一九七八年

中田もな

晴れ

 かつて生まれ育った故郷も、何十年も離れてしまえば、そこは旅先となるのだろうか。


 湿っぽい空気が、いやに身体にまとわりつく。聞こえてくるのは、舌を巻いたような発音。

 この国のじゃない。だが俺だって、西洋人から見てしまえば、台湾人か日本人か分からないだろう。


「不好意思,請問,九份怎麼走?」


 一九七八年、夏。久々すぎた。祖国に帰って来るのも、日本語以外を話すのも。


 特に、目的はなかった。親戚もいなければ、両親も既に死んでいる。観光客と似たようなものだ。何せ、知らない間に街は変わって、まるで初めて来た場所のようだから。


 ──九份,也就這樣嗎? 


 こんなものだったか、九份は。荒れ放題の廃屋を、右目の端で眺めてみる。

 痩せ細った野良猫が、退屈そうに耳を揺らし、暇という暇を謳歌していた。


 俺が子どもの頃は、この街はまだ、金鉱脈で栄えていた。だから俺は、そこそこの教育は受けさせて貰えた。あの頃は日本が台湾を統治していて、お偉いさんは相当ヤキモキしていただろうが、子どもにとってはそれが当たり前の時代で、特に不平不満を感じたことはなかった。

 そういう精神だったからか、戦後は日本で職を探して、そのまま東京で就職した。確かに戦争は酷かったが、とにかく日々を生きるのに一所懸命な奴らばかりで、悲嘆に暮れる暇もなかった。


 鉱山は数年前に閉鎖されたそうだ。そんなことも知らなかった。俺は完全に、この街のことを忘れていた。記憶の片隅から、砂のように零れ落ちていた。


 ……そう、思いたかった。


 薄暗い坂道を下ると、いっそう荒れた通りに出た。アテもなく歩き回っていたので、流石に足が疲れてしまう。どの店も閉まっていて苦労したが、辛うじて開いていた咖啡館に入ってみた。


 無愛想な女店主が出てきて、「注文は」と言う。とりあえず水をくれと言うと、隣の席に置かれていたピッチャーごと、ドスンと机に置いてきた。


 黄ばんだメニュー表に手を伸ばすと、やたらと強く折られたページがある。見ると、伝統的な漢方茶──「幻茶」と言う名前──のようだ。誰が残したのか知らないが、ご丁寧に「不好喫」と書き殴られている。

 わざわざこんなことを書き残す客も客だし、そのまま放置している店も店だ。明らかにハズレの品だが、これも何かの縁と思い、あえて注文してみることにした。


 店主が奥に引っ込んでしまうと、店は一気に静まり返った。残ったのは、カランと溶ける氷の音と、雑音混じりのおんぼろラジオ。


 その、ノイズの中から。


 ── 接下來是棒毬新聞的環節。


 野球。

 ずっと避けていた単語が、聞こえてしまった。


 何故、俺だけが、生き残ってしまったんだ。

 いや、真偽は定かではない。もしかすると、今もどこかで生きている奴がいるかもしれない。だとしても、俺の知っている「あいつら」は居なくなってしまった。


 あの頃は、楽しかった。悪化する情勢も、激化する戦況も、野球をしている時だけは関係なかった。

 学校のクラブ活動で、日本人が俺たちに野球を教えてくれた。じきに俺たちの方が上手くなって、強豪校と遜色なく、白球を追えるようになった。

 

 戦争の記憶が段々と霞がかって、日本で普通に生活できるようになっても、野球のことだけは思い出したくなかった。鼓動が早くなって、息が苦しくなって、汗が出る。


「俗に言う、PTSDですね」


 一回りも若い医者に、そう言われた。そうですか、としか返せなかった。病名がつけば安心できるかと思ったが、あの頃の残像が離れることはなかった。

 

 グラスに口を付けようとしたが、水がこぼれて服が濡れる。手の震えが止まらない。


 ──あいつらは、死んでいいやつじゃなかった。

 

 ……いや、知ってるさ。死んでいい奴なんか、一人も居ない。聞き飽きた、決まり文句。


 だが、そんな偽善を聞きたい訳じゃない。現にあいつらは、あんな時代に生まれてなくて、台湾でプロ野球が出来た今、グラウンドにさえ立ってさえいれば、きっとプロになれたはずだ。

 生まれる時代が、違ってさえいれば。誰だって、見逃さなかったはずだ。


 ── 連日本人也不會錯過。


 ぬっと人影が立って、我に返る。仏頂面の女店主が、漢方茶を持ってきた。

 

「請慢用」


 「ごゆっくり」とは、到底思ってもいなそうな声だ。無理もない。俺はみっともなくガタガタと震えて、顔は真っ青だろうから。


 無理やり気分を落ち着かせて、俺は「幻茶」を口に含んだ。

 

 ……苦い。驚くほど不味くて、飲めたもんじゃない。


 だが。


 ──これは、俺の知っている味だ。


 そう思った瞬間、俺の頭の中で、過去が走馬灯のように駆け巡った。


「快跑!!」


 粗末な軍服。擦り切れた足。俺は必死に、「あいつら」に向かって叫ぶ。


「快跑!!」


 苦い。血が口に入る。こんな銃など、使い物にならない。


 一人。また一人。あいつらは死んだり、消えたりする。残ったのは、俺ひとり。


 ならば。


 ──俺は、どうすれば良かった。


 コップの縁を、赤い茶がつたう。俺はそれを、ぼんやりと眺めた。

 苦味が、口から離れない。


 ……ラジオはまだ、野球のニュースを流している。日本で甲子園が始まった、という内容だった。

 中継の再放送が始まり、ウーというサイレンの音が聞こえる。


 次の瞬間。

 

 窓から風が吹きつけて、俺の髪を強く揺らした。

 机に置かれたメニュー表も、壁に貼られたポスターも。そして、俺の記憶さえも。


 ──九回裏、二対ゼロ。ここで終わるわけにはいきません。


 ラジオから流れているのは、中国語であるはずなのに。俺の頭の中で、徐々に日本語が混ざってくる。


「さぁ、李選手、バッターボックスに入りました。先ほどは三振に倒れましたが、ここぞの場面に強い選手です」


 一九四〇年。晴れ。強い風が吹いている。


「ツーアウト、ランナーは一・二塁。ホームランが出ればサヨナラという局面です」


 グラウンドには、あいつらがいた。日本人も。朝鮮人も。今は居ない、アジアの国の、誰かもいた。 


「痛烈なイッパツが……!! 入る、入るかー!?」


 日本人アナウンサーの言葉と、会場の熱気だけで。白球がスタンドに吸い込まれていくのが分かる。


「サヨナラー!! サヨナラ、サヨナラだー!!」


 ああ、見えたさ。アナウンサーの、声の先で。

 あいつらは、俺に手を振っていたよ。

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一九七八年 中田もな @Nakata-Mona

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