scene 8. 不可解な血痕とネッドの本音

「ところで、おまえいったいなにしに来たんだ」

 つい訊きそびれていたことを、サムはようやく尋ねた。時計を見ると二時をまわったところだった。コーヒーのマグはとっくにからになり、TVではさっきまでとは違ったソープオペラをやっている。

「そうだ。すっかり忘れてました……六人めの被害者の検屍結果と、重要かもしれない発見があったんで、報告しに来たんでした」

「発見?」

 聞き返しながら、サムはソファから腰をあげた。この時間帯はどのチャンネルもソープオペラばかりだ。六時半のニュースまで視るべきものはない。サムはTVを消し、テーブルの上の空容器とマグふたつを手に取った。「コーヒーのおかわりが必要かな」

「ですね。ところで、ジョンは?」

「ああ、そろそろ中に入れてやるか」

 ジョンはランチの邪魔などしない利口な犬だが、それでも匂いに反応して欲しそうな顔はするので、なるべく自分が食べるときには傍にいさせないようにしているのだ。サムはキッチンへ向かおうと歩きながらネッドを振り返り、「捜査資料を広げるならあっちで」とオフィスを指した。



 オフィスについてきたジョンはまず再会の喜びを全身で表し、ネッドの顔をよだれまみれにした。そうして一頻りじゃれたあとは満足した様子で落ち着き、今はネッドの足許に寝そべっている。

 ネッドが持ってきた現場写真をデスクに丁寧に並べ、その凄惨な光景をじっと注視しながら、サムは話を聞いた。

「――被害者は二十六歳のウェイトレス、現場は帰り道近くの寂しい路地です。手口は四件め、五件めと同じ、喉を掻っ切られたあとに滅多刺しです。二十二ヶ所の刺創がありました。凶器も四件め以降と同じ細長い刃物で、検屍官はバタフライナイフじゃないかと云ってました」

「帰り道近くの路地、ってことは、帰り道からは逸れてるのか。目撃者は?」

「逸れてます。仕事場であるレストランを零時過ぎに出てすぐに被害者を見た人はいましたが、その後の目撃者はいません。被害者が勤めていたのは二十四時間営業のダイナーで、通るのは夜でもわりと明るい、飲食店が点在する表通りなんです。店から家までもそんなに距離はない。だからいつもひとりで帰ってたそうです。同僚のウェイトレスに聞いたんですが、二年ほど前、夜道は危ないから送ると云った客に、家に押し入られそうになったことがあるとかで」

 サムは顔を顰めた。

「送り狼か。クズだな」

「まったくっすね。そんな奴がいるから、下心なんかない男も疑って警戒して、非力な女性が自衛するしかなくなっちまう。最低です。……で、どうして暗い脇道なんかに入ったのかっていうのが疑問なんですが――」

「犯人に尾けられて、逃げてて角を曲がった?」

「チームでもその見解が多かったです。でも、そのまま真っ直ぐ走れば家はもうすぐそこだったんです。なんで、なんか納得がいかなくて」

 ふむ、とサムは顎に手をやった。

「死角に入ろうとしたとか、いろいろ可能性はある。現場を見ないとなんとも云えんな。……で、発見ってのは?」

 サムが訊くと、ネッドは「そうそう。そっちのが本題っす」と椅子から身を乗りだした。

「五件めの犯行現場の近くに妙な血痕が残ってたんです。刃先から落ちた滴下血痕じゃなく、こう、血を振りきったみたいに一直線に飛び散った細かい飛沫血痕です。鑑識はちゃんとみつけていたのに、チームの誰も注目してませんでした……俺も昨日気づいたばかりなんで、偉そうなことは云えませんが」

「刺したあと、ナイフについた血を振りきったなら、別に不自然でもないんじゃ?」

 サムがそう云うと、ネッドはにっといたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「ええ、遺体のすぐ傍ならそうでしょう……でもその血痕は、遺体のあった路地から広い通りに出たところにあったんです。遺体から5ヤードも離れてます。しかも道路のど真ん中っておまけつきです」

「なんだって? ……道路のど真ん中に血痕?」

 それは確かに妙だ。ナイフについた血を振りきるなら、刺したあと立ったその場でやるのが動作として自然だ。犯行後、立ち去りながら振りきるにしても、路地の奥に進むなど人目につかないよう動くのが犯罪者の心理だろう。広い道路側へ出るなど、なにか理由があったのだとしか思えないが――

「現場写真は? 五件めのは、今日は持ってきてないのか」

「そう云うと思って一枚だけ持ってきてます。はい」

 ネッドは上着のポケットから直に写真を一枚取りだし、デスクに置いた。大事な現場写真をなんて扱いだ、とサムは一瞬顔を顰めたが、見るとそれは遺体の写っていない、現場の周囲の状況がわかるよう、広範囲を撮ったものだった。これなら紛失したとしても問題はない。

 サムはその写真を手に取り、注視した。ネッドの云ったとおり、広い道路と細い路地が写されている。路地側にある、赤いペンで小さな印がつけられているのは遺体の発見された場所だろう。そして写真の中心よりやや下、道が交差する部分が丸で囲まれている。

「ここか」

「そこです。いくら車や人通りがなかったとしても、引っかかりますよね?」

「逃走用の車がこっち側に駐めてあった、とか?」

「車をここに駐めておいて、こっちの方向にあるレストランから出てきた被害者を後ろから尾けて路地に? 誰が見るかわからないのに、駐めた車の傍で殺しますかね? 盗難車にしたってリスクがある」

「うむ、なんとなくしっくりこないな。まだ、歩いてくる被害者に目をつけて車から降り、警戒した被害者が犯人を避けて路地に折れて、それを追ったってほうがありえるんじゃないか」

 サムが思いついたままそう云うと、ネッドはぽんと膝を打った。

「なるほど! 確かにそのほうがずっとしっくりきます。さっすがサム」

「おいおい、FBIきっての敏腕若手捜査官じゃなかったのか。このくらい、捜査会議で当たり前にでる意見だろう」

 サムがそう云うと、ネッドは拗ねたように口先を尖らせ、手を伸ばして足許にいるジョンを撫でた。

「……わかってます。そんなことはわかってるんですけど、組まされてるジャクソンとはまだあんまり喋ってなくてなにを考えてるのか読めないし、チームの他の奴らなんてみんな敵って感じっすよ。サムとこんなふうに話してると自然に閃いたり、逆に俺の云ったことからサムがなにかに気づいたりしてくれるじゃないっすか。そういうのが、今まったくないんです」

 いつも莫迦みたいに明るい、お調子者のネッドがそんなことを溢し肩を落としているのを見て、サムは途惑った。ジョンもなにか感じているのか、きゅうん、と鼻を鳴らしながらネッドの手を舐めている。

「サムと仕事してた頃はよかった。あの頃が俺、いちばん仕事にやり甲斐を感じたし、偶に危険な現場に行くことがあっても、不安なんてなかったっす。サムは信頼できる相棒だったし、俺は自分のことよりサムを援護しなきゃって、しっかり集中できたんです。それに、楽しかった。でも今は、もし銃撃戦になったら、あいつらきっと俺だけ置いて逃げるって思っちまうんです」

 はぁ、とネッドが溜息をつく。彼がこんなことを云うのを聞くのは、本当に初めてだった。

 自分と仕事してた頃はよかった、などと云われればやはり嬉しい。しかし、落ちこんでいるネッドになにをどう云ってやればいいのか、サムにはわからなかった。ありがとう? 光栄だ? そんなことを云わずにしっかりやれ? それとも――

 正解が掴めないまま、サムは思いついた言葉を、そのまま口にした。

「……云ってることはわかった。だがとりあえず、今は堪らえて事件に集中しろ。でな、模倣犯だって証拠をみつけて本部に突きつけて、希望する相棒に変えてもらえ。もしもそれが通らなかったらやってられないって辞めちまえ。あとのことは心配しないで暴れてくればいい。そのときは、うちで雇ってやる」

 ただし、食うと住むに困らない以上の保証はないぞ、と云おうとした、そのときだった。デスクの隅に置かれた電話が鳴り響き、サムはびりっと感電したような動きで受話器を取った。

「はい、マクニール探偵事務所」

 左手で受話器を持ったまま、同時に右手でペンを取る。そして次にメモ帳を引き寄せる――習慣になっている動作をしながら何気無くネッドのほうを見ると、そこには満面の笑みで自分を嬉しそうに見つめている、元相棒の顔があった。

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