第3話





 周瑜は盧江に二日、滞在をした。

 二日目の朝、挨拶を済ませ、建業の城への帰路につく。

 急ぎではないので、船で戻った。

 風は穏やかだ。

 冬の冷たい風ではあったが、水を荒らすようなものではない。

 甲板で長江の周辺の気配を探っても、静かだったため、夜半過ぎ、陸遜は数時間仮眠を取る、と配下に告げ、自分の船室に戻った。



◇ ◇ ◇



 ……ぱちぱち……、



 そんな音で目が覚めた。

 何か物が燃えて、細かく爆ぜる音だ。

 真っ暗な寝台にぽつりと寝ていた陸遜は身を起こした。

 寝台の周辺は薄暗かったが、ふと見た外の空が赤い。



『……とうさま?』



 幼い脚を冷たい床に下ろして、膝辺りまである長い栗色の髪を揺らしながら少女は歩き出す。

『とうさま。赤い空よ』

 呼んで、隣の部屋にいる父親の許に行こうと、扉を開けた瞬間、熱気が吹き出し、全身を煽った。

 誰かが陸遜の身体を抱え上げた。

 父様がまだあそこにいる! と悲鳴を上げる。

 あとで落ち合うことになっていますから。

 誰かが言ったが首を振った。

 嘘だ。

 父は来ない。

 私が迎えに行かないと、父は永遠に戻って来れなくなる。


 貴方が戻れなくなりますよ!!


 女の悲鳴が聞こえた。

 構わない。

 どうせ生き延びたって、独りきりになるのは分かってる。

 それなら今ここで、誇り高い父と死んだ方がずっといい。



 私は父様といるんだ!



 陸遜はいつの間にか、四肢を鎖で繋がれていた。

 動けない。

 いつしか周囲から人の気配も消えた。


 燃え盛る都。

 嗤う、悪鬼の行軍。


 炎の中に黒い影が列となって歩いて行く。




「――――!!」




 陸遜は飛び起きた。

「はぁ、はぁ……」

 鼓動が早く、全身に嫌な汗を掻いていた。

 両手で顔を覆う。

「……今になって、何故あんな夢を」

 自分の手の平を見る。

 大切なものを失った夢。


 ……ふと、陸遜は顔を上げた。


 寝台から下り、上着を羽織ると、寝台に潜らせていた剣を腰に吊るす。

 彼はすぐに、船室を飛び出し、回廊の奥にある、周瑜の船室へと向かった。

 側に、宿直兵がしっかりと二人立っていた。

 陸遜の姿を見ると敬礼する。


「誰か、ここに来たか?」


「いえ。周瑜殿がお部屋に入られてからは、誰も通っておりません」

 きちんと答えられ、そうか……と陸遜は頷いた。

「陸遜殿? ……あの、なにか?」

「何か物音を聞いたか?」

 二人が顔を見合わせる。

「いえ……なにも……」

「どうかなさったのですか」

 自分が過敏になり過ぎているのだろうか。

 陸遜は一瞬迷ったが、何も無ければそれでいいのだと、心を決める。

「すまない、責任は私が持つ。王妃様にお話があるのを思い出した。扉を開けてくれ」

「お休みになっておられますが」

「分かっている。私からきちんとお詫びしよう」

 兵は怪訝な顔を浮かべたが、しかし陸遜が戯れに王妃の寝所を暴くような人物ではないと分かっていることと、彼の戦場での働きぶり、特に普通の兵が出来ぬ働きをすることを知っていた二人は、かしこまりました、と扉を開いてくれた。

「眠りが深いようなら、無理には起こさぬから。……悪いな。扉は開けておいてくれていい」

 陸遜は静かに、船室に入って行く。

 船室は二層になっていて、奥に寝室があった。



「……周瑜様」



 寝室の入り口にまず控え、陸遜はそっと呼んだ。

 屏風の影に、蝋燭の火が見えた。

「申し訳ありません。失礼いたします……」

 そっと踏み込んだ。

 淡い光の中で、周瑜は深く瞼を閉じて眠っていた。

 穏やかな表情だ。

 微笑んでいるわけではないのに、微笑みかけられたような柔らかな空気が伝わって来る。

 この人と一緒にいて、あの激しい気性の孫策がいつも心癒されているだろうことがよく分かった。

 美しい王妃の寝姿に、陸遜でさえ一瞬息を飲んだのだ。

 長い夜色の髪の中ほどを緩く一つに紐で結って、柔らかな枕に埋もれた姿で、毛布を体に掛けているが、手元に書物があった。

 眠くなるまで、と読んでいたのだろうか。

 それにしても、周瑜が読み途中で眠るなど珍しい。

 不自然に指が掛かったままの周瑜の手から、書物を抜こうとした瞬間、陸遜は驚いた。

 触れた周瑜の手が、氷のように冷たかったのだ。


「周瑜様?」


 すぐに、彼女の頬に触れる。

 同じように、冷たかった。

 まるで凍っているかのようだ。

 だがおかしい。頬に赤みはあるのだ。

 本当に今しがた眠りについたばかりのような表情なのに、熱だけが無い。

「周瑜さま」

 今度は余程はっきりと助け起こした。

 上半身を抱え起こそうとした時、かくり、と周瑜の首が仰向けに仰け反り、はっきりとその身体に異変があることに気づいた。


「周瑜様!!」


 陸遜が叫ぶ。

 兵が慌てて飛んで来た。


「医者を呼べ!! 王妃様が!!」


「ど、どうなさったのですか!」

「意識を失っておられる! 早く医者を!! 一刻を争うかもしれん!!」

 陸遜がそこまで声を荒げると、普段静かな彼を知っているだけに、兵はすぐさま事態を把握して、飛び出して行った。

「周瑜様……」

 陸遜は何の意味もないと思いながらも、周瑜に自分の上着を着せ、毛布で包み、その身体を両腕で強く抱き寄せた。

 自分の熱を全て奪われてもいい、周瑜の熱が戻るならば、と、祈るように身体を抱きしめる。

 すぐに、医者がやって来た。


 周瑜を診たが、妙な症状だ、と彼は言った。

 病なら、汗を掻く。

 だが周瑜は全く汗を掻いていなかった。 

 呼びかけに何の返事もない。

 だが脈も正常で、呼吸も静かなのだ。

 それなのに全身のどこを触っても氷のように冷たい。


 周瑜の身体はすぐに、建業の城に運び込まれた。

 途上で、快方に向かってくれればと思ったが、駄目だった。

 だが、それすらおかしいのだ。

 事態が悪化すれば、何かそこから、何の病か探れるが、周瑜の症状は快方はしなかったが、悪化もまたしなかったのである。


 彼女は眠りについたままになった。


「毒は」


 尋ねたが、宮廷医師も、軍医もこんな毒の症状は見たことがない、と言った。


 陸遜は押し黙る。

 毒は一般的には、物事を悪化させるものである。

 だが陸遜は毒の中には、物事を停止させる毒があることを知っていた。

 それは、彼自身が服毒したことがあるからである。

 暗殺業を担って来た、陸家傍系の秘伝の中に、幾つかその類いがあった。

 身体の成長を止めるもの、声を出なくするもの。


 そして、……女の機能を止めるもの。


 周瑜の症状はどれにも当てはまらないが、奇妙な症状というそれは、似ている。


 孫権は激しく動揺していた。

 それは、側にいた陸遜にお前は何をしていたんだ、などと掴みかかることさえ忘れるような、強い動揺だった。

 とにかく診てくれ、と宮廷医師達にも見せたが、結果は同じだった。


『こんな症状は見たことが無い』


 改善もしないが、悪化もしない。

 ただ周瑜は眠り続けているだけだった。

 だが、陸遜はこの冷たい眠りが、何か大きな悲劇の前触れのような予感がしたのだ。


 大切なものを失う、その前触れのような。


 そう思った時には、身を翻していた。

 城から出ると、丁度向こうから淩統がやって来た。馬に乗っている。どこかから戻って来たらしい。

「あれ。戻って来てたんだ。盧江に帰ってたって聞いてたけど。

 伯言さん、向こうにいっぱい人がいたけど、なんかあったの?」

 陸遜は淩統の側を通り過ぎる。


「もしもーし。無視ですかぁ」


 数歩歩き出し、陸遜は振り返る。

「う。なによ……。」

 詰め寄って来た陸遜に、淩統は気圧される。

「淩統殿、申し訳ありませんが、その馬を貸していただいてよろしいですか」

「え?」

 きょとんとした淩統を、半ば強引に馬から下ろして、陸遜は馬に跨った。

「あのー……俺まだいいって言ってない……ねえ、あんたどこ行くの」

「ハッ!!」

 突然陸遜が馬の腹を蹴り、駆け出す。


「え!! ちょっ!! なになになに!? なによ!」


 後ろで何か淩統が騒いでいたが、陸遜は無視した。

 彼の琥珀の瞳は、真っ直ぐに前だけを向いていた。


 ――――あれは医者ではどうにもならん!


 彼だけに働く直感があった。


 牛渚ぎゅうしょの港まで一気に駆けると、陸遜は馬を乗り捨て、配下と合流し、一気に長江を小型船で遡上した。


 風は早い。


 漕ぎ続け、江夏の城には二日後に到着した。

 陸遜はそこで一度配下と別れ、単独で陸路を走った。

 彼らは諜報活動、暗殺、奇襲、そういった仕事をこなすために、特別な身のこなしを幼い頃から身体に叩き込まれている。

 風のように駆るのだ。


 限界まで馬で走り、そこからは陸遜は自分の脚で駆けた。

 休みなど取らず駆け抜けて、華陽の城に辿り着いたのは建業を発って四日目の夜。




◇ ◇ ◇





「陸遜?」


 出迎えた孫策は明るい表情を見せたが、すぐに陸遜が彼の顔を見上げると、表情は一変した。

「何かあったんだな。どうした」

 陸遜は縋るように初めて、自分から孫策の腕を掴んでいた。


「周瑜様が……」


 孫策だけではなく、その場にいた魯粛、呂蒙、徐盛も、動揺した顔を見せた。







 呉の国の王妃が眠りの病に掛かったらしい……。





 数日の後、そんな噂が、漢の国の街にも流れ始めたのである。








 

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