第2話 中編1

“お父さん、何?その荷物”

訝しげに紗夜は問う。何せ、浅田家を訪れる人はほとんど存在しないのだから。

清隆は無理矢理笑みを浮かべた。

「……さぁ、何か頼んだんだと思うが……父さんも年かな。それとも、酒を飲んだ勢いで何か買ったか……?」

そう言い繕う。

だけど。

“ママ、なの?”

幼い少女のような表情で、紗夜はそう問うた。

紗夜の時間は、8歳のあの日から止まったままなのだ。

なのに。

“ねぇ、お父さん、答えて”

このままだと、紗夜の心の傷はさらに広がってしまう。

“大丈夫、ちゃんと、受け止めるから”

紗夜は、涙が溢れないように必死に唇を噛み締めていた。

“ちゃんと受け入れるから、中身、見せて”

言葉の最後の方は、震えすぎていて読み取りにくかった。

でも、覚悟は伝わった。

「……分かった。──開けるぞ」

清隆はゆっくりとキャリーケースを開けた。

「──ッ⁈」

その中には、凪いだ顔をした美由紀が丸まって入っていた。

「……美由紀?」

声を掛けても返事はない。

しかし、あまりにも穏やかな顔をしていたので、清隆の目には、美由紀はただ眠っているように映った。

「……美由紀、起きてくれ」

清隆は、そっと美由紀に触れて、彼女を取り出そうとした。

その時。

「⁈なッ⁈」

清隆が触れた瞬間、美由紀の身体が輝き始めた。

淡く、優しい光。

「美由紀!美由紀‼︎」

清隆の叫びも虚しく、指先から光の粒となり消えていく。

光の粒をかき集めようとする清隆を嘲笑うかのように、光は弾けて空気に溶けていく。

「待って、待ってくれ!行かないでくれ、8年も待ったんだ!生きてるって信じてた!だから──ッ‼︎」

この時。

不意に、清隆の視界が真っ白に染まった。


しばらくして目が慣れたのか、そこに広がっているのは白ではなく、一面の銀河だということに気づいた。


『ごめんなさい、清隆さん』


8年ぶりに聞いた妻の声に、清隆は思わず息を止めた。

『……私は、死んでしまいました』

寂しげな声が辺りに響く。

「……どうして?」

そう問いながら清隆は辺りを見回した。

すぐ近くで声は聞こえるのに、気配は感じるのに、美由紀の姿は見えない。

『清隆さん、どうか紗夜を守ってください。このままだと……紗夜も殺されてしまう』

清隆は、なるべく平静を装って問いかけた。

「だから……理由を教えてくれ」

美由紀はしばし言い淀んだようだった。

『……奇病の一種に、星屑病というのがあります。清隆さんは、知っていますか?』

「……あぁ」

清隆が頷くと、美由紀は悲しげな声で続けた。

『……私は、星屑病の発症者でした』

その意味を理解するのに、清隆は数秒掛かった。

「それは……つまり……」

『あの日出掛けた私は、突然知らない男達に連れ去られました。私の涙が必要だと、人のために泣けと言われ、8年間、ずっと監禁されていたんです。ですが、体力を使い果たして死んだ私は、もう用済みということですね』

その惨さに、清隆は何も言えなかった。

しかも、長年連れ添ってきた妻のことを、清隆は何も知らなかったのだ。

『……私が星屑病を発症したのは、私が小学生の時でした。祖母が死んでしまって……。だから、もう慣れっ子だったんですけど……どこかで私の病気が外に漏れたんでしょうね』

清隆は、不意に口を開いた。

「それに……紗夜が罹った?」

否定してほしかった。そんな苦痛を、紗夜にまで与えるのは酷すぎると。

なのに。

『……すみません』

声は泣きそうに震えていた。

『連れていかれた先で聞きました。奇病というのは感染性という話もあると。特に……星屑病は、高確率で子孫に受け継がれていく病だと』

「そんなッ‼︎」

『きっと紗夜も発症します。私には分かるんです。私のせいで、あの子は不幸になるんです』

啜り泣く声が辺りに響いた。

清隆も、泣いてしまいたかった。

それでも。


「……大丈夫」


清隆はそう言った。言い聞かせた。

「大丈夫。紗夜は、不幸なんかにさせない」

世界一愛した妻との間に生まれた、世界一可愛い自分の娘だ。

「もし発症しても、俺が絶対にあの子を護る。必ず、あの子を幸せにする」

それがせめて、死んでしまった妻の為に清隆にできること。

「だから、美由紀。お前は安心して天国に行ってくれ。数十年後に、必ず逢いに行く。そして二人で、紗夜が来るのを数十年間待つんだ。来たら、三人で色んな話をしよう。約束だ」

そう宣言すると、不意に。

不意に、清隆の周りを淡い光が舞った。

『ありがとう、清隆さん。……また逢えるのを、楽しみにしています』

光がどんどん強くなる。

しかし、眩しいとか痛いとかいう風ではなくて、むしろ優しい光に感じられた。

そして、視界が白く塗りつぶされた。



一方その頃。

不意に光に包まれた清隆が姿を消し、紗夜は呆然と立ち尽くしていた。

(⁈お父さん⁈)

その場にあるのは、空っぽのキャリーケースだけ。

(……何が、あったの?お父さんは?)

紗夜から、母親だけでなく父親も奪おうというのだろうか。

「……ぃぁ、だ」

聞き慣れぬ音が耳に入り、紗夜は一瞬フリーズした。掠れた、音。

そして、気付いた。

(……私、今)

もう一度、ゆっくり口を開く。

「……嫌だ、いなくならないでよ、お父さん」

(……私、声、出てる……?)

何でこんな時に。いや、こんな時だからか。

「……帰ってきてよぉ、パパぁ」

視界が滲む。全てがぼやける。

その時。

「ぐ、あ、ぁっ⁈」

身体を激痛が走り、紗夜はその場に崩れ落ちた。

「いっっ、あ、が、ぁっ⁈」

熱い。痛い。何が起きてるのかわからない。


カランコロン


何かが床を転がる音がした。何が転がっているのかはわからない。

息ができない。何も分からない。苦しい、苦しい、苦しい。


だれか、たすけて。


「──紗夜!紗夜‼︎しっかりしろ!」

(……おとう、さん?)

どこか遠いところから声が聞こえる。

「落ち着いて、ゆっくり息をして。……そう、吸って……吐いて……」

すぐ近くで優しい声がする。

(……安心、する……)

紗夜は静かに目を閉じた。



「……眠った、か?」

紗夜が寝息を立て始めたのを見計らって、清隆は紗夜を部屋に運んでやった。

出来るだけ慎重に、ベッドに寝かせる。

(……どれくらいの苦痛、なんだろうな)

清隆は自分の両腕を見つめる。

そこにあるのは、たくさんの赤い線。

光に包まれた清隆は、紗夜の絶叫で我に返った。

紗夜が声を出したことにも驚いたが、あまりに苦しそうな声に、清隆は思わず紗夜を抱きしめていた。

彼女は苦しげに叫びながら、力任せに清隆を引っ掻いてきた。自分が何をしているかなんて理解していなかっただろう。

痛みから逃れる為に必死だった。

(……美由紀も、こんな感じだったんだろうな)

きっと、清隆や紗夜を心配させないために、独り隠れて痛みに耐えていたのだろう。

それに、清隆は気づかなかった。

そして。

清隆はリビングに戻る。

その惨状に、思わず声が漏れた。

「これは……」

床を埋め尽くすのは、大量の星、星、星。

星屑病の名の由来であろう、宝石化した紗夜の涙が、床を埋め尽くしていた。

淡く脆く、優しい輝きを帯びた宝石の山。

これが紗夜の流した涙でさえなければ、清隆は美しさに見惚れていただろう。

清隆は呆れ半分、嘆き半分で呟いた。

「……これ全部に、人を癒す力があるって?」

手に取って、窓から射す光に透かしてみる。

太陽光が石の中で屈折して、不思議に揺らめいていた。

「……ごめんな、紗夜。少し……試させてくれ」

清隆も半ば自暴自棄になっていたのだろう。

8年前にいなくなった妻がキャリーケースと共に返ってきた。

かと思えば、光の粒になって消えて。

そしてよく分からない空間に連れて行かれた挙句、紗夜が奇病に罹った。

もう散々だ。

(もう……俺の大事なものを奪わないでくれよ)

もう何も見たくない。

だから清隆は。


自分の右目を潰した。


「──ッ、あぁ、う……」

想像を絶する痛みだった。必死に唇を噛み締める。下手に声を上げて、紗夜を起こしてはいけない。

ボタボタと床に血が散らばる。

痛みで頭がどうにかなりそうだ。

なのに。

きっと、美由紀はもっと辛かった。

きっと、清隆には理解できないくらいの苦痛を、美由紀は体験していた。紗夜だってそうなのだろう。

ならせめて、その一億分の一だとしても、分かってやりたかった。

それがどれだけ都合の良い望みだとしても。

「……ほ、せき、を……」

震える手で宝石を口に入れると、瞬く間に溶けるのが分かった。妙に甘くて、優しい味。

その瞬間、視界を眩い光が包み込んで──

光が収まった時には、清隆の痛みは消えていた。

「……治った?この一瞬で?」

半分になったはずの視野は、元通りになっていた。

床に散らばった血痕すら消えていた。

それどころか。

(身体が軽い……?)

今の心情とは裏腹に、身体は羽の如く軽かった。

先程の引っ掻き傷も消えたし、なんとなくだが、視力も上がった気もする。

つまり。

「……星屑病は、あらゆる欠陥を治す、か」

受け入れ難い現実だが、星屑病患者が狙われる理由が身に沁みて分かった。分かってしまった。

だからこそ。

絶対に、紗夜のことは護り抜く。

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