夫が秋葉原で飛び込み自殺しようとする人を止めたけれど何が起こったのかわからなかった私
飯島英作
夫が秋葉原で飛び込み自殺をしようとする人を止めたけれど何が起こったのかわからなかった私
「でさ、その時あの爺さんこう言うわけだ。『逃げたきゃ逃げろ。どうせ逃げられはしない』と。それはこっちの台詞だってんのにまあ、呑気なもんだったよ」
ピッ
深夜十二時過ぎの秋葉原駅。改札を通る音が立て続けに三つ鳴る。一つは私。もう一つは、たまたま隣の改札を定期券で通った見知らぬ男性。その男性は、改札を通ると電光掲示板を見渡し始めた。あと一つは、その男性の後に続いて通過した、よく喋る私の同行者だ。
「そんなもんだから仕方なくさ、奴さんの状況を丁寧に説明してあげると、これはまた面白い顔になってきてな。そんでもって、警察をお通ししてあげたといえわけさ」
本当によく喋るな、この人は。
半ば呆れ顔で彼の顔を見上げる。穏やかな顔に微笑を浮かべ、不意に目が合った私に首を傾げている。不思議そうな表情で、「どした?そんな不満そうな顔をして」と訊いてくる。能天気もいいところだ。こっちは興味もない「ミステリー小説の面白い話」というのをえんえんと聞かされ続けているというのに。
彼──私の夫は、探偵をやっていた。今日夕方、突然かかってきた電話による依頼は、彼にとっては大した苦労もなく解決されたけれど、時間のかかる内容であった。自宅に一人私を残すのを憂慮した彼は、私の意思云々にも拘らず私を連れ出して、結局夜中まで付き添わせたのだった。それで、この弁論。元気なものだ。
私は溜息を一つついて答える。「いえ、何も」
するとまた彼は話を再開する。ちらっと様子を見てみると、非常に愉快そうに、頬を紅潮させて、普段そこまで饒舌というのでもないこの人が熱弁を振るっていた。「どうだ?普通こんなことわかるものか」と目を輝かせているのを視界の端に収めて、少し口元が緩む。
広輝くんとの生活にも、随分慣れた。彼は自分の好きなように行動するし、身勝手なところもあるけれど、決して私の傷つくようなことをしたことがなかった。といって、何もその態度に煩わしいとかわざとらしいところがあるわけではなく、ただ純粋に、彼は私を守ってくれているのだ。もちろん彼の生活力の無さとか無鉄砲なところとか、鼻持ちならないと感じることだってあるけれど。
そんな風にちょっと俯き加減で回想していたから、いつの間にか彼の熱弁が途絶えていることに気が付かなかった。どうしたんだろうと隣を歩く彼を振り返ると、さっきまでとは全く違った、厳しく何かを見据えた表情へと様変わりしていた。驚いて彼の視線の方向を確かめようとするけれど、その前に彼は「しっ」と口元に指を立てて私に目配せし、「ついてきて」と囁き小走りに駆け出した。
何事だろう。
突然走り出して。
見ると彼の走る先は、先程彼の前を歩いていた男性が六番ホームの階段を登っているところであった。彼は電光掲示板を確認した後すぐ、足早にその階段へと向かっていったのだった。深夜十二時というだけあって、さすがの秋葉原駅も人混みはほとんどなく、柱以外に視界の障害はなく見渡しやすい。
その背中から見るに、中肉中背。髪はボサボサ。荷物は特になく手ぶらの深夜客だ。さっき近くで見た感じでは、広輝くんがあんな厳しい顔をして見詰めるような要素は見当たらなかったはず。
何があったの?
尋ねたい気持ちをぐっと堪える。これでも何年間か一緒に過ごしてきたのだ。彼の異常なまでの推理力は既に知っている。何かがあったのだろう、何かが。今は待つしかない。その「何か」は、彼の見抜いた「状況」を切り抜けてから、きっと説明されるだろうから。
対象の人物は少し早足で、急いでいるように見えた。広輝くんも駆け足で、音を立てないように六番ホームへと突き進んでいく。私も置いていかれないよう小走りで彼の背を追いかける。
六番ホームを上がると、ちょうど男はそのまままっすぐにホームの後ろへ向かっていた。電光掲示板を見上げて、ちょうど四分後に電車がやって来るのを確認した。ホームには疎らに人が立っていて、次の電車を待っている。
意外なことにその男は、ホームの端に来るまで歩を止めなかった。さして混んでもいないこの時間帯、なんでわざわざと思った。別に階段傍で乗ればよかろうに。
彼が漸くホームの端で立ち止まったその刹那、はっとした。もしかしたら。湊くんが突然彼を追い始めたことを鑑みると、この閃きは間違いないように思われた。しかしそれにしても、と不思議な点はいくつもあったが、その考えが浮かんだために私は焦っていた。
「広輝くん、もしかして──」
再び私を「しっ」と制して黙らせた。広輝くんは駆け足をやめ、そろそろと柱や自販機の影に身を忍ばせつつ、男に近づいていく。私はただじっと、その後姿を離れて見守っていた。
「まもなく、六番線に電車が参ります。ご注意ください」
アナウンスが入った。
キーっと鋼色の列車がホームに入ってくる。徐々に前方のライトが近づくにつれ、私の想像はまさに疑いないものへと変わった。
電車のスピードは、速い。停車するためにブレーキを踏んでいたとしても、十分速い。何に対して十分かと言えば──。
「おっと、まだ死んじゃいけないよ。そんな年でもなかろうに」
広輝くんは男の肩を両手でぐっと押さえ、足を絡めて後ろにその身体を倒した。
その直前、私が見た光景は──男は身を乗り出し、今にも線路に飛び出そうとしていた。
電車が去っていく。
先程慌てて飛び出してきた車掌に向って、いやあ連れが酔っ払ってまして、お騒がせしましたと陽気な声で広輝くんが返すと、車掌は不審そうな顔をしながらも「気をつけてくださいね、本当に」と車内へ戻って列車を出した。
残されたのは、ふうっと息をつく広輝くんと、呆然と尻もちをついて、その若者を見詰める三十くらいの男性、そして私だった。私とて、あまり状況はよく飲み込めていない。
広輝くんは、飛び込み自殺をしようとした男を、無事に止めることができた。それだけは、目の前で確かめたからわかるけれど。彼が一体何を考えて、この男を「今から飛び込み自殺をしようとする男」だと疑ったのか、わからない。それに彼の動きからして、結構確信も持っていたようだから、なおさら謎めいて見えた。
男は戸惑った様子で、吃りつつも口を開いた。
「あ、あなたはどうして……」
広輝くんはしゃがんで目線を合わせ、おどけた調子で話し出した。「ぼくはね、探偵なんだ。だからね、目の前を怪しい人が通ってたら見過ごすわけにはいかないの」
「怪しい人」私はその言葉を繰り返した。「一体どういうわけで、この男の人を怪しいなんて思ったの?隣で一緒に改札を通った私は、そんなこと何もわからなかったけど」
彼は口元に指をやって、「んー」と何か思い起こしているようだ。そしてにこりと笑い、「そうだな、『隣で一緒に改札を通った』君には、一つヒントがないかな」
妙な部分を強調してきた。隣の人間にはわからなかった、しかし男の後に通った彼にはわかった、というわけか。だとすると……
「ICカードのチャージ金額ね」
「ピンポーン」
随分軽い受け答えだなと思ったら、きゅっと表情をまた一変させて、まだ呆けている男に向けて真剣に話し始めた。
「そう。ぼくには仕事柄、なんでも目に映したものから可能な限りまで推理する習慣が染み付いているんだ。だからまず、あなたが通った後の改札機をくぐる直前につい視界に入れてしまった、チャージ金額残高を見たことが全ての推理の始まりなんだ。示された金額は、八十二円。とてもじゃないが、この秋葉原駅からそこら辺の駅に行くのに足りる金額ではない。考えられるのは一つだけ。それは、そのカードは秋葉原駅を含むある区間設定がされていて、既にその料金分は支払われているということ。それならば、秋葉原駅からの行き先はある程度決まっていることになる。
それに加えてこの深夜、あなたの服装は軽装で、しかも手ぶらだ。この辺りに住んでいる人なんだろうとは容易に想像できた」
広輝くんは、目をすっと細めた。
「そうか、ならばこの方は秋葉原駅をよく使うのか、手ぶらということも頷けるななるほどーと思っていたところ、あなたは、ぼくにとっては予想外の行動に出たんだ。よく思い出してご覧なさい……あなたは、改札を通るなり、一番から六番まであるホームの到着予定が示されている電光掲示板を、端から端まで、確認し始めたのさ。首を横に振って、一から六まで見渡してね。
そこで初めて、おかしいと思ったのさ。定期券により行き先は決まっているはず、秋葉原駅も使い慣れているはずのあなたがどうして、わざわざ行き先以外のホームの到着予定まで確認するのかってね。ど忘れ?いやあそんなことはない。あなたは、十分すぎるくらいの時間すなわち、到着予定を隅から隅まで確認できる時間をかけて、電光掲示板を眺めていた」
男の人は、電光掲示板の下りでぎょっとしたようだった。誰もそんなことは気に留めていない、気づいてもただ時刻表を確かめているようにしか見えないはずだと踏んでいたのだろう。
「ではなぜ、そんな行動に出たか。無論、普段行かないところに向かうからだという可能性は端から消してある。こんな夜遅く、終電も間際の時間に?そんな手ぶらの軽装で?チャージ金額百円程度で?そんなはずはない。
思い当たったのが、自殺だ。
この思い当たりは、十分他の謎も立証してくれる。軽装、チャージ金額の少なさ、深夜人の少ない時間帯にわざわざやって来た理由。そして、全てのホームの電車到着予定を調べたわけ。……あなたは、選んでいたんだろう。自分がホームの端まで移動してから、ちょうど良い時間に電車がやってくるホームを。
ホームの端を選ぶのは、自殺者の特徴的選択だ。深夜近くとはいえ、やはり秋葉原駅、いくらか人はいる。しかしホームの端まで行けば、この時間帯なら人っ子一人いるはずもないからな。邪魔される心配はない」
ふっと表情を緩めて、こう続けた。「悪いが、止めさせてもらった」
……驚いた。それは、彼の洞察力への感嘆も含まれているけれど、それだけじゃない。思考さえすれば、私にだって、この自殺を見抜けたかもしれないと思ったことに、吃驚していた。今までにもそんなことは何度かあった。彼の推理は単純明快、ちゃんと観察していれば、物事の奥の奥まで深く入り込んでしまえる感覚だ。けれど、こんな件は初めてだった。人一人の生死を、ただその人の後に改札機を通ったために決定してしまえたという今回のような件は。
やっと、男の顔に表情が戻ってきた。驚き、戸惑い、そして恥。決心したのに、死ぬことができなかった痛み。それでも、目の前を通った電車に押し潰されたかもしれない恐怖。……そこに僅かながら、安堵が垣間見えた気がした。
色々なものがどっと噴き出してきて、ないまぜになって、耐えきれなくなったのか俯いて顔を隠した。
広輝くんはふっと笑った。「だいたい、自殺なんてするもんじゃあない。あなたは独り身で、親の世話までして、大変かもしれないが。もし他にも悩みがあるなら、連絡してほしい」
彼はすっと名刺を、男の胸ポケットに差し入れる。
──なんとなく、わかってきた。指輪のついていない、おそらく洗剤により荒れた手。そして、ボサボサの髪や青白い顔色に対して、清潔さは保たれている服。自己管理がなっていないけれど、洗濯や食器洗いだけはしている。それは、他に世話するべき人が傍にいるから。
確かめたいけど、今は控えよう。
広輝くんは、くるりと踵を返した。「さ、帰るぞ」
「えっでも……」
私はちらりと線路の方を見やる。男は項垂れたまま、ホームの床に座り込んでいた。
けれど広輝くんは、「駅員には伝えとこう。酔っ払ってるのか疲れてるのか、座り込んでる人がいますってな。さ、行くぞ」
「いや、電車が……」
「大丈夫さ、その人のことなら」もう寸分も固さの残っていない顔を振り向けて、にっと笑って言った。「今のが終電だから」
私はポツリ、呟いた。「私たちの乗る電車は、まだあるんでしょうね……」
夫が秋葉原で飛び込み自殺しようとする人を止めたけれど何が起こったのかわからなかった私 飯島英作 @ihd
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