第30話 新庄
「『新庄バージョン』という概念を知っているかね?」
バーにて隣の席に座った中年男は言った。ていうか誰だよこいつ。
誰かは知らねど、もちろん「新庄バージョン」なる言葉だって知らない。初めて聞いた。
「何ですか? それ?」
強い興味があるわけではない。が、話しかけられてそれに応えないのは飲みの席ではだいぶ陰気だと思ったので、尋ねてみた。若干髪の毛が薄く若干腹が出ている中年男の話が始まる。
「今、プロ野球の日本ハムファイターズ監督は新庄剛志だ。あいつのような種類の人間を『新庄バージョン』と呼ぶ」
プロ野球か。少年時代はよくテレビで試合を観ていたが、最近はまったくご無沙汰だ。さすがに新庄剛志は知っているが、はて、この中年男は何を言おうとしているのか見当がつかない。
「新庄バージョン」
俺は中年男の言葉を反芻する。中年男は言った。
「新庄剛志は、日本のプロ野球界で最初はセ・リーグでキャリアをスタートさせた。その後、海を渡ってメジャーリーガーになる。最後は日本に戻り、パ・リーグでプレイして選手生活を終えた……」
一応知ってる。俺がうなずいてみせると、中年男は言葉を継ぐ。
「興味深いのは新庄の打撃成績だ。あいつは、セ・リーグだろうとメジャーリーグだろうと
パ・リーグだろうと、どこに行っても成績は変わらない男だった。とはいえイチローのような異次元の記録を残すようなことは決してなく、いずれも平凡な成績だったが」
「へえ。そう言われてみると確かにそうだったかもしれませんね」
答えると、中年男は核心に迫ることを述べはじめた。
「いつでもどこでも同じ成績。これが新庄剛志だ。従って、いつでもどこでも……もっと言えば、頑張ろうが手を抜こうが結果が同じになる人間を『新庄バージョン』と、俺は呼んでいる」
お前が勝手に作った言葉なんかい! という猛烈なるツッコミが喉まで出かかった。結局この男は何が言いたいのだ?
「つまりだ。俺という存在は『新庄バージョン』なんだよ」
厭な予感がしてきた。散々御託を並べて己を新庄剛志になぞらえる。「ちょっと人生しくじっちゃいました系」のいいトシした大人による常套手段じみたものを感じる。
案の定、こちらが考えている通りの論を展開する中年男。まとめれば、自分はどんな環境にいようと、努力してもしなくても同じような結果にしかならない……といった自己弁護・自己憐憫をまくし立てて、中年男は酔い潰れた。シャレオツなバーで大きないびきをかく。
空虚だ。無残だ。俺はたまらなくなった。俺の人生がこいつと同じようにならないという保証は、ない。
このバーは不浄の地に思えてきた。店を出ようとすると、マスターが「お客さん、お勘定を……」と声をかけてきた。
「そこで眠っている方が払ってくれるんです」
口からでまかせを放つ俺。何もかもが空虚で無残に思える夜は、自分自身さえ空虚で無残な存在になるようだった。
バーの外は、まだ人通りが多かった。得体の知れぬ焦りを覚えつつ俺は歩いた。実際、自分の将来は得体が知れない――。
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