scene 7. サマー・オブ・ラヴ

 本当は腹を空かせていたのだろう。リックと名乗った青年はみるみるうちにスモークダック樟茶鴨ムーグーガイパン蘑菇雞片の詰まっていたチャイニーズカートンを空っぽにし、喉を鳴らしながら7UPセヴンアップを飲んだ。そうしてふぅ、と満足気に息をつき、リックがソファに凭れかかったのを合図に、サムは「さて」と質問の続きを始めた。

「ここの様子を何度も覗ってたってことは、なにか困り事があって、相談しようかどうしようか迷っていたんだろう? 依頼するかどうかは後で考えるとして、とりあえず話してみちゃどうだ」

 旨いものを食べて気分も落ち着き、サムを信用し始めていたのだろう。リックは背を起こして坐り直すと「うん、実は――」と、リラックスした様子で話し始めた。

「エミリオがいなくなった。ずっと家に帰ってきた様子がないんだ。最後に会ってから、もう今日で十六日めになる」

「十六日……二週間以上も? そりゃ心配だな。エミリオというのは?」

「……友達。その、家が近くで……なんとなくよくつるんでる仲間だ」

 家に帰らない友達と聞き、サムはあまり歓迎できる展開じゃないなと、リックを招き入れたことを少し後悔した。それを気取られぬように顔を逸らし、煙草を取ろうと手を伸ばす。

「友達か、エミリオも同じ歳?」

「うん、まだ十六だけど……来月が誕生日なんだ。俺と違って学生やってるけど、夏休みに入るちょっと前から学校にも行ってないって聞いた。でも、今はもう夏休みだから……」

「ああ、もう夏休みなのか」

 無断欠席が続けば教師も親に電話をかけるか、家を訪ねるなどするのだろうが――夏休みに入ったことで、その機会が失われてしまったか。

「家に帰ってきた様子がないと云ったが、家族にエミリオがどうしたかは訊いてないのか? 本当に帰宅してないなら、親のほうが君に訊いてきそうなもんだが」

 煙草を吹かしながら、サムはそう疑問を口にした。するとリックはきっときつい眼つきになり、「あんな親」と、吐き棄てるように云った。

「うん? エミリオは親とうまくいってなかったのか?」

「うまくいってたら、今ここに来てるのは俺じゃなかったろうさ」

 まだ伸びてもいない灰をとんとんと落とす動作をし、サムは質問を続けた。

「なるほど。家出する理由はあるってわけだな。家はどの辺りだ?」

「ミッション地区」

 サムは頷いた。

 ミッション地区はここヘイトフィルモアからやや南南東、到る処からスペイン語が聞こえてくるヒスパニック系の住人が多い地区だ。サンフランシスコで最も古い地域であり、低所得者向けのアパートメントがあるなど家賃の安い地区でもある。治安もけっして良いとは云えない*¹。

 十六歳の家出少年か。自分から訊いておいて悪いとは思うが――サムはちら、とリックの顔色を窺いながら、深々と吸いこんだ煙をゆっくりと吐きだした。

「リック。悪いが、うちは十代の子の捜索は断ってるんだ。十六歳の少年が家出するなんてめずらしくもない、よくあることだしな。二週間以上も姿が見えなくて心配だろうが……そうだな、いちおう地区の警官に相談しておくといい。その、親が届けもなにもしてないかもしれないっていうのも伝えて」

 サムがそう云うと、リックはさっと表情を険しくし、すっくと立ちあがった。

「警察なんか! あいつら、俺らの話なんかまともに聞いちゃくれないさ! だから、探偵ならひょっとしたら金さえ払えば捜してくれるかもと思ったのに……! もういいよ、もう誰も頼らない。自分で捜すよ!!」

「おいリック、待て――」

 溜めこんでいたなにかを噴きださせるように捲したて、リックが足早に去ろうとする。サムは思わず声をかけたが、引き留めてもしょうがないと伸ばしかけた手を引っこめ、出ていくリックの背中をただ見つめた。すると。

「……ごちそうさま!」

 リックは部屋を出る前に振り返り、そんな言葉を残した。

 罪悪感に、ちくりと胸が痛む。いい子なのに、すまないことをした――足音が遠ざかり、がちゃりとドアの音が耳に届く。

 テーブルに視線を落とすと、そこには綺麗に平らげられているチャイニーズカートンがふたつ、並んでいた。リックが着ていた色褪せたTシャツを思いだす。いなくなったというエミリオも、息子が帰ってこないと騒ぎもしない親元に育っているらしい。

 ミッション地区の路地裏。悪臭を放っているダンプスターゴミ箱。辺りには落書きだらけのアパートメント。そんな光景が瞼の裏にちらつく。

 家出した十六歳の少年の捜索。サムにとって、いちばん避けたい案件だった。しかし、せっかく話をしてくれたリックの期待を裏切るなど、してはいけなかったのではないか――そんなことを考え、サムが項垂れていると。

「サム? 今のって、俺の442踏みつけていった奴じゃ――」

 サムは顔をあげた。リックが廊下へ出ていった奥の戸口ではなく、オフィスのほうからネッドがひょっこりと顔をだしていた。



「――二週間以上も姿を見てないのに、親は届けも出してないってそりゃあ、それが本当ならやばくないっすか? 最悪、親が暴力をふるって致命傷を負わせたって可能性も」

「勘弁しろ。そりゃあ考えられる可能性のなかで、とびきり最悪の最悪だ。まさか、それだけはないと思いたいが」

 チャイニーズカートンを片付けないままのテーブルには、新たにコーヒーのマグがふたつ置かれていた。その向こうでは音量を絞ったつけっぱなしのTVが、いつものソープオペラを映している。

 ネッドと入れ違いに飛びだしていったリックの話を訊かれ、サムはついさっき聞いたエミリオのことと、家出少年の捜索は受けていないと断ったことを話した。

 話の初めのうちはネッドも、親が騒いでもいないってんなら、どうせしょっちゅう家に帰らない不良少年なんでしょ、という反応だった。だが、帰った様子がないのが十六日間に及ぶことをサムが話すと、話の風向きが変わった。


 子供が帰らないとその日のうちに親が警察に駆けこんだとしても、十四、五歳以上の年齢になるとよほどの緊急性がない限り、積極的に捜索されないことがほとんどである。行方不明者ではなく、ただの不在者とみられるからだ。

 しかし一昼夜連絡を待ち、思いつく限りの範囲を捜し尽くして、それでも所在がわからなかった場合――もしも何者かに連れ去られていたとしても、それを知ることは既にかなり難しくなっている。行方不明者の捜索は、最初の四十八時間が重要と云われる。目撃者の記憶や、あったかもしれないなんらかの手掛かりは、時間が過ぎるごとに薄まり、消えてゆく。


「まあ、そこまで酷いことにはなってないにしても、でもその親はどうやら捜しもしてないわけでしょ? ふつう、子供が帰宅しなかったら真っ先に尋ねるのは友達だ」

「いや……帰ってないってのは、リックがそう云ってるだけだしな。実際はリックが知らないだけで、夜にでも着替えにだけ帰ったりしてるかもしれないじゃないか」

「でも、それならその……なんだっけ」

「エミリオ?」

「エミリオも、親よりも友達のほうに顔を見せるんじゃないですかね? 家は近くだって云ってたんでしょう? まあ、それはとりあえずいいです。サム、断ったんなら放っておけばいいじゃないっすか。でも、気にしてますよね? 気になるんなら、今からでもミッション地区に行って奴を捜して、引き受けるって云ってやればいい。放っておけない程度に気にかかるけれども、引き受けたくはないような事情でも?」

 サムはちら、とネッドを見やり、マグを取った。

 コーヒーを啜りながら、一緒に捜査していた頃を思いだす。――まったくこいつは。ネッドは、ソガードの事件で組んだあの頃から、妙に鋭いところがあるのだ。あの事件のときも、ネッドはしばしば自覚なしに捜査のヒントになることを口にし、それが実際に事件解決への糸口となった。

 まあこんなお調子者でも、FBIの捜査官になれる程度にはエリートなのだし、そういう勘が働くのも才能だ。さて、どう答えようか、どこまで話そうか、などとサムが考えていると――

「そうだ。事情と云えば、どうしてサンフランシスコなんだろうっていうのも疑問だったんです。……あ! ひょっとして、離婚した奥さんと息子さんがこっちにいるとか?」

 サムはマグの中で揺蕩うコーヒーを見つめたまま、ふっと笑みを溢した。惜しい。だがまあ、五十点はやってもいい。サムは云った。

「……いや。元妻エクスワイフはピッツバーグで暮らしてる。新しい家族とな」

 この答え方だけでぴんときたらしい。ネッドはあぁ、と目を見開いてぐるりと周囲を見まわし、云った。

「息子さんがサンフランシスコに……もしかして、家出して、とか?」

 サムは苦笑を浮かべつつ、頷いてみせた。

「正解だ。たぶんな」

 ネッドはなにも云わず、じっと目を見つめてきた。どうやらその一言だけでは足りないらしい。

「……詳細が聞きたいのか?」

「かまわなければ、ぜひ」

 しょうがないな、とサムはマグをテーブルに置くと、心の準備をするようにふぅ、と息をついた。

「……俺の息子、ショーンが家出したのは、十七歳のときのことだ。ある日、俺が帰宅するとアイリーン……女房が、俺に向かってビールの小瓶を投げつけてきた。ショーンが出ていった、あなたの所為だって泣きながら云われてな、部屋を見ると本当に服や靴や、気に入ってた本なんかがなくなってた。残ってたのはレコードくらいだった。大事にしてたはずだが、プレイヤーがないとどうしようもないから、しょうがなく置いていったんだろう。女房は心当たりを捜したが、誰もショーンの行方を知らなかったし、ショーンが帰ってくることもなかった。……で、まあ女房ともうまくいかなくなってな。別居することになった。それから一年ほど経って、女房は離婚してくれと云ってきた。つらくて寂しい気持ちを埋めてくれた相手と、人生をやり直すことにしたってわけさ。ばかを云うなって止める資格は、俺にはなかった。……俺はショーンを捜したかったし、アイリーンとももっとちゃんと話がしたかった。だが、あの頃の俺は休みもなしに捜査に追われてて、そんな時間はなかったんだ」

 そう話し、サムは重く溜息をついて目を閉じた。

 ――怖かった。捜査で若い命を散らした被害者や犯罪者を見るたびに、ショーンの顔がそこに重なった。いま何処で、なにをしているだろう。仕事に打ちこみつつも、けっして頭から離れない息子の顔。きっとどこかで元気にやっている。まさか人知れず死んだりはしていないと信じながらも、凶悪犯罪や薬物に手を染める若者を見れば、ショーンは大丈夫だろうかと不安になった。

 年若い犯罪者のなかには、逮捕後に話を訊いてみると驚くほど素直だったり、義理堅い者もいた。犯罪者となってしまったのはただの結果で、ほとんどの若者はただ境遇が悪かっただけだった。そして、そのたびに思った――境遇が悪いのは本人の非ではなく、その原因の多くは親にあるのだと。

「……サンフランシスコにいるってわかったのは?」

 サムは煙草を一本振りだし、口に咥えた。

「六七年だ。もう十二年も前のことだな」

 そう一言答え、火をつける。ふぅと煙を吐きながら、つけっぱなしのTVに目をやり、サムはそこには映っていない過去の映像を思い浮かべた。

「ショーンが家を出て、ちょうど三年めだった。サマー・オブ・ラヴ*²ってのがあったろう。一九六七年の夏だ。〝サンフランシスコ*³〟って歌を知ってるか? もし君がサンフランシスコに行くなら、髪に花を飾って……ってやつな。あの頃はどこに行っても聴こえてきた、大ヒット曲だ。フラワームーヴメントの象徴だった。フラワーチルドレンだとかフリーラヴとかLSD幻覚剤とか、そういうものが文化として広まってた。ヴェトナム戦争に反対して、政府に疑いをもったヒッピーやビートニクたちが『戦争はやめて愛しあおうMAKE LOVE, NOT WAR』ってスローガンのもとに集まってたんだ。

 そんな社会現象が、ある日新聞の一面に載った……ヒッピーたちの集まる広場を撮ったその写真を見たとき、俺は驚いた。すぐ目についたんだ、俺が見間違えるわけがない。その端のほうに写ってたのは、ショーンだったんだ」

 一九六七年六月二十一日、『ゴールデンゲートパークに集まるヘイトアシュベリーのヒッピーたち』。その新聞は棄てることができず、今もとってある。しかし――サムは首を横に振った。

「だが、それだけなんだ。今もショーンがサンフランシスコにいるかどうかはわからん。当時、俺は……捜さなかった。その、忙しかったのもあるし、そういう連中と一緒なのが理解できなかった。フリーラヴだのサイケデリックだのってマリファナまわしてるなかに混じってるなんて、こんな奴は息子じゃないって思ったんだ」

 女と見紛うような肩まである長い髪、ぴたりと躰にフィットしたTシャツとタイトなジーンズ。そして、頸から垂らしている幾何学模様のスカーフやアクセサリーも。

「長いあいだ、俺はショーンが出ていったときのままのわからず屋だったんだ。……七〇年代に入ってからだよ、俺の意識も少しずつ変わって、世界が変化していることに気づいたのは」

 独り言のように打ち明けるサムの話を、ネッドは黙って聞いている。サムは続けた。

「だから、必ずしもいい結果だけが待っているとは限らない家出少年の捜索は……きついんだ。捜してみつけてやりたい気持ちはもちろんある。だが、強盗をやって銃片手に逃げているのも、過剰摂取オーヴァードーズで青紫色になった顔も、なるべくなら見たくない」

 そんな心情を打ち明けながら、サムはおかしなことを云っているなと苦笑した。ショーンは今はもう三十二歳になっているはずだ。なのに重ねてしまうのは十七、八の若者ばかり。サムのなかで、ショーンはいつまでも家出した年齢のまま、時を止めているのだ。

「……とまあ、そういうわけだ。情けない話だが」

 ネッドは神妙な顔で頷いた。

「十七で家出して、三年後が六七年ってことは……俺と同い年っすね」

 サムは少し驚き、目を瞬いた。

「そうか。……そうか……」

 不意に、立派なおとなになったショーンを想像できた気がした。初めてだったかもしれない。思わず目頭が熱くなる。サムは目を伏せた。

「こっちに来てからは? なにか手掛かりはみつかったんですか」

「……いや」

「じゃあ、もうサンフランシスコから他に移ってるんじゃ?」

「さあ、どうかな。俺は、生きているならきっとこの近くにいるだろうと思ってるが……希望的観測かもしれんな」

 そう云うと、ネッドはぽかんと呆れたような顔をした。

「……まさか、一度も捜してないんすか?」

 本当に、こいつは察しが良いというか、いい勘をしているというか――見事に見抜かれ、サムは降参というようにソファに背をあずけた。

「俺がビュロウの力や伝手を借りて捜してみつけだすことに、なんの意味がある。ああ、俺が本気になれば、どこにいようがきっとみつけることはできるだろうさ。だが、そんなことはまったくの無駄だ。みつけて連れ帰ったとしても、すぐ別れの挨拶もなしに、どこか遠くへ行っちまうだけだ。そんなことになったら俺はまた後悔する。……俺は、もしショーンが自分の居場所をみつけたなら、そこで幸せに暮らしていてほしいんだ。そのうち偶然に会って、話ができればと願ってはいるがな」

「居場所……それって、息子さんってもしかして――」

 云いかけ、ネッドが口を閉ざした。少々話しすぎたかと、サムは肩を竦めてみせた。

 それで伝わったのか、ネッドはそれきりもうなにも訊いてこなかった。









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※1 ミッション地区・・・かつてはヒスパニック系の低所得者が住む地区であったが、シリコンバレーへのアクセスに便利だったため、九〇年代後半頃からIT企業に勤める若いエンジニアが多く移り住むようになった。その影響で家賃や住宅価格が高騰、治安も改善され、街の雰囲気も変わった。

 現在のミッション地区はミューラルアートと個性的なブティックや雑貨店、そしておしゃれなカフェやレストランなどで賑わう地域になっており、観光客も訪れる。



※2 サマー・オブ・ラヴ・・・一九六七年の夏にサンフランシスコで起こった社会現象。ヒッピー文化の象徴である。

 フラワーチルドレンとも呼ばれるヒッピーやビートニクたちは「Make Love, Not War(戦争はやめて愛しあおう)」をスローガンにヴェトナム戦争に反対し、LSDを使用して新しい精神世界の扉を開けた。その中心地として知られているヘイトアシュベリーにはフリーメディカルクリニックが設立され、無料で薬物乱用や性感染症などの治療が受けられた。

 蛇足だが、一九六七年の夏、ヘイトアシュベリーの家に住んでいたチャールズ・マンソンと信者の女性たちも、このクリニックの常連の患者であった。



※3 〝花のサンフランシスコ〟(San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair))はスコット・マッケンジーの一九六七年のヒット曲(作中のサムの台詞では邦題ではなく、原題をカタカナで表記)。

 作詞作曲は〝夢のカリフォルニア〟(California Dreamin')などのヒットで知られる、ママス&パパスのジョン・フィリップス。この曲は一九六七年六月十六日から十八日の三日間開催されたモントレーポップフェスティバルの宣伝に使用され、アメリカのみならずヨーロッパの国々でもヒットした。

 モントレーポップフェスティバルは『サマー・オブ・ラヴ』の始まりのひとつと見做され、〝San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)〟はその象徴として、何千人もの若者をサンフランシスコに呼び寄せたと云われている。



♪ Scott McKenzie "San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)"

≫ https://youtu.be/UBExi-V4r80

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