第3話──4


  4


「わぁ……すっごぉ……!」

 目の当たりにした建物に、小春は楽しそうな響きを隠しきれずに呟く。喜んでもらえたようで、ひとまずは安心だ。このは、最初にえなが一緒に行こうと提案した場所だから。

 えなたちが訪れたのは水族館だった。真っ白で大きな外観は見るからに涼しげで、今の暑すぎる時期にはありがたさを感じずにはいられない。ここは巨大水槽が売りで、大小様々な魚たちが一つの空間を行き交う姿が見られるという。

 前々から気にはなっていた場所で、茉子に相談して思い当たったのだ。小春にも楽しんでもらえたらいいけれど。

「水族館って、子供の頃以来かも。ワクワクしちゃうね」

 あからさまに足取りが軽くなった小春がえなに笑いかけて、「ほらセンパイ早く行こ。早く早くー」と前に出て誘ってくる。お姉さんムーブをしてきたと思ったら、そんな無邪気な面も見せる。可愛いがずっと交互に出てくる無敵のデッキすぎる。やばい好きすぎる。体面を取り繕わないと脳がとけて本性が現れそうだ。

「こぉら、小春さん。ちゃんと前見ないと転ぶよ?」

「センパイが遅いんだもん。ほぉら、水族館逃げちゃうよー?」

 何とかにやけそうな顔をちょっと呆れた風な笑みへと変換させ、早足の彼女を追いかける。

「おぉー……」

 当日のチケットを買って入り口を通り、館内のエントランスへ。足を踏み入れるなり、周りを見渡してえなと小春は同時に感心したようなため息をこぼしていた。

 エントランスは青い照明で暗くなりすぎない程度に満たされていて、水音の混じるヒーリングミュージックも周りを漂っているからかまるで空気のある水の中へと入り込んでしまったような不思議な感覚になる。更には白い壁や天井に映像として映し出されたクラゲたちが漂っていて、尚更景色は幻想的だ。子供向けというよりは、大人を癒すためのヒーリングスポット的な水族館だと聞いていたが、確かにいい雰囲気だった。

「すごいねぇ……本当に海の中に来ちゃったみたい……」

 自分の両頬に手を添えて目をキラキラさせた彼女は、どちらかと言えば憧れを前にした子供のようで。思わずえなは笑ってしまう。「何笑ってんのぉ、センパイ?」とこちらを軽く睨む様もまさしくそれで、また吹き出した。

 このどこか静謐な空間には、小春はぴったりな存在なのだろうとえなは思う。彼女の佇まいは上品さを隠せていなくて、漂っている。まるで俗世に遊びに来てしまったどこか異世界の女王のような気品さえ感じる。この静かで幻想を帯びた世界観に立っているのはぴったりな人だとは思う。現に通り過ぎた何人かが、背の高い小春につい視線を奪われているのが見て取れた。

 それでいて、今彼女の表情に浮かんでいるのは、子供の好奇心を思わせる無邪気な感情。この不釣り合いさが、愛らしさでなければ何だというのか。それを確認して、えなは何だかほっとしたような。尚更惚れ直したような気がする。

(やっぱり。小春さんは、よしかで。よしかは小春さんなんだなぁ……)

 表裏一体というか、共に在り合っている。当たり前だけれど、アバターを隔てたネットの世界ではきっと見つけ出せなかったであろう真実。

 だから尚更、ネットの世界のよしかも、リアルにいる小春も、どっちも大事にしてあげたい。彼女が大事にしたいと思って欲しい。そんな風にえなも思うのだった。そこに年齢とか何も関係ない。彼女がありのままでいられる世界を、あたしは望む。ネットでも、リアルでも。

「センパイ……? 何ぼぉっとしてんのぉ? ほら、早く中入ろうよ! もう楽しそうな雰囲気すっごいしてるよ!」

 小春がえなより大分先に行きながら、展示コーナーがあるらしい方を指差しながら急かしてくる。少なくとも今の彼女を見ていると、自分の前だけでは彼女は後輩のよしかとして振舞えるのかもしれない。それが彼女にとって居心地のいいことなら、何よりだ。

 それを守るためなら、あたしは。この恋心だって、封じられる。えなは密かに決心しながら、小春の後を追う。


「うおー……すっごい綺麗な魚だねぇ。わっ、群れで泳いでる。めっちゃキラキラして綺麗! 見て見て、センパイ!」

 前言撤回。この人やっぱ可愛すぎる。簡単に一度爆発したクソデカ恋感情なんか、この味噌っかすみたいな矮小人間あたしが抑えられるわけがない。現に今、小爆発を起こした。

 いくつかの小型の水槽が、広くなった空間の中に目に優しい光を帯びて展示されている。それを覗き込みながら、いちいち小春は無邪気で可愛すぎる反応を示すのだ。泳いでいる魚たち一つ一つに素直に驚いたり感心したりするものだから、えなの意識はどうしても魚たちよりそれに反応する小春に吸い寄せられてしまう。

 ダメダメ。あたしもちゃんとこの状況を楽しまなきゃ。ここに来た主な目的は、コラボでの話題作りのためなのだ。しっかりちゃんとレポ出来るようにしなければ。このままだと小春のことばかり話してしまいそうだ。

「センパイは何見てるの? あれ、ここって……わっ! アザラシだ! しかもいっぱい泳いでる! 可愛いー」

「可愛いのはお前じゃい。……じゃないや、えと、そうだねめっちゃ可愛いねアザラシ……」

 優雅に水面を泳ぐアザラシの群れと対面して、はしゃぐ小春につい本音が漏れてしまう。が、彼女には聞こえていなかったようなので慌てて軌道修正して事なきを得た。彼女は一つ一つのコーナーで全身から楽しいという光のオーラを放つので、何ていうか別の意味で目が離せない。こういうところを一緒に巡るには理想的な相手すぎる。

(この子素敵すぎるし、恋人とかいたんだろうなぁ。いやそれどころか現在絶賛結婚中だったりしない……!?)

 ほわほわしていたら不意にその可能性に思い当たって、途端にえなは絶望の淵に立たされる。よしかとして接していたから盲点になっていたが、夫がいてもおかしくないのだ。あんまり考えたくないことだったが、気づいてしまったらどうしても気を取られてしまう。

(やばい、左手の薬指に意識が向いちゃう……。そんな自分にすっごい罪悪感抱えちゃう……)

 視界から外そう、外そうと思考が働いてしまうあまり、余計に好奇心がくすぐられて余計に目を向けたくなってしまう。何とかそれを引き剥がそうと歯を食いしばってぐぐぐ……と首を反対を別の方向に向け、という一人格闘を繰り返しているうちにほとんど小春のことにばかり気を取られてまったく魚たちの見事さに浸れなかった。隣ではそんなえなの邪心に気づかずに、無邪気に小春が楽し気にはしゃいでいる。だんだん申し訳なくなってきた。

(あたしってばほんとに……。たった今の今まで年齢とかそういうの関係なく、彼女が彼女らしくいられたらそれでいいとか格好つけてたくせに……。自分の期待さえ裏切るんだから……)

 勝手な自己嫌悪に浸りつつ、表面上は笑顔を張り付けて足取りの軽い小春の後を追う。せっかく二人でお出掛けしているのに。自分も楽しく過ごすと決めていたはずなのに。結局中途半端なままだ、自分は。

「あっ……! センパイ、見て! すっごい広い……!」

「えっ、わっ……!」

 スロープを下りた先、不意に天井まで高い開かれた空間に出た。小春に手を引かれて早足になった向かう先に、えなは目を奪われる。

 今までで一番大きな水槽だった。そこは大きな壁一面が水槽に面していて、どこまでも広く、見上げるほどの水中の景色を拝むことが出来た。

 その水の中の世界に、大小様々な魚が踊るように泳ぎ回っていた。そこにあるのは疑似的な広大さで、縛られた自由なのかもしれない。

 それでも、どこまでも自由に楽しそうに重力のない世界を泳いでいくたくさんの魚たちの煌めきは、確かにえなの閉じこもった心まで朝日のように差し込んだ。

「あっ、小春さん……っ。何か向こうにおっきいのが……! わっ、こっちに来る……!」

 二人で並んで水槽を覗き込んでいたら、奥の方の別の覗き窓の方にいた大きな影が壁沿いにこちらに向かってくる。緩やかに泳ぐエイたちを伴ってこちら側にのっそりと姿を現したのは、ジンベエザメだった。

「すっごぉ……」

「でっかぁ……」

 小春と二人で呆然と、すぐ目の前の窓を通り過ぎていくジンベイザメの横顔に見入っていた。また奥の方にファンサービスしに行った彼、あるいは彼女を見送った後、お互い顔を見合わせる。

 その時、ようやくえなは自分から小春の腕に縋りついていたことに気づき、その距離の近さにひとまずどきりとしたが。

 周りの感心した様子に対して、固唾を呑んで呆気に取られている自分たちがひどく間抜けで。可笑しさが上回って、吹き出してしまう。そんなえなを見た小春も、力が抜けたようにけたけたと笑い出した。

 何だか。さっきまでうじうじしていた全部、何もかもどうでもよくなった。人間、極端に大きなものを前にすると小さなあれこれとかそんな些末なものは吹き飛んでしまうものらしい。

 それを教えてくれたのは、今目の前で笑い合っている小春だ。自分に惑わされるな、あたし。全力で彼女と一緒の今を楽しむんだ。

 彼女が既婚者ならなんだ。それならこのひたむきに彼女に向かう想いは、墓まで綺麗に包装したまま持っていけばいいだけの話だろう。そんなたった一つの事象で、あたしは彼女の隣にいられるこのポジションを誰にも譲る気はないのだ。

「あっ、ランチ食べられるお店あるって! お腹空いたし、何か奢るよ! あたし、ジンベイザメバーガーにしよう!」

「えっ、私自分の分は自分で出すよセンパイ……! 私はえっと、チンアナゴソフトクリームにしようかな……」

 テーブルがある食事のとれる休憩所を見つけて、二人でそれぞれ注文したものに舌鼓を打つ。もちろん無理矢理えなが奢った。先輩としての体面は保っておかないと。

 ソフトクリームをちっちゃな一口で食べつつ堪能している小春に笑いかけながら。えなはさりげなくその左手の薬指に指輪がはまっていないのを確認する。それにほっとした自分に、ほんのりと浮かぶ自己嫌悪。それをすぐに呑み込んだ。

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