第4話

 陸遜は開いている門を見据えると、一瞬驚いたようにこちらを見た門兵に向かって、強い目を向けた。


「道を開けろ!」


 ぴいん、と彼の凛とした声が響き、二人の門兵が途端に両脇でびしりと姿勢を正す。

 陸遜はそのまま門を突破すると、軽やかに着地した。

 すぐに別の兵が、陸遜の乗って来た馬を慌てて捕まえに行く。

「水をやって、厩に返しておいてくれ」

「かしこまりました」

 埃塗れの外套を脱ぎ捨てる。



「馬泥棒!」



 上から声が飛んだ。

 見遣ると、城門に続く回廊の二階から、淩公績がこちらを見下ろしていた。

 陸遜が一瞬ちら、とそちらを見たが、すぐに別の方を見やったので、淩統はその場で舌打ちをして、下に飛び降りて来た。

「馬泥棒ってあんたのこと。

 人の馬泥棒して、その上港に乗り捨てるって一体どういう了見だよ?

 オレ、わざわざ馬探しに港まで行ったんだからな!

 可哀想だろ、港の桟橋で一頭でぽつんとして……」

 陸遜は唇で特徴ある笛を吹いた。

「ちょっと。なに人が説教してる最中に機嫌良く口笛吹いちゃってんの?

 いいか、あんたは他の人間より馬の扱い上手いと思ってたからあの時――おわ!」

 突然気づけば側に数人の男が立っていた。


「状況は」


「出発された時と変わりはありません」

「張昭殿が、到着次第、総帥をお呼びせよと仰られております」

「そうか。お会いしよう。張昭殿はどちらか」

「奥城の孔雀の間にいらっしゃいます」

「戻ったとお伝えして来てくれ」

「はっ!」

 一人が直ちに駆けて行く。

「総帥がお命じになられたものです」

 陸遜が頷いて文を受け取る。

「ちょっと……あんた人の話全く聞いてないだろ……。

 俺、怒ってんだけど。

 いいかい、馬ってのは賢いから一度でもああいういい加減なことすると、あんたに馬を貸した俺と馬との信頼関係が」


淩公績りょうこうせき殿」


 陸遜が、自分の直属らしき陸家の手勢を引き連れているのは知っていた。彼らは諜報活動やら何やらを引き受ける部隊で、父親からそのことは聞いていたが、淩統は今、怒っていたので何やら忙しそうな彼らの空気も、知ったことでは無かったのである。

 淩統は湧いて出て来た陸遜の部下をしっしっと手の平で追い払う仕草をしつつ、いつも多忙そうなこの青年の説教を続けようとした時、逆にきちんと名前を呼ばれて、思わず身を引いた。

「……はい。淩公績ですけど?」

 ようやくきちんと謝る気になったのかと思ったが、陸伯言は例の、やけに迫力のある琥珀色の瞳で淩統を見上げて来た。


「後日きちんとお話はするので、今は口を挟まないでいただけますか」


 淩統はパチパチと目を瞬かせた。

 ふい、と陸遜は淩統から視線を外す。

「えっ!? 今ので終わり!? いや、今一言ごめんなさい淩統殿って言ってくれれば俺の怒りの溜飲も大分下がるんだけどな~~~!! その一言も言えないほど忙しいのかいあんた」

 尚も詰め寄ろうとした時だった。

 逆に陸遜がガッ、と淩統の腕を掴むと、突然脇へ引っ張った。


「おわ! なにすんの!」


 よろけて、壁にぶつかりそうになった淩統が振り返って怒鳴ると、そこにいきなり一頭の馬がいななきながら突撃して来た。

 誰かが勢いよく飛び降りる。

「策さま?」

 紛れもなく、孫策だった。

「アレ? 策様って今、華陽かように滞在してんじゃ……」

 門兵、側にいた近衛も、「あれ?」という顔をして不思議そうに、こちらに各々が近づいて来る。

「孫策様、こちらです」

 陸遜がすぐに駆け出し、孫策もそれに続いた。

「ちょ、ちょっとちょっとなになに?」

 淩統は事態を飲み込めず、とりあえず二人のあとをついて来た。

「なんか数日前から城の奥がせわしないんだけど、なんかあんの?」

 周瑜のことは、外に漏らさないようにはしているようだ。

「何も聞いてないんですか?」

「いえ……王妃様が風邪をお召しになったのは知ってますけど。父が城に詰めてますし……。

 ……もしかして策さま、それが心配で戻って来たんですか?

 相変わらず愛妻家っすねぇ~~」

 淩統は感心している。

 二人はそのまま、回廊を上がったり曲がったりしながら、城の奥へと向かった。

 孫策は苛々している。

 こういう時、この城は非常に鬱陶しい。

 最初は陸遜の後ろを付いていたが、そのうちに孫策はほぼ本気で駆けるように、自分の脚で王と王妃の住まう居城へと帰って来た。

 回廊に孫策が姿を見せると、そこにいた淩操、韓当、朱治、黄蓋の四人が驚いた表情で振り返った。


「殿!?」


「何故こちらに、」

「周瑜のことを聞いた。中か?」

 扉を自分の手で押し開け、若干乱暴な音と共に孫策が中に入って行く。

 遅れて陸遜と淩統がやって来ると、黄蓋達は分かったようだ。

「陸遜、お前……」

「申し訳ありません。されど、ここは王にお知らせすべきと思いました」

 陸遜は深く、四人に頭を下げた。

「……いや……。いいのだ、陸遜。この数日、ずっとその話をしていたのだ。

 このことを殿にお伝えするかどうするかとな。

 よくやってくれた」

 黄蓋の言葉に他の三人も頷いている。

「今、山越さんえつ族の医者が来ているのだ。あそこには、宮廷医術にはない療法などもあるからな……。王妃様を診させている。

 だがそれで、城下、近隣の街、無論宮廷医師と軍医も全滅になる。

 これで効果がないならば、私が殿を呼びに行こうと思っていたのだ。

 よくやってくれた」

「しかしいつ発ったのだそなた。随分早かったな。さすがだ」

「華陽には程普将軍にお話しし、此度は孫策殿だけ、こちらにお戻りいただきました」

 韓当が陸遜の肩を叩いて労う。

「強行軍で戻ったのだろう、しばし休んで来い」

「はい……、その前に張昭殿に呼ばれているので、お会いして来ます」

「ああ、いい。構わん。そういうことなら私が張公にはお話をしておこう。

 この大事に陸遜はどこへ消えたのかとお怒りだったのだ、誤解は解いておく」

 淩操が進み出て、その場を離れる。

 彼は自分の息子の姿を見つけると、厳しい表情をした。

公績こうせき。お前は私の代わりに、部屋の前を見張っておれ。

 よいか。このことは他言無用だ」

「いや、父上……他言無用も何も、……なんかあったの?

 周瑜殿に……」

「あとで話す。今は無駄口を叩かず、静かにしていろ」

「……なんだよ深刻な顔しちゃって……ただの風邪じゃないの?」

 他の武将に聞いたのに、誰も答えようとしなかった。

「なんなのよ全員で黙ーって……。大体、策様戻ってきていいのかよ?

 他の皆はどーなってんの。魯粛さんとか、呂蒙さんとかは……鈴のうるせー奴は別に置いて来てもいいけどさ……」


「淩統殿」


「はいはい、なんですか?」

 陸遜が振り返りもせず、呼んだ。

「……申し訳ありませんが今は少し静かにしていただけますか」

 淩統は深く溜息をついて、分かった分かった、というように手を上げた。

 武将達は部屋の扉にそっと歩み寄る。

 少し開いたそこから、中の様子を窺った。



◇ ◇ ◇



「兄上!?」


 孫策が入って来ると、寝室の前の部屋の横椅子で、両手で頭を抱えていた孫権が驚いて立ち上がった。

 孫権の側には、周瑜の侍女の玉蘭ぎょくらんの姿があり、心配そうに奥の部屋を見ていた。

 更にその側の椅子には、孫策の母親の耀淡ようたんの姿もあった。

 彼女も孫策の姿を見た時は驚いた顔をしたが、すぐに安堵の表情になった。


「母上」


 孫策が歩み寄り、母親の身体を抱き留める。

「伯符殿、戻って来てくれたのですね」

「兄上……、」

 孫権も立ち上がり、何かを言おうとしたが、言葉にならないようだった。

 孫策は弟の身体も抱きしめ、背を撫でてやった。

「申し訳ありません、兄上の留守中に、このような事態になろうとは……」

「何故ここに戻って来れたのですか」

「陸遜が報せに来てくれた。周瑜の様子を」

 孫策は奥の部屋に入って行く。

 五人の医者がいて、一人が丁度周瑜の脈を診ている所だった。

 その他に虞翻ぐほんと、張絋ちょうこうの姿もあった。


「殿」


 張絋は驚いた顔をしたが、虞翻は一瞬目を大きくしたものの、すぐに一礼をした。

「お戻りになりましたか」

 孫権、耀淡、玉蘭も入って来る。

 周瑜を診ている医者以外は、少し脇に下がって、孫策の場所を作った。

「今、どういう状況だ。陸遜からは、発熱や怪我もないのに目覚めないと聞いた」

「十日ほど前から、全く状況が変わっておりません」

 虞翻が言った。

 孫策はそれを聞くと、数段上になっている天蓋付きの寝台に急いで歩み寄った。



「周瑜」



 見下ろす。

 周瑜が仰向けに眠っていた。

 陸遜の言った通りだ。見た目には普通に眠っているようにしか見えない。

 こちらが思わず焦がれて、寄り添って眠りたくなるような……柔らかな表情で眠る、いつもの優しい周瑜の寝姿だ。

 事実、数日会っていなかった孫策は、一目見ただけで愛しさが湧き上がって来て、堪らない気持ちになった。

 思わず、上から抱きしめて、すぐに異変が分かる。

 確かに冷たい。

 手に触れ、頬に触れる。


 ……氷のようだ。


 だが、見た目には周瑜は頬に赤みもある。

 まさに今しがた眠りについたばかりのような表情なのだ。

 それなのに人形のように熱が無い。

「……なにか分かったか?」

 周瑜を診ていた医者が、静かに手を離す。

「これだけの医者や、知恵者が顔を突き合わせて、十日間、何一つ訳が分からなかったわけか」

 孫策の声が怒りに満ちた。



「もういい!! 出て行け!!」



 孫策は医者たちを追い払った。

 孫権と耀淡がやって来る。

「……、なにがあったか、分かることを話してくれ。母上。権」

「周瑜の身に何があったのか、それは分かりません。

 ですが、貴方が発った後に何が起こったかは説明出来ますから、それを話しましょう」

 耀淡と孫権が側の椅子に腰掛ける。

「貴方が発って……一週間ほどして、こちらは落ち着いていました。

 何もかもがいつも通りです。

 陸家の陸康殿が、丹陽城の周尚殿を見舞いに来られたついでに、立ち寄られました」

 周尚は少し前まで、しばらく病で寝込んでいたのだ。

 陸康と彼は友人なので、見舞うのは当然だろう。それに、丹陽城まで来れば、陸康も周尚も目と鼻の先である建業に、周瑜と孫策の顔を見に立ち寄る。

 いつものことだ。

 孫策は頷く。

「その時に、陸康殿が、兄上が盧江の城にお預けになっている馬の子供が生まれたという話をなさって……。<黒朧>というあの黒馬です。

 その話を聞いた義姉上が、とても嬉しそうになさっていました」

 それを聞いただけでも、嬉しそうな周瑜の顔が目に浮かぶ。

 盧江に預けた黒馬は、孫策が反董卓連合に参戦した時に乗っていた馬だ。呂布軍と遭遇したあの時も、この馬に乗っていた。

 気位が高く、気の強い馬で、何頭か選りすぐられた中から孫策が選んで自分の馬に決めた。

 その時いた他の数頭も、能力的には遜色ないいい馬だったが、決め手はやはり、闇のような毛と、瞳だった。

 散々孫策が背に乗ったことに腹を立てて、立ち上がって怒っていたが、それでも孫策が手綱を緩めないと、やがて嘶いて立ち上がるのを止めて、静かになった。

 じっと孫策を見つめて来る瞳は、集められた馬の中で、一番周瑜の瞳に似ていたのだ。


 無事に遠征から帰った後は、労って、盧江の陸家に預け、世話をしてもらっていた。


 建業で戴冠式を行った後、周瑜を連れて、初めて見に行った。

 綺麗な馬だな、と元々馬が好きな周瑜は目を輝かせて黒朧の瞳を見ていて、黒い瞳がじっとお互いを見つめ合ってるその姿は可愛くて、孫策を微笑ませた。

 黒朧は群れるのが嫌いで、いつも一頭でぽつりとしていたが、ある時から一頭だけ、自分の側に牝馬を寄せ付けるようになり、もしかしたら子供が出来るかもしれないと、そんな話を聞いていて、二人でそれを楽しみにしていたのである。


 ……そんなことを思い出しながら、冷たい周瑜の手を、孫策は握り締めた。


「よろしければ見に来られますかとお話しになり、義姉上も政務や、私の勉強などを見ていただいてお疲れではないかと思ったので、数日休養のつもりで、盧江に見に行かれてはどうかと、そういう話になりました」

「うん。そこまでは陸遜から聞いた。

 陸遜、いるか」

「はい」

 部屋の入り口に陸遜が膝をついて控えている。

「玉蘭も共に行ったのだったな」

「はい。わたくしもご一緒に」

「妃殿下は二日、盧江の城に滞在され、三日目に船で建業に戻られるその途上、船上で、この状態になられました」

「陸遜、玉蘭。お前たち二人は周瑜がこうなった時の状況を見てる。

 当時のままか、確認してくれ」

 陸遜が一礼し、部屋に入って来る。

 玉蘭も、耀淡、孫権に一礼して、周瑜の側に寄った。

 周瑜の手を取ると、玉藍は首を振って、両手で顔を覆った。

 陸遜は周瑜の首筋の脈を計るようにして、しばらく押し黙ったが、頷いた。


「……何も変わらないと存じます」


 言った途端、孫権が顔を上げた。



「…………疫病神め」



 陸遜は振り返る。

 孫権の蒼い瞳が、真っ直ぐに自分を見据えていた。

「……何も変わらないなどと、そんな平然とした顔で、よく言えたな!!」

 孫権が立ち上がり、陸遜に掴みかかる。

「孫権殿!」

 虞翻がいち早く察して、孫権を押さえ込んだ。


「偶然盧江の城に居合わせたのは、単なる偶然か!!

 お前は前から、兄上にも義姉上にも祟っているぞ、陸遜!!」


「孫権殿!」


 玉蘭は戸惑った顔をした。

 彼女は周瑜から、陸遜は信頼出来る人間だから、何かあった時は頼るといいと聞いている。

 玉蘭自身、周瑜の近衛に陸遜が任じられてからは、顔をよく合わせるようになったが、彼に対しては好意的な感情しか抱いたことは無い。

 何事も抜かりなく準備をする青年だったが、しかし玉蘭が、周瑜が幼い頃から仕えて来た特別な存在であると認識してくれているらしく、戦以外のことで、今まで玉蘭がやって来たことには自分は関わらず、侍女としての、彼女の仕事を尊重してくれた。

 

 孫権が以前から「信用出来ない」という理由で陸遜を嫌っていることは聞いていたが、彼女は孫権の、孫家の人間にしては慎重すぎるほど細心な性格も知っているだけに、彼が感情が先走って人を嫌うような人ではないということも分かっているので、どこか「まさか。単なる噂だろう」と思っていた。

 だから尚更、孫権がこうして陸遜を詰る姿に戸惑う。


 だが確かに、盧江の城にはたまたま陸遜がいた。

 それは事実だ。

 しかし陸遜が何か周瑜に害を成したなどとは彼女は思えなかった。

 そんな人ではない、と思うからである。


「やめろ、権」


 孫策が注意する。

「母上の前だぞ」

「ですが兄上!!」


「陸遜が俺や周瑜に害を与えて一体何を得することがある!!

 いい加減にしろ!!」


 孫策が本気で怒鳴ると、孫権は目を見開き、掴んでいた陸遜の肩から手を離した。

「俺は陸遜を信じる」

 孫策と陸遜の目が合った。

 孫策のごく薄い青灰色の瞳が、じっと強い眼差しで彼を見つめている。

「こいつの働きは戦場でいつも見てる。信じれるだけの果敢さと決意が、こいつの中にはいつもある。

 周瑜も陸遜を信じた。

 そういう話を蒸し返すならここから出て行け。

 俺は周瑜を治すための話がしたい」

「……、ですが! 兄上の留守を見計らってこのような事態は、偶然では絶対にありません!! 盧江でなにかあったのです!! それに、このご様子では、決して普通の病ではない!

 義姉上は普段、身体はご健康で滅多に病に伏せったりなさらない方ではありませんか!」

「お前と話してても話が進まねえって言ってんのが分かんねえのか。

 ……母上、悪いけど権を連れて行ってくれ。

 周瑜のことは俺に任せろ。

 絶対に何とかする」

 耀淡は立ち上がった。

「わかりました」

 彼女は孫権を促した。

「仲謀殿。行きますよ。さあ」

 母親に言われ、孫権は俯くと、足早に部屋を出て行った。


「張絋殿。貴方は孫呉随一の知恵者であられる。

 何か周瑜のこの症状に、心当たりはないか」


「はい……、私も、虞翻殿と様々な薬学書や医術書なども探ってみたのですが……、申し訳ありません。

 ですが、」

「なんだ? なんでもいい。思うことがあるなら言ってくれ」

「……はい……。周瑜殿の症状は、病の症例としては記録がありません。

 手掛かりというほどのことにはなりませんが、やはり薬や毒の可能性を探った方がいいかもしれないと」

 孫策は周瑜の手を握ったまま、虞翻を見た。

「虞翻も同じ意見か」

「はい。先ほどここにいた山越族の医者が一族に伝わる薬学書を持って来ていました。

 お許しいただけるなら、今少しそれを見てみたいのですが」

「分かった。そうしてくれ。何か分かれば些細なことでも報せを」

「かしこまりました」

「では私も、虞翻殿をお手伝いしましょう」

 張絋と二人、出て行く。


 部屋には陸遜、玉蘭、孫策の三人だけになった。

 孫策はもう一度、周瑜の頬にそっと手の平で触れた。


「……冷たい……。氷みてえだ……。」


 玉蘭が顔を覆って肩を震わせる。

「……こうやって見てると、本当に寝てるみたいなのに……」

 今回、出立する前、しばらく離れるからと旅立つ前日まで、眠る時は周瑜を抱きしめて眠った。

 温かい身体に包まれて、安堵したのを思い出す。

 穏やかな周瑜の寝顔は、全くその時と同じなのに。

「陸遜」

 孫策は冷たい周瑜の手を握ったまま、周瑜を見つめたまま、呟いた。

 陸遜は顔を上げる。


「……なんとか、……ならないかな」


「……。」

「何か方法はないか。お前なら、……何か手立てがあるなら、俺は何でもする。

 医者たちが匙を投げたなら、もう頼れるのはお前しかない……。

 何かないか。何でも構わないから……」


 陸遜は俯いた。


 自分たち、<六道ろくどう>の者は、仕えるべき主に命じられたことは、何であれ叶えねばならない使命を持っていた。

 善悪の判断など無く、ただ忠実に、任を全うする。

 それだけが陸家六道の掟なのだ。

 その為に、ありとあらゆる分野に通じ、備えておかねばならない。

 当主、本流からの信頼の代わりに、もしこの信頼を裏切るようなことがあれば、その代の<六道>は総帥もろとも処罰される。

 秘密や秘伝を、知り過ぎているからだ。


 陸遜が仕えているのは、陸康である。

 陸康は周尚に頼られ、周瑜の出生の秘密を打ち明けられた。

 眠れる漢王室の血筋を今更守ることに何の意味があるのかは分からないが、陸康は『何があっても周瑜を守るように』と陸遜に初めて陸家以外のことで命じた。

 心のどこかで陸家のくびきから逃れたいと願っていた陸遜は、周瑜の側にいることで、孫策の願いの為に、尽力を尽くすことになった。

 陸家の囲いの中でじっとしていた頃とは比べ物にならないほど、日々は目まぐるしく動いたが、陸遜は生まれて初めて、望む願いの為に戦っているような気持ちになれたのだ。


 陸遜は今が、居心地が良かった。


 周瑜が死ねば、孫策が壊れる。

 壊れた彼は、きっと全てを投げ出すだろう。

 それでは、この居場所も守れない。


「……。周瑜様の症状ですが、病気などの症例に当てはめれば今までに例が無くても、特徴的なことはあります。

 極度に体温が低くなっていること、それに、脈が非常に小さく、遅くなっておられること。

 冬眠する動物が、このような状態になることがあります」


「冬眠する動物?」

「はい……。勿論、人間はそのような習性はないので、それと全く一緒ではないのですが。

 ただ、冬眠中の動物は、決して病でも無ければ、服毒しているわけでもないのです。

 身体自体は、健康体であり、春になって気温が上がれば目が覚める」

 陸遜は孫策を見た。

「悪化しないこと自体は、お前は悪くない状態だと思っているんだな?」

「……はい。ですが無論、楽観視は出来ません。このままお目覚めになる保証などは何もないのですから。それに、気温が下がり、自然の摂理で冬眠する動物と今回のことは全く違う」

 だが。

 陸遜は思った。

 動物界においてあり得る状況だというのなら、人間にもそれに近いことは出来るということだ。

<六道>の秘伝を会得した時、陸遜はそうであると学んだ。


「……孫策様。手立てとはっきり言うことは出来ませんが、私に一つ、考えがあります」


 孫策が顔を上げる。

 玉蘭も縋るような顔で陸遜を見た。

「ですが、その為には、周瑜様をここからお移しになっていただかなければなりません」

「移す?」

「周瑜様を、どちらに連れて行かれるのですか……?」

 恐る恐る侍女が聞いた。

瑯邪ろうやと呼ばれる辺り……ここより北の、平昌へいしょうの側に、泰山たいさんという山があります」

 玉蘭は驚いたようだった。

「そんな遠くに?」

「……そこに何がある?」

「孫策様は、私達陸家傍系の者達が特別な薬術を使うことをご存じですね」

「ああ。陸家の秘伝のやつだろ。熱冷ましとか、毒消しとか、睡眠薬とか」

「はい。その秘伝の薬術を陸家に授けて下さる方が、その地にいらっしゃるのです」

「お前の、薬術の師匠みたいなもんか?」

「はい。師匠せんせいとお呼びしております」

「そうか。そういう人がお前にもいるのか」

「では、その方に出向いていただければ……こちらから遣いをやって、」


「申し訳ありませんが、それは叶いません。

 師匠は大変ご高齢ですし、足がお悪い方なのです。

 それに、大勢で押し掛けられるようなことをとても嫌われます。

 それでご自分は人里離れた場所で数少ない弟子と共に暮らしておられるのです。

 無礼に思われるかもしれませんが、あの方はどなたの命令もお聞きになりません。

 六道の秘術を教えられているのは我々陸家の人間だけですが、師匠は祈祷や呪術の使い手でもあり、私ですら把握できないほどの弟子筋が各地に散らばっています。

 あの方に何かあれば、必ず面倒なことが起きる」


黄巾党こうきんとうの残党ではないのか?」


 それは三十年ほど前に漢全土で一斉蜂起した一団である。

 最初は張角という指導者を教祖とした<太平道たいへいどう>という信仰集団の部分蜂起とされていたが、この動きに賛同した民衆などが各地で反乱を起こし、一つの大きなうねりとなったこの<黄巾の乱>はおよそ十年という長い年月をかけて結託、表層化し、ついには洛陽の政すら揺るがすような動きへと変わって行ったのだ。

 董卓も、黄巾の乱の辺境討伐をきっかけに戦功を挙げて、当時黄巾の乱の残党が潜むと噂されていた長安に総攻撃を仕掛け、混乱の最中に長安の太守を殺してその後釜に就くことになったのである。

<長安の変>と呼ばれるこの事件をきっかけに、董卓は徐々に政を牛耳ることになっていった。

 だが結局、張角は途上で病死し、指導者を失ったことで黄巾党は自然瓦解して行き、諸将によって各地で小規模な反乱も随時鎮圧されることになる。

 孫策は幼い頃、父親の軍に従事したが、孫堅がその頃相手にしていたのも、そういった黄巾党の残党だったのだ。


「いえ。師匠は黄巾党とは全く関わりの無い方です。

 あの方が他人に教義を説いたことは一度もありません。

 ただ類い稀な神眼を持ち、生まれながらに不思議な霊性をお持ちだったようです。

 黄巾の乱の際は、その混乱の犠牲になった負傷者などを治癒したり、そういったことはなさったそうですが、師匠は争いをとても嫌う方なのです」


「そうか……。お前は、その師匠なら周瑜を治せるか、治す手立てが分かるかもしれないと思ってるんだな」

「はい。私の知る限り、師匠せんせいが治療法も分からず、手立てがないと言われたことは、ただ一度もありません。

 ただ……、今回は非常に奇妙な症状ですので、実際に妃殿下をお連れになるべきだと思います」

「陸遜様がどんなに頼んでも、こちらにはお越しにならないのでしょうか?」

 玉蘭は、こんな状態の周瑜を連れて行くのは危険だと思った。

「……申し訳ありません。それは決して叶わないでしょう」

「……。」

 孫策は周瑜の顔を見下ろした。


 十日。


 周瑜は眠り続けている。

 いつも手の平から伝わって来る温もりが無い。

 こんなことが、これ以上続いていいはずがない。

「……分かった。周瑜を連れて行く。」

「孫策様……!」

 玉蘭は驚いた。

「その代わり、俺が連れて行く。

 陸遜、お前は案内をしてくれ」

「かしこまりました」

「どうやってそこに行く?」

「まずは下邳かひへ。そこから淮水わいすいを遡上し、という城市まちへ行きます。そこからは馬で泰山へ」


「下邳には呂布の手勢がいるのではないのですか!? 危険すぎます!」


 玉蘭が震え上がる。

 

 確かに一年前から、下邳には呂布軍が守りの為に駐留していた。

 だが、別にそれは下邳だけではない。

 董卓軍において今や<大将軍>の位にいる呂布には多くの手勢が任されているので、各地に呂布軍は展開しているのだ。

「下邳に、呂奉先が入ったという報せは今までに一度も聞いておりません。

 最新の情報では、呂布は今、涼州方面を攻撃中です。

 その動きには細心の注意を払っておりますので……」

「うん。俺も華陽でその話を聞いた。間違いないから心配するな、玉蘭」

「……、では、私も行きます! 周瑜様がこんな時に、一人で待っているなんて出来ませんもの」

「お気持ちは分かりますが玉蘭どの、今回は、控えて下さい。

 かなりの強行軍になります。呉の国外に出ますし、何よりも周瑜様の御身を考えれば一刻も早く師匠の許にお連れしなければなりません。

 女の脚では、泰山も険しすぎる。

 貴女に何かあれば、周瑜様も目が覚めた時、悲しまれるでしょう」

 陸遜がそう言うと、孫策も頷いた。


「陸遜の言う通りだ。

 今回ばかりはお前も城に残れ」


「時間があれば、大型船で東に迂回し、城陽方面を北上することも出来ます。

 その時は、船に玉蘭殿をお連れすることも出来ますが、今回は急ぎますゆえに」

 二人に言われると、玉蘭は悔しそうな顔をして、涙を零した。

「……悔しいです。私は……。こんな時に、周瑜様の為に何にも出来ないなんて……」

 孫策が立ち上がり、玉蘭の背を撫でてやった。

「気持ちは分かるが、今回は駄目だ。お前はここで待っていろ。いいな?」

「……。」

 唇をしばらく噛み締めていたが、玉蘭はやがて、頷いた。

「では、皆に説明を……」

「いや。どうせ俺が国外へ出て行くのも、周瑜を連れて行くのも反対されるだけだ。

 張絋と虞翻、それに黄蓋達にだけ話して行こう。

 今は一刻を争う」

「護衛はいかがなさいますか」

「いらねえ。俺とお前がいれば、十分だろ。

 それにお前の手勢も動かせる」

 陸遜は孫策を見た。

 彼はにっ、と笑う。

「だろ?」

「…………はい。」

「よっし。んじゃ早速出発するぞ。陸遜、船と馬車の準備を……」


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