幕間 リヒト・エーテルナ③

 勇者に対して複雑な感情を抱いている自覚はあった。

 他人に対して強い興味を示さない自分が、彼の噂話だけは耳を傾けた。

 情報は力である。

 だからこそ数多の話に気を配りながらも、自分のために聞くというのは初めての体験だ。

 それくらい、勇者アルフォンスという存在は自分にとって特別なのだろう。

 いい意味でも、悪い意味でも。

 この世界で唯一、己に敗北という烙印を押した相手。

 そんな存在を無視できるほど、リヒト・エーテルナという男はできた人間ではなかったようだ。

 そんな相手が結婚した。

 政略結婚な上に元は敵であった魔王の娘。

 さらには結婚初夜も逃げ出したと聞けば、どれほどの相手なのかと興味を持ってもおかしくはないだろう。

 だから楽しみにしてたのだ。

 勇者の妻はどれほどの相手なのか、と。


「――」


 対峙した時、それはそれは驚いた。

 美しい桃色の髪に、ルビーのような赤い瞳。

 つんっと冷たい印象を与えつつも、どこか庇護欲を掻き立てられる容姿のその女性に、リヒトは一瞬息を呑んだのだ。

 美しいドレスも、煌びやかな宝石も、その全てが彼女を引き立てるだけの存在であるとよくわかった。

 これが魔物の姫かと、リヒトは己でも気付かぬうちに口端を上げていた。


「はじめまして、魔物の姫よ」


「……名乗っていただけるかしら? 魔族なもので、人間に詳しくないの」


 美しい声。

 透き通ったその声に、思わず耳を澄ましてしまいそうになる。

 ああ、なるほど。

 これは最悪だ。

 まさか勇者の妻が、これほどの女性だったなんて。


「おっと失礼。リヒト・エーテルナと申します」


 疑いの目が刺さる。

 思えばこんな瞳を向けられるのは初めてかもしれない。

 王太子という立場。

 人好きのする見た目。

 元勇者候補として日々努力していた姿。

 どれをとっても人々はリヒトを絶賛した。

 だからこそそんな目で見られることは予想外で、リヒトは驚きつつも魔物の姫をじっと見つめる。


「想像よりもずっと美しい。勇者アルフォンスが羨ましいくらいだ」


 褒めたつもりなのに、目の前の女性はものすごく嫌そうな顔をした。

 魔物と人間では文化も違うというが、もしや容姿を褒めたりするのがダメだったりするのだろうか?

 まあそこらへんは正直わからないので、今は己の思うがまま接することにした。

 ひとまず案内をしようとしたその時、勇者アルフォンスがは知ってやってくる。

 その必死ような様子に、リヒトはおや? と心の中で呟く。

 勇者と魔物の姫は、初夜すらまともにできぬほど関係がよくないのではなかったか?

 魔物の姫と呼べば鋭く睨みつけてくるアルフォンスに、リヒトは驚きを隠せないでいた。

 どうやら話とはだいぶ違うらしい。

 アルフォンスはやたらと魔物の姫ことヘスティアを気づかっているし、ヘスティアのほうもそんなアルフォンスを鬱陶しそうにしつつもそばに居続けている。

 なるほど噂とは案外当てにならないのだなと、二人を案内しながら思う。

 途中妹のアリアがやってきてヘスティアとなにやら険悪な雰囲気を醸し出していたが、無事王の元へと送り届けることができた。

 父と話す二人の背中を、リヒトはどこか呆然と見つめる。


「……それが魔物の姫か」


 あれこれと話しているのを意識半分で聞きつつ、先ほどから胸に宿る感情にリヒトは残りの思考を持っていかれていた。

 なんだこの、モヤモヤとした感情は。

 いや、これの正体はわかっている。

 昔、勇者選定のおり聖剣に選ばれたアルフォンスをこの目に映した時に感じたものと酷似していた。

 もちろんあの時ほど強く苦しいものではないが、とても似た想いが胸を支配する。

 どうしてこんな感情を、今、抱くのだろうか?

 自分はどうしたのだろうかとそっと己の胸に手を当てていると、どうやら父が失礼なことを言ったらしい。

 部屋の空気がガラリと変わった。


「…………」

 

 おおかた魔物を渡せないとでもいったのだろう。

 少しでも利を得ようとするのは悪いことではないが、今は部が悪いとなぜわからないのか。

 愚かなことだと呆れていると、この耳にまたしてもあの美しい声が届いた。


「馬鹿はどっちよ無能王」


「――」


 聞こえたその言葉に、リヒトはまるで雷を打たれたような感覚を覚える。

 その言葉は常々己の中でのみ形にしていた文字であり、決して表に出してはいけないものであった。

 父ではあるが相手は王だ。

 どれほどその座に相応しくない相手であろうが、己の方が才能に富んでいようが、相手はこの国のトップ。

 息子であり次期王であろうとも、現王には敵わない。

 だから言えなかった。

 口に出すことはできなかった。

 恐れ知らずと思っていたリヒトですら、無意識にも避けていたこと。

 それを彼女は、いとも簡単にやってのけた。

 その凛とした背中から、目が離せない。


「よく聞いて。あなたは勇者としてもう、この世界を救ってるのよ? 魔王と和解なんて簡単なことじゃないの。それを成し遂げたあなたをぞんざいに扱うなんて、この私が許さないわ」


 ああ、その言葉。

 それは本来、――自分が受けるべきものだったのに。

 胸の中のモヤが、大きく濃くなっていくのがわかる。

 それは嫉妬というものだった。

 人であるならば誰しもが持つその感情を、しかしリヒトは成人するまで持つことはなかった。

 当たり前だ。

 自分はなんでも持っていて、人に劣るところなんて一つもなかったのだから。

 なのに今、その感情が大輪の花を咲かせたのだ。

 そしてそれは、人の身で制御するにはあまりにも強すぎた。

 だから、無理だ。

 抑えることなんて、できない。

 したくない。

 その瞬間、リヒトの瞳には仲睦まじく映る二人の姿があった。

 ほしい。

 あれがほしい。

 ただをこねる子供のように、その感情だけが脳を支配した。

 思えば子供の時にもこんな感情はなかった。

 だって望めば全て、手に入ったから。


「――ははっ。面白いな」


 ニヤける口元を止めることができない。

 だから言っただろう?

 退屈は嫌いなのだ、と。

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