第5話


「――そうはいきませぬぞ、孫策殿」



 声がして、振り返ると、そこに張昭が厳めしい表情で立っていた。

「貴方は知らない間に帰って来たかと思えばまたどこに行かれますと!?

 しかも、護衛も無く!

 下邳ですと! 性懲りもない!」

 張昭は孫策を怒鳴った後、側の陸遜を睨みつけた。

「陸遜! お前はまたそうして殿を軽々しく焚きつけおって!!

 その御方は周瑜殿のこととなると見境が無くなるのは分かっておろう!!

 大体、誰が華陽から殿を呼び戻していいなどと申したかっ!!

 お前は何の権限で、勝手なことばかりしているのだ!!」

「……、」

 陸遜は何かを一瞬言おうとしたが、口を閉ざした。

「……申し訳ございません」

 張昭の前に、深く頭を下げる。

「お前のそのような萎れた姿を見た所で、心が無いのはもう分かっておるわ!!

 自分の立場を分かっているのか、陸遜!

 妃殿下が盧江の城を訪問した後、このようなことになったのだぞ。

 まさか陸家に咎が無いなどと思っておるのではあるまいな!!」


「陸家が周瑜をこんな風にする理由がないだろうがよ。

 お前までまだそんなことを言っているのか」


「私はまだ、何も明らかになっておらぬ、と申し上げているのです。殿。

 陸家とて、陸康殿はこちらとも親しいが、分家の全てが信頼出来るというわけではない。

 それは貴方も周家との付き合いでよく分かっておられるでしょう。

 陸遜は周瑜殿の近衛です。

 周瑜殿に万が一のことがあれば、近衛の陸遜が責めを負うのは当然のこと!」

「張昭殿。周瑜殿に万が一のことがあれば、私は当然、処罰を受けます。

 お命に関わることならば、無論死んでお詫びを致します。

 ですがこのままここにいても事態は……」


「お前如きが口答えするでない!!」


 張昭が厳しい声を放つ。

「妃殿下のお命に関わることがあれば死んで詫びるだと? ――愚かなことを!!

 お前の命を幾つ並べた所で、妃殿下の命の代わりになどならんわ!!」

 陸遜は口を閉ざした。

「やめろ、張昭。

 こんな時間が無駄だ。

 医者が全員、匙を投げた。

 だから俺が陸遜に、何か手は無いかと聞いたんだ。

 陸遜は少しでも可能性のある手段を考えた。

 そういうお前は何か、周瑜を治す手立てがあるのか?」

「それは……これから、宮廷医師とももう一度話し合い……」

「また十日、無駄にするか。

 貴様ら周瑜の命をなんだと思ってる?」

 孫策は険しい表情になる。

「人間には何かことが起こった時、話し合う人間と行動する人間がいる。

 俺と陸遜は行動する人間だ。

 お前や文官たちは、話し合う人間。

 別にどっちが偉いとかいう話をするつもりはない。

 俺は十日、お前たちに周瑜の命を預けた。 

 自分と違う、話し合う人間達にも敬意を抱いてるからだ。

 だからお前も俺たち、行動する人間に敬意を払え。

 自分と違う動きをするからといって詰るのは止めろ」

 「私は、別に自分と違う考えの人間だから詰っているのではありません」

 張昭は言ったが、孫策は首を振る。

 歩み寄って、張昭の肩に手を置いた。


「俺はな、張昭。

 お前のように賢くは無いが、一つだけ言えることは。

 命の大切さだけはお前よりも分かってる。

 親父の死にも教えられたし、

 呂布とぶつかった時にも学んだ。

 周瑜が、二年半、何の確証も無く――俺の無事を信じ続けてくれたことも」


 そこで初めて、張昭の瞳の奥が揺れた。

「俺が陸遜を信じることを、お前は感覚的だと思っているが、俺から言わせればお前たちの方がずっと感覚的で信じようとして無い。

 俺は、行動する者同士の共感と、戦場での戦いぶり、平時での貢献、陸遜が行う全ての行動を総合してこいつは信じれる人間だと言ってる。 

 こいつが最初に陸家の人間であることを伏せていたのは、親父と陸家が友好関係にそれまで無かったからだし、陸康殿から直接、周瑜を守れという命令があったからだ。

 お前には説明したな。<六道>の長である陸遜は、与えられた命令を口に出すことは出来ん。

 陸家に他意があって身分を隠していたわけじゃない。

 権に一度剣を向けたのは、あいつが陸遜のことを、孫呉に仕える者と、<六道>の長という二つの顔を持っていることを理解せずに、陸遜のやろうとしたことを邪魔したから。

 武昌ぶしょうで俺が倒れたのは、毒を盛られたんじゃなくて睡眠薬だ。

 全部お前たちの誤解なんだ」


「お言葉ですが、誤解を招くこやつにも罪はある」

「だったらその言葉だけを言ってやればいいんだよ」


 孫策が顔を顰めた。


「俺はお前たちに十日与えた。

 だからお前たちも十日間、口を閉ざせ。俺たちのやることに口を出すな。

 張昭。お前は孫呉の文官共の長だ。

 陸遜を信じられないなどと未だに言ってる連中を、お前が黙らせないで誰が黙らせるんだ?」

「……。」

 張昭は陸遜を睨みつける。

 陸遜は、静かな目で、張昭を見返して来た。


「……。私の命を幾つ並べても、妃殿下や、ましてや陛下の代わりにならぬことは、……よく理解しています。張公。

 ですが、私に払える最も価値あるものは、この命しかありません。

 だから、命に代えても、と申し上げるしかない。

 私以外の人間の方が、早く目的地に殿を導けるのなら、その者にやらせます。

 師匠が、私以外が訪ねて行った方が速やかに会うとおっしゃるのなら、私はあえて出ては行きません。

 呼べるものは呼び、使えるものは使う。

 それは無論のこと。

 そうした上で、此度は私が行く方が最善だろうと考えたのです。

 勿論、周瑜様は今、普通の状態ではないのですから、安全と言えばここでお待ちになるのが一番安全です。

 ですが今回は、どうしても妃殿下をお連れしなければなりません」


「張昭、お前だって周瑜が好きだろう」


 いきなり孫策が言ったので、張昭は顔を顰めた。


「臣下は、仕える主を好き嫌いなどと口に出して申し上げたりは致しません。それは不敬です」

「本当にごちゃごちゃ五月蝿い奴だな、お前は……」

 孫策が口許を引きつらせる。

「このままずーっと眠ってる周瑜が見たいのか。

 もう話し合いに時間は取った。次は行動する時間だ。

 それで駄目なら、またお前たちに話し合ってもらう。

 とにかく万策を尽くしたいんだ、俺は。

 諦めてここで毎日周瑜の寝顔を眺めるなんて冗談じゃない。

 ……いや、こいつの寝顔を眺めるのは大好きだぞ。

 でも目を覚ましてる時の周瑜の可愛さはその百倍だ。

 それが見れないなんてもうこれ以上俺は耐えられん」

「万が一、何かあったらどうされるのです。周瑜殿だけではなく、貴方の御身にも。

 孫権殿はまだ国を率いられるだけの経験は備わっておられませんぞ」

「そういう話をしてて、何か前に進むことが出来るのか?

 危険だから行くな、なんてことを言っていて、それで俺たちは今までやって来たか?

 やるべきだと思ったことや、動かなければならない時は、危険でもやって来た。不安の方が多くても。そうやって俺たちは建国までやって来たんじゃないのかよ」

「私の立場から、なら行けばよろしいなどとは申し上げられません。それはお分かりになるでしょう」

「そうか。それなら勝手に行くぞ」

 孫策は眠る周瑜の身体を抱き起こし、横抱きに抱えた。

「孫策殿……」

「もう止めるな張昭。お前の顔面は殴りたくない。

 老人を苛めた感じで寝ざめが悪くなる」


「大きなお世話ですわい!!」


 張昭が怒鳴った。

 孫策が笑う。

「心配するな。俺はどんな時でも、どんな場所からも戻って来ただろう?」

「……またそのように簡単に仰って……! 

 ではせめて、もう少し護衛を連れて行って下さい。その者以外にも」

 孫策が陸遜を見る。彼は頷いた。

「私は、勿論構いません」

「ジジイは駄目だぞ。俺と陸遜は相当早い。遅れたら容赦なく置き去りにするからな。

 玉蘭、行って来る」

「孫策さま、どうか周瑜様をお願い致します……!」

 見守っていた侍女が深く一礼した。

「大丈夫だ。心配するな」

「はい……」

「陸遜、先に行け。船と馬の準備を」

「ハッ!」

 陸遜は表の扉ではなく、庭の方の回廊の方へと駆け出して行った。

 見送り、張昭は疲れたようにそこの椅子に腰を下ろす。

「張昭。権のことはお前に任せる。

 陸遜のことを聞けば、あいつはまたきっと腹を立てるだろうから、お前がちゃんと言い聞かせて、静かに俺たちの帰還を待つように説得しろ。

 これは命令だ。

 お前の仕事だぞ」

「盧江の城を押さえ、徹底的に調べろという声が上がっています」

「駄目だ。それは俺が許さん。

 いいか。この件を周尚殿に伝えろ。俺が周瑜を連れ、陸遜と城を出たことをだ。

 そしてそのことを周尚殿から陸康殿に伝えてもらえ。 

 お二人は古くからの知己だ。信頼関係がある。

 お二人で今何をすべきか、考えていただくだけでいい」


「……。分かりました。それはそのようにいたしましょう。ですが孫策殿。今一度、盧江の城を訪問された折りに周瑜殿がこのような状況になられたこと、そして、貴方の留守にそうなったことを、よくよくお考えになられ、心に留め置き下さい。

 それはこの張昭、伏してお願い申し上げる。

 こんな所でお二人を失えば、私はあの世に行った時に、大殿に見せる顔がございません」


「張昭。お前のような賢い者が、陸遜が孫家の為、孫呉の為に命の限り尽くして、忠義を尽くした末に亡骸になって戻って来たら、初めてその正しさを信じて抱きしめ、泣いてやろうとしてる。俺はそれは愚か者のすることだと言っているんだ」

「……。」

「陸遜が生きているうちに信じれるようになれ。

 相手が死んでからいい人間だったなんて陳腐なことを言う人間は愚かだろう?

 お前はそうなるな。

 お前が陸遜を信頼するようになれば、権も自然とそうなって行く」

「……。」

「もし今回周瑜が目覚めて戻って来たら、もう陸遜を二度と疑うな。いいな?」

 孫策は張昭の顔を見据えてから、部屋を出て行った。



◇ ◇ ◇



 張昭は数秒そこで俯いていたが、立ち上がり、外へと出る。


「張昭殿」


 黄蓋、韓当、朱治、淩操が一斉にこちらを見た。

「今、孫策殿が勢いよく……」

「どちらへ?」

「……。陸遜に、周瑜殿を治せるかもしれぬ人物の、心当たりがあるようだ。

 瑯邪に向かわれた」

「なんと! 今からか?」

「護衛は!?」

「急ぐと申されて。

 淩操、足の速い、腕の立つ護衛を今すぐ用意しろ」

「足の速い腕の立つ護衛と言われましても……、急ですな」

「甘寧がいたら任せたんだがな……」

 途方に暮れたように辺りを見回して、淩操はふと、廊下の少し離れた所で、もうすっかりこの場にいることにも飽きたように壁に寄り掛かり、ふわ~と大欠伸をしている自分の息子に気づいた。


「……ん?」


 しばらくしてから淩統がふと視線に気づいて振り返る。

「……なにさ……。みんなでこっち見ちゃって……」

「張昭殿、経験の浅さは、少し不安に思う所がありますが。

 うちの息子、馬術にだけは自信があります。

 三歳の時から無理矢理馬の背に括りつけて乗せていましたから……。

 女がいるとだらけますが、まぁ、強行軍ならばいやでも仕事に集中するでしょう」

「女はおらん。殿と妃殿下、それに陸遜だけだ」

「なら問題はないな。浮気する要素がない」

 重鎮たちが値踏みするように腕を組みつつ、じりじりと淩統に近づいて来る。

「え。なに? 何なの?」

「まだ随分若い顔だが。腕は立つのか?」

「一通りは、叩き込みました。

 中でも弓は、なかなかだとは思いますが」

「そうか。修錬場でも淩操殿の御子息は筋がいいと、私も聞いている」

「朱治殿がそう言われるなら問題は無いだろう。若いから体力も有り余っとるだろうしな」

「うむ。若者は少しくらい肉体を酷使しても死なんだろう」

「なによ……。おたくら……。俺はどこにも行きませんよ!? 明日、女の子と会う約束が……」

 がしりと淩操が大きな手の平で自分の息子の頭を押さえた。

「そうかそうか。その約束は父がきちんと丁寧に思い切り断っといてやろう」

 重鎮たちは淩統を取り囲むと、にんまりと嫌な笑顔を見せる。


「すごく嫌な予感がする……」


「よし、公績。よいか。何も言わずに今すぐ『行って参ります父上、皆様方』と言うのだ。

 何も考えずとも良い。そしてすぐさま殿の後を追え」

「えっと……それって断ってもいい?」

「ならん。断れば酷い目に遭うと思え」


 父親が指をバキバキと鳴らしながら、微笑んで見せた。



◇ ◇ ◇



 蹄の音が聞こえて来る。


 陸遜は一瞬肩越しに振り返ったが、すぐに前方を見据えた。

 港までは馬車で向かっていたので、中にいた孫策が顔を出す。


「なんだ、お前が来たのか淩統」


 孫策が笑った。

「来たのかじゃないですよ、策さま。

 おれ全然何にも事態飲み込めてないんですけど。

 よく分かんねーのにとにかくついていけついていけって蹴られて……無理矢理……」

「貧乏くじ引いたなぁ~お前。

 言っとくけど、華陽に行った連中より十倍こっちの方が地獄の行軍になるぞ」


「ど!! ええ!? どこに行くつもりですか!? ちょっとそこらじゃないの!?」


「どこだっけ陸遜」

「瑯邪です」

「どこだよ、それ! 知らないんだけど!! 

 一体あんたら、人をどこへ連れて行く気だよ!

 嫌だぜ俺、色々予定あるのにそんなどこか分かんねえ所に連れて行かれるなんて」

 孫策はニッ、と笑った。

「別に無理して付いて来いなんて言わねえよ。淩統。帰りたかったら帰れ。

 護衛役は本当は、俺と陸遜がいりゃ十分なんだよ。

 淩操によろしく言っといてくれ。

 心配するなってさ」

 声を掛け、孫策は中に戻った。

 淩統は片手で顔を覆う。

「いや、マジかよ……! 戻れねーよ! このまま戻ったら絶対父上に殺される……。」


淩公績りょうこうせき殿」


 陸遜が背中を向けたまま呼んだ。

「申し訳ありませんが一刻を争います。

 遅れるようなら、容赦なく置いて行きますので、そのつもりで」

「かっちーん……なにその言い方……折角来てやったのに『遅れるようなら』だあ?

 誰に向かって言ってんだよ!!」

 淩統が馬の速度を上げて、陸遜に並びかける。

「それにあんたその、背中向けたまま人に話しかけるのどうにかなんないの? 感じ悪い!」

 彼はそう言うと、更に速度を上げて、陸遜を追い抜いて行った。

 陸遜は更に馬の速度は上げられたが、馬車と離れないために距離を保っている。

 それでも淩統の馬術を見て、恐らく自分たちについて来れるだろうという力量はすぐさま見抜いた。

 役に立つかは、疑問符が残るところだが。

 しかしこれで張昭の気が済むなら、構わない。


『俺は陸遜を信じる!』


 陸遜はちら、と馬車を振り返った。

 手綱を握る手に、僅かに力を籠める。

 確かに自分の命など、孫策と周瑜の二人が呉国に与える影響を考えれば、代わりなどになるはずがない。

 それでも自分に何かが出来るなら、何であれ、やろうと彼は思った。

 命を懸けて、それを成そうと。


 陸遜は澄んだ琥珀の瞳で、キッ、と前を見据えた。



◇ ◇ ◇



 腕の中の周瑜を見下ろす。

 そっと額に掛かる前髪を手の甲でどけ、触れると、冷たい。

 孫策は周瑜を包んだ上着を広げ、彼女の胸に耳を寄せてみた。

 胸も冷たい。本当に陶器の人形のようだ。

 それでも耳を澄ませると、微かに打ち返す、鼓動の音がした。


 生きている証だ。


 孫策はもう一度上着できちんと周瑜の身体を包むと、静かに、冷たい唇に口づけた。



「……大丈夫だ周瑜。必ず俺が助けてやるからな」




<終>


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