第2話



 数日後、雪が落ち着いた。

 

 孫策が出発する日が決まり、周瑜は港まで見送りに行くつもりだったが、「風邪を引くからいい」と孫策が笑って、港方面の城門前の広場までの見送りとなった。

 孫策と出発するのは、魯粛、呂蒙、甘寧、徐盛である。

 今回は若い顔が揃った。


「若い男前が選ばれたとオレは見たな」


「どう考えても強行軍で出来る限り早く帰って来れるようにって面々が選ばれてんだろ。馬車馬のように働かせていい奴らだよ」

「おう! 今言ったの誰だよ。そっち方面から聞こえたぞ。陸遜お前か」

 甘寧が睨んだが、端の方に静かに佇んでいた陸遜は「いえ。私ではありません」と生真面目に首を振って答えた。

「いちいちクソ真面目に答えんな。わぁってるよ! 完全にお前の声じゃなかったじゃねーか。

 おう、淩家のタレ目どこ行った」

「いませーん」

「そっちの方から聞こえたぞ! どこだー!! 出て来い!!」

「甘寧出発前にはしゃぐでない!」

 茶々を入れた淩統を探してうろつき始めた甘寧を、見送りに出て来た黄蓋が拳骨で窘める。

「てっ!」

「シャキッとせんか! 王の近衛だぞ」

「俺はいっつもシャキッとしてんだろ……」

「けけ。殴られてやんの」

「お前もだ、公績こうせき!!」

 しゃがんで甘寧の目を逃れ、ほくそ笑んでいた淩統の頭に父親の拳骨が飛ぶ。

「いでっ!」

「それでは、殿。先に出立いたします」

 魯粛と呂蒙が馬に跨り、部隊を連れて出発した。

 残りはすでに、乗船している。


「行って来る」


 孫権に、留守の間のことを確かめていた孫策が周瑜の許に歩み寄って来た。

 抱きしめ、額に口付ける。

「うん。風邪に気を付けるんだぞ」

 周瑜は自分の肩に掛けていた白い薄帯を、孫策の首回りに巻き付けてやった。

「へへっ」

 温かくなった孫策が嬉しそうな顔を浮かべている。

 兄のその表情と、夫婦の様子を、側で孫権が優しい表情で微笑ましそうに見守っていた。

 きゅん、きゅん! と声がして、向こうから烈火れっかが駆けて来た。

 勿論、普段は城の奥に住んでいる子虎が、ここまで一人では来れない。

 侍女に連れて来られたのだが、逃げ出して駆けて来たのである。

 烈火は一目散に駆けて来ると、大人しく陸遜の隣で座っている緋湧の前を駆け抜けて、孫策の脚に飛びつき、雪の上に転がった。


「よう、来たか。ヤンチャ坊主」


 孫策が子虎の頭を大きな手で撫でてやり、抱き上げた。

 烈火はじたばたしていたが、ひっくり返されて抱えられると、途端にぴたっとなり、大きな金の目で孫策の顔を見上げている。

「君と離れるのが寂しいみたいだ。連れて行くか?」

「船の上から河に思いっきり飛び込みそうだから嫌だ」

 孫策は苦笑して、周瑜の胸に子虎を預けた。

「お前は緋湧ひようと留守番だ。

 周瑜を守れ。いいな?」


「行くぞー 小覇王ー!」


 甘寧が呼んでいる。

「行って来る」

 改めて、孫策は言って、周瑜と見つめ合った。

 数秒後。



「行きたくねえ~~~~~~っ」



 周瑜を抱きしめて、駄々を捏ね始めた孫策に、見送りに来た一堂が一斉に前のめりによろけた。

「孫策殿! 長くなります故に……!」

 咳払いして張昭が諫める。

「やっぱり周瑜連れてっていいか?」

「ご自分で今回は一人で行くと仰られたのではないですか」

「ごめん。カッコつけた。やっぱ連れて行きたい……」

 周瑜を抱きしめて、黒髪に顔を埋めた。

「伯符どの、みんな困ってるぞ」

 周瑜は優しく、孫策の背を撫でる。

 促すように笑いかけた。

「君の帰りを待ってるから」

「せめてあと一日一緒にいる……」

「孫策ー! イチャつくのもいい加減にしろ」

 甘寧がやって来て、孫策を引きずって行く。

「あ~! 甘寧てめーっ 夫婦が別れを惜しんでんのに!」

「うるせえな。どうせ昨晩死ぬほどイチャイチャ惜しんだんだろォ いい加減にしろ」

「あーっ 周瑜~~~っ!! すぐ帰って来るからな~~~っ!!」

 王の貫禄も何もない姿で、孫策が甘寧に引きずられて去って行く。

「はぁ……まったく孫策殿は……」

「周瑜殿と引き離すのは相変わらず至難の業ですな……」

「王になってもお変わりになられん」


 しゅーゆーっ!!


 雪の上を引きずられて行く孫策の姿に、周瑜はくすくすと笑って、腕の中の子虎の小さな手を、指先で支えて揺らした。

「さぁ、烈火も行ってらっしゃいを言うんだ」

 きゅんきゅん! と子虎が一生懸命鳴いている。

 行儀よく座っていた緋湧もおもむろに立ち上がって、こちらは天に向かって大きな口を開くと、身を屈めるような体勢になり、雄々しい咆哮を上げた。

 城中に響き渡る虎の咆哮に、負けじと向こうから「周瑜愛してるぞーッ!!!」と木霊が聞こえて来る。


「うちの出発はいつも賑やかですなぁ」


 韓当が笑っている。

「なあに、今回は戦というわけではない。

 周瑜殿もご案じ召されるな。甘寧がいれば水の上では早い。

 すぐに戻られよう」

 黄蓋が声を掛けてくれたので、周瑜は笑って頷いた。


「はい」



◇ ◇ ◇



 数日の後、早速孫策から文が届いた。

 

 彼は以前は父親譲りの筆不精だったのだが、二年半生死不明になってから、自分がいかに周瑜に心配を掛けたか理解したのか、こうして離れる時は、出来る限り文をくれるようになった。

 相変わらず文章にするのが苦手なようだが、周瑜が自分がどこにいるのかと、何か困ったことがないか、その二点だけ書いてくれればいいんだよと言うと、それはきちんと書いて送って来るようになった。

 明日華陽に着くと書いてあった。

 順調なようだ。


『困ったことは特にない。お前を抱きしめたいのに出来ないことくらいだ』


 孫策の読みにくい文字で、確かに書かれたその言葉に、周瑜はそっと指を触れさせ、優しく笑った。



◇ ◇ ◇


 

 十日過ぎた頃、城に陸康がやって来た。

 周尚の見舞いに丹陽の城を訪れたのだという。

「それは、ありがとうございました」

「いえ。もうすっかり快癒なさっていて、安堵しました」

 孫権の部屋の居間で、陸康、周瑜、孫権、耀淡ようたんの四人で話をした。

「良かったですね。今年の病は重くなると聞きましたから」

「はい。陸家の分家の方でも、何人か亡くなっていますから心配したのですが。本当に良かった」

 陸康と周尚は古い友人なのだ。

蘇州そしゅうの本家は。どうでしょうか。皆、元気ですか」

「ええ」

「盧江の皆さんも?」

「はい。お陰様で、穏やかに過ごしております」

 周瑜は明るい表情で頷いた。

 袁術がこの地を支配していた頃は、陸家も多方で袁家との摩擦があり、多くの苦労をしていたという。

「今は、城で新しい兵を招集し、陸績りくせきが鍛えています。

 いずれ、また何かお力になれれば」

「ありがとうございます。陸績殿は……足の具合が良くないと陸遜から聞きましたが……冷たい時期は特にと」

「はい。そうなのですが、けれど自分と数歳しか違わない伯符殿が戴冠されて、そのお姿に大変感銘を受けたようなのです。

 自分も少しでも立派にならなければと、最近はとても精力的に動いております。

 心が生きていると、身体も不思議と、力を貰うものなのかもしれません。

 近頃は足の具合も良いようで」

「そうなのですか。それは良かった……」

「はい。あ、そういえば、孫策殿からお預かりしていた馬が、早生まれで生まれたのですよ。

 父親似で真っ黒い毛の――とても美しい仔馬でした」

「本当ですか」

 周瑜が嬉しそうな顔をする。

「はは……、伯言から王妃様は動物がお好きだと聞いてはいましたが、本当に嬉しそうな顔をなさる」

「あの馬は、伯符殿が呂布と戦った時に乗っていた馬なのです。

 それ以来とても気に入っていて。

 ありがとうございます、季寧きねい殿」

「いえいえ、私は何も……」

「伯符が戻って来たら、見せてあげよう。きっと喜ぶ」

 周瑜が孫権に笑いかけると、彼も明るい表情で頷き、微笑んだ。

「はい」

「よろしければ、ご覧になりますか?」

「良いのですか? あ、でも……」

 今は孫策が不在だから、という顔をした周瑜に、耀淡が微笑む。

「構いませんよ。公瑾殿。今回は有能な文官も武官もたくさん残っていますし、数日くらい私が留守を預かりましょう」

義母上ははうえ

「それに、朝から晩まで権の勉強に付き合わされて、貴方も退屈でしょう?」

 にこっ、と微笑んだ母親に、「母上!」と孫権が真っ赤になって抗議の声を上げる。

「気分転換していらっしゃい。まだ伯符殿が帰るには時間がありますし、周瑜殿も少し寂しくなった頃合いでしょう」

「義母上にはお見通しですね」

 周瑜がくすくすと笑った。

「義姉上、どうぞ数日休養のつもりで、行ってらしてください」

 孫権もそんな風に言ってくれたため、周瑜は頷いた。


「では、そうさせていただきます」




◇ ◇ ◇




「そうですか、それで盧江に陸康殿と」


 盧江の城には陸遜がいた。


 孫策が留守になり、そこで陸遜が周瑜の側に張り付いているのを、孫権が見ると嫌がるので、彼は盧江に来ていたのである。

 どうりで全く姿が見えないと思った。

 勿論陸遜のことなので、いざという時の為に抜かりなく建業の城のことは配下の兵に連絡させ、把握しているのだろうが。

 最近周瑜は孫権の側で政の勉強を見てやっていることが多い。

 だから自分がべったりと張り付いていることもあるまいと考えたのだろう。


「孫権殿も、今、政を学んでおられて、世の複雑さと向き合っておられる。物の見方も少しずつ変わって来ておられると思う。

 今一度、私からもう少しお前と穏やかにするよう、言ってみようか」


 周瑜が廊下を歩きながらそう言うと、陸遜はわざわざ足を止め、周瑜に向かって一礼した。

「お気遣い、ありがとうございます。

 けれど、仲謀ちゅうぼう殿も賢い方ですから、私が信頼出来るとあの方が思って下さった時には、きっとそうして下さると思いますので。

 それが叶わない間は、単なる私の力不足。

 益々のご奉公をすればいいだけのことですから、どうかお気になさらず」

 静かに陸遜は微笑んだ。


 彼は――、いや、……彼女は、女であることを公にしていない。


 知っているのは陸家のごく一部の者以外は、周瑜だけである。

 孫策は何かを感じ取っているようだが、周瑜が追及するようなことは何もないと言うと、頷いてくれた。

 孫策は並外れて勘がいいので、周瑜を通じて、周瑜と陸遜に何かある、と怪訝がったようだが、他の人間には一切陸遜は気取られていない。

 孫策が怪しんでいると打ち明けた時、「気取られたのは初めて」と陸遜も笑っていた。

 例え男であっても、陸遜は誠実な男だったが、女だと思えば、本当に芯の強い、真っ直ぐな心を持った女性だった。

 多くの苦悩を背負っているのに、その為に歩みを止めようとは決してしない。

 立派だと思うからこそ、時々周瑜は声を掛けてしまうのだ。


「すまん。何度もしつこくて」


 陸遜は誇り高く、志を持って今の自分の役割を演じている。

 そう思ったから、周瑜は詫びた。

 しかし陸遜は首を振る。

「とんでもありません。……嬉しく思います」

 再びゆっくり歩き出した陸遜の背を、周瑜は見上げる。


「はくげーん!」


 向こうの方から声がした。

「伯言! 周正妃様、ようこそおいでくださいました!」

 陸績である。

 陸績は、陸家では陸遜にとってただ一人の味方だ。

 この二人も、本当の姉弟ではないのに、とても仲がいい。

 陸績は陸遜を迎えに来たところで、側に周瑜の姿を見つけ、慌てて腰を控えさせた。

「陸績どの。そんなにかしこまらずともいい。

 以前のように周瑜で構わないよ」

「はい……、あの……、でも……」

 陸績が陸遜を恐る恐る見た。

 自分の言動で、陸遜に迷惑を掛けてはいけないと思ったのだろう。

 陸遜は小さく笑んで頷いた。


「そうさせていただくといい」


 陸績はぱぁっ、と表情を輝かせた。

「はい、周瑜どの」

「元気そうだな。陸績。戴冠式以来かな」

「はい! 見事な戴冠式でした。孫策殿は、本当に太陽のように明るくて、雄々しくて……そして、周瑜殿も大変お美しく、私はまだあの時のお姿が瞼に焼き付いています」

「ありがとう。……はは、陸績はいつも元気でいいな」

 陸遜に笑いかけると、彼も、戴冠式を思い出してか興奮気味の従弟の肩を軽く撫でながら、微かに笑んでいた。

「今日は、馬を見に来られたとか」

「そうなんだ。陸康殿に生まれたと聞いて。元気かな」

「はい。早生まれなので少し心配しましたが、よく母馬の乳を飲み、身体がすぐ大きくなりました。今では他の、早生まれの仔馬の中では大きな方です」

「そうか、よかった……。父親が逞しい馬体をしていたから、きっと父親似なんだな」

「父親似の女の子です」

 陸績が微笑む。

「女の子か。それはいい。また血が繋がっていく」

「はい。早速ご覧になりますか?」

「大丈夫かな」

「はい。準備はしてありますので。<黒朧こくろう>の隣の馬房にいます」

公紀こうき、案内して差し上げろ。

 私は茶の用意を」

「はい、伯言」

「ありがとう陸遜」

「どうぞ、こちらです。周瑜殿」

 庭先で二人と別れ、陸遜は歩き出した。

 今日は街から商人が来ているらしく、城の表は人がせわしなく歩き回っていた。

 荷を倉庫に運び込む商人たちを見守る人間達の中に、陸康の姿があった。

「陸康殿」

「おお、伯言。周瑜殿は御着きか」

「はい。今しがた公紀と厩の方へ。客間をお借りします」

「丁度街から品が入った。茶と菓子もあったから、そちらに運ばせよう」

「随分と豪勢ですね」

「北から商人が流れて来ているのだ。盧江の街も随分賑わっている」

「そうですか。商人は、戦時は危険な場所に行きますが、平時は信頼出来る主の許へ集うもの。

 孫策殿の統治に豪族たちが信頼を覚え始めたと、そう見ているのでしょう」

「うん。そうだな」

 言いながらも、盧江の街が賑わっている、という話を陸遜は気に留めておいた。

 人が活発になれば、商人もそうだが、悪しき者もまた活発に出入りを始める。

 近いうちに、一度自分の脚で盧江の街を見ておこう、と思ったのだ。


「伯言?」


「いえ。安堵しました。では、私はこれで」

「うん。夕食の席でまた会おう」

「はい」

 一礼し、陸遜は歩き出す。

 その時だった。

 視界の端に、一瞬何かが光った気がした。

 立ち止まってそちらの方を見ると、別に何も光っていない。

 わいわいと賑やかに動き回る商人たちと、それを迎える城の人間達、侍女達。

 明るい活気ある表情で動き回っている。

 気のせいかと思った所に、もう一度光が射た。

 今度は分かった。

 積み上げられている女物の布、帯、飾り、その一画に幾つか手鏡が置かれていたのだ。

 それが太陽が射し込んだ拍子に輝いていたらしかった。

 気を緩め、歩き出そうとした時、陸遜はどん、と誰かに当たった。

 侍女だった。

「申し訳ない、不注意をしてしまった。大丈夫ですか?」

 陸遜は倒れた侍女を助け起こそうとしたが、それよりも早く、側にいた侍女が、彼女をサッ、と引き上げてしまう。

「申し訳ございません、陸遜様」

「ほら、ボーっとしないの!」

 引きずられるように去って行く。

 侍女達が去ると、辺りはまた普段通り、騒がしさが戻った。




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