強はない。ないったらない。

 となると、うーん、暇だ。一応部活での持ち帰った雑務があるにはあるが、やりたくないからやらない。締め切りまでにやればいいのだ。自分の心の赴くままに生きることが、メンタルがやられた時には必要なのだと少女は信じている。

 わー、ひまー。

 忙しい日々の中の、様々なタスクから目を背けて作った人工の暇。罪悪感を追いやるようにして腕を伸ばす。

 心の中で声に出しながら、うぐぐと低い姿勢のまま前に伸びをする。そしてふっと力を抜き、そのまま机に突っ伏した。その姿勢でしばらくじっとしていたかと思うと、また同じように伸びをして、同じように突っ伏した。

 それを幾度か繰り返し、いくらかの時を費やした。

 しかし、さすがに次第にその進化以前の生物のような運動にも飽き、少女は人間に戻った。

 顔を上げる。雨の音は、変わらずひとりの教室に響いていた。

 あ、掃除でもするか。

 リンゴが木から落ちるのと同じように、すとん、と少女はそう思った。


 掃除と言っても、少し埃を掃き、がたついた机の並びをただす程度だ。机を全て下げて箒で床を掃くような掃除は、週に一度時間を設けて行われている。これは単なる自己満足に過ぎない。過ぎないけれど、でも、少女の心に確かになにか安らぎを与える習慣の一つだった。

 埃を集め、ちりとりで掬う。また集めて、掬う。繰り返すうち、次第に床が綺麗になる。

 終わりのある単純作業ほど癒されるものはない。綺麗になった床と、ちりとりに溜まった埃を見ると、ちょっと恍惚とした気分になって、そんな大きなことを考えてしまう。

 鬱屈とした気分は少しだけ晴れて、机の間を縫う足取りも軽やかだ。

 教室前方にあるごみ箱まで着いた。ちりとりをそのふちに当て、集めたごみを入れようとした。

 と、そのとき。

「あれ?」

 少女は、ごみ箱の底に何か光を跳ね返すものを見つけた。

 なんだろう。

 ごみ箱の中に手を入れることは少々躊躇われる行為だ。しかし、少女の場合は好奇心が勝った。汚れないように一応ブレザーを脱ぎ、シャツの袖を捲ってから素手を突っ込んだ。

 ジェルネイルなどの飾りのない指が、ごみ箱の底を触る。

 そろそろと手探りで取り出すと、それはつやつやと光る、キャラクターを象った小さなマスコットだった。少女の親指ほどの、筆箱などにつけるくらいのサイズだ。そして、そのキャラクターは、少女がかつて好きだった仔猫のキャラクターだ。

 あ、これ。

 少し眼を見開いた。

「私のだ……」

 それは、ひと月かふた月か前に失くしたと思っていたものだ。筆箱のチャックにつけていたマスコット。もう探すのも諦めて、すっかり忘れてしまっていた。見ると、取り付けるための紐が切れていた。長いこと使っていたので、自然に切れて、何かのはずみで床に落ちてしまったのだろう。そして、週に一度の掃除で、ごみと一緒に掃かれて運悪くごみ箱に入ってしまったのだ。

 マスコットの顔についた埃を指先で拭う。少し明るくなった、けれど表情は変わらず無表情なままの仔猫が目に映る。

「久しぶりだねえ」

 声に出して、その声が思っていたより教室に響いたことにちょっと驚いてしまって、ひとりで笑う。少女の表情に、もう憂いはない。手の中では、少女にすくい出されたマスコットが、小さな光を跳ね返していた。


 電車が何本か最寄りの駅を過ぎ、次第に、教室には賑やかな声が溢れてきた。

「おはよ〜」

「おはよ!」

「もう雨さいあく!電車めっちゃ混んでた〜」

「ねえ今日って宿題あった?」

「あれ3時間目って体育だっけ」

「えっ、ものもらい!?大丈夫?」

「うん、大丈夫。なんか、良くなってきたみたい」

 自分より3本遅い電車で登校してきた友達に聞かれ、少女は笑みと共に答えた。

 なんかあげるよ!ものもらうとなおるんだったよね?と鞄の中を探し出した友人をえっちょっと大丈夫だよ!と慌てて少女は止める。

 もう治りかけだしーー。

 そう言おうとして、少女はふと思った。

 もしかしたら、過去の私がくれたのかな。

 少女は机の方を見やる。

 その上の筆箱には、いつもと変わらない表情の、小さな仔猫のマスコットが揺れている。

 少女は、少し笑った。

 ……ありがとね。

「ん、なんかあった?」

 友達が少女の顔を覗き込んだ。

 ううん、なんでもない。と返す。

 いつの間にやら、雨は弱まっていたようだ。一日の始まりを告げるように、窓の外は明るい日に照らされていた。

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雨降りとキティ 卵白 @rampaku_oishii

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