星屑に祈る脆い幸せ

桜月夜宵

第1話 前編

……なんて傲慢な願いなんでしょう。

……いえ、分かりました。そこまで言うなら、願いを叶えて差し上げます。

───えぇ、全てを犠牲にする覚悟をお持ちのようなので。



「おはよう、紗夜」

そう呼びかけながら、清隆は紗夜の自室をノックした。

紗夜の返事は聞こえなかったが、清隆は声の明るさを保ったまま続けた。

「入るよ」

薄暗い部屋に踏み込み、カーテンを開け、窓を開ける。

「今日は天気が良いぞ。紗夜も見てみたらどうだ?」

返事がないことは分かっていたが、清隆は笑顔でベッドに視線を向けた。

「……」

布団を頭から被っていた紗夜は、のろのろと起き上がると、眩しげに目を細めながらニコリと笑った。ゆっくりと口を動かす。

“おはよう”

「あぁ、おはよう」

紗夜は声を出すことができない。だからこうして、清隆は紗夜の唇の動きで言葉を読み取る。

医者から心因性失声症と診断を受けたのは、今から、もう8年も前の話だ。

声を出すこともできず、家から出ることもできない紗夜を、清隆は8年間ずっと世話してきた。

もちろん最初は戸惑ったが、それを苦痛に感じたことは一度もない。

それよりも、むしろ良かったとすら感じている。

なぜなら、医者とこんなやり取りをしたからだ。



「心因性失声症ですね。過度なストレスによるものでしょう。原因に心当たりは?」

「……実は、先日妻……紗夜から見て母ですね。美由紀が行方不明になりまして……警察にも行ったんですけど見つからず……」

医者は暗い面持ちで相槌を打った。

「……そうでしたか。辛いことをお聞きしてすみません。……ですが……そういうことなら、紗夜さんは幸運かもしれません」

「……幸運?」

医者は深く頷いた。

「失声症になるほどショックが大きいということは、『後天性心理異常症候群』を発症しても不思議ではないので……」

『後天性心理異常症候群』。またの名を『奇病』とも言うそれは、精神的なストレスが悪化して、身体的にも何らかの異常が出る病気の総称である。人によって症状は異なるが、最悪の場合は命を落とすこともある。

例えば身体から花が咲く『花咲病』。天使の羽が生える『天使病』。

根本が心理的な問題なので、特効薬がないというのも特徴だ。

「特に……紗夜さんのケースなら、『星屑病』を発症してもおかしくないですね」

そう言って、医者はとあるファイルを見せてくれた。


・星屑病

 星屑病患者の流す涙は美しい宝石に変わり、喰らえばあらゆる怪我も病気も治す。しかし彼らが泣く時には激痛が走り、いずれ体力を使い果たし死んでしまう。そんな彼らの共通点は、皆身近な人の死を体験しているという点だ。よって、星屑病は、愛する者を蘇生したいという、叶わぬ想いが歪んで発症すると言われている。


「これ、は……」

「星屑病患者は、他の奇病患者と比べても非人道的な扱いを受けることが多いです。星屑病は他の病と比べて特殊で、罹患者自身を除いたあらゆる人に平等に良い効果をもたらしますから」

「……」

言葉を失った清隆を見かねたのか、医者は柔らかい声音で続けた。

「ですが、今発症していない以上、紗夜さんには関係ないことでしょう。すみません、無駄に心配させるようなことを言ってしまいましたね」

「い、いえ」



だから、清隆は、自分が不幸だとか、可哀想だとか思ったことはない。

美由紀だって、きっといつか帰ってくると信じている。

そうしたら、きっと家族は良い方向に向かうはず。

だから清隆は、今日も紗夜に微笑みかける。

「紗夜、今日の朝ごはんは何にしようか?」

“トースト。目玉焼き載せて”

「分かった」

これが、五十嵐家の一日の始まりである。



「さ、召し上がれ」

清隆は、トンッと皿をテーブルに置いた。

こんがり焼けたトーストは、とても美味しそうだ。

紗夜は、パチンと手を合わせてからトーストを口に運ぶ。その様子を、清隆は微笑ましげに見つめていた。

(……お父さん、嫌になったりしないのかな)

もう何年も、何度も、思ってきたことだ。

母である美由紀が失踪したのは8年前。ちょうど紗夜が8歳の時だった。

母が帰ってこないことに号泣して。泣き疲れて眠って。次の日起きたら、声が出なくなっていた。

家から出るのも怖くなった。何も言わずに母が自分の意思で失踪するわけがないし、であるならば、外に出れば自分も何かに何かされてしまうんじゃないかと得体の知れない不安でたまらなくて。

それに、いつ母が帰ってきても良いように、ずっと家で待っていたいような気もして。

だから、そう。8年間、紗夜は声を出すことも外出することも拒み続けている。

(……変わらなきゃ、いけないのに)

紗夜だって分かっている。もう8年も経った。いくらショックを受けたとしても、とっくに乗り越えていなきゃいけないのだ。

なのに紗夜は、優しい父に甘えて、今日も何もせずに生きている。


五十嵐清隆は、本当に本当に優しくて、真綿で首を絞めてくるような人だ。


声を出さない紗夜に、いつも明るく話しかけてくれる。

紗夜のために、ジェスチャーや手話の勉強もたくさんしてくれる。

仕事も、家事も、全部やってくれる。

運動不足になると駄目だからって、高そうな運動器具も買ってきてくれる。

家は退屈だろうからって、映画のレンタルをしてくれて、小説や漫画も買ってくれる。

それも飽きるだろうからって、ゲーム機も、手芸も折り紙も、なんでも与えてくれる。

嫌な顔一つせず、たっぷりの愛情を注いでくれる、世界一良い父親だと思ってる。

でも。

だからこそ。

紗夜は、とても苦しい。

駄目なのは自分であるはずなのに、赦されている。

赦されている現状に甘えている自分に、時々ものすごく嫌気が差す。

なのに、この優しさから抜け出すのも恐ろしい。

だから。

“ご馳走様でした”

だから紗夜は、今日も清隆の優しさに感謝する。

今が、変わらないことを願いながら。



朝ご飯の片付けをした後、清隆は家中を掃除していた。

仕事なり何なりで忙しいので、家の掃除はあまりきちんとはやれていない。大抵は暇な休日に手をつける。

紗夜も手伝ってくれていた。

(……わざわざ、手伝ってくれなくても良いんだけどな)

心を患った少女に、掃除を手伝わせるのは少し抵抗がある。

それでも紗夜は、清隆に気を遣っているのか手伝うのをやめようとはしない。


ピンポーン


急にインターホンが鳴って、清隆は手を止めた。

“誰?”

「……回覧板かな。それにしては早い気もするが……。少し見てくるよ」

そう言って清隆は恐る恐る戸を開けた。

玄関の前にいたのは、キャップを目深に被った青年だった。

「……あの、どちら様ですか」

「お届け物です」

間髪入れずにそう答えた青年は、引きずっていたキャリーケースを清隆に押し付けた。

「?い、いえ、……私は、そんなものを買った記憶も失くした記憶もないのですが……。人違いでは?」

青年はニコリともせず首を振った。

「いえ、自分は、貴方から奪ったものを返しに来ました」

「奪ったもの……?」

サァーと清隆は蒼ざめた。

自分が奪われたものの心当たりなど、一つしかない。

慌ててケースを開けようとするが、手が震えて上手く開けられない。

その様子を見つめながら、青年は淡々と言った。

「……中で開けた方が良いかと」

「⁈ま、待て、待ってくれ!君、これはどうして、どこで、いやなんで、美由紀は──‼︎」

思考が纏まらなくて、言葉がバラバラとこぼれ落ちる。

すると、青年は。


笑った。


「……聞いて、どうする?」

「それ、は……」

清隆は言葉に詰まった。

見かねた青年が問う。

「復讐でもするか?」

「……君が、美由紀に何かしたのか?」

「さあね。答える義理はないさ」

青年はヒラヒラと片手を振って、去っていった。

清隆は追いかけるか迷ったが、結局は諦めた。

それよりも、キャリーケースを開ける覚悟を決めようと思ったから。

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