第17話 出現

――ザブ……ザブ……


 坑道の深部、広い空間にある湖は突然波打ちはじめ、断続的に湛えられた水が地面に溢れ出していた。


「え、なに……?湖が……?」


 溢れ出し流れた水は、やがてターシャの足下まで達し、大きくなる波音はラナと彼女を連れ去ろうとする男たちの耳に届き始めた。


「何だこの音は?」


 一行が立ち止まり振り返ると、徐々に足下に水が迫っていることに気付く。


「班長!まずいですよ!」


 三人の男が慌てて駆け出そうとする間に、坑道の奥深くにある湖の水面は焼かれたクッキーの生地のように膨れ上がり、やがて大量の水を撒き散らしながら“それ”は現れた。


 「なにあれ……!?」


 ターシャは、ずぶ濡れになりながらランタンの薄明かりで水面から現れた“それ”を照らし出した。


 空間の天井近くにまで高さのある“それ”は、概ねトカゲのような頭部を持っていたが、口元からは牙がはみ出し、指先からは鋭い爪が伸びランタンの灯りを反射させている。胴体は分厚そうなワニ皮のような皮膚に覆われ、背中からは一対のコウモリのような翼が生えていた。


 水中から突如現れた“それ”は、ターシャが読んだいくつか物語の中で登場する“ドラゴン”のイメージと殆ど一致する生物といえた。


「うそ……本当に出てきた……」


 ターシャは震える手に持ったランタンで、ドラゴンを照らし出した。そのとき、先ほどまで蹲っていたイゴールが少し回復できたのか、ふらふらと立ち上がり、ターシャに問いかける。


「ターシャ……おまえ何やった……?」

「イゴール……あのね、物語の中で主人公がピンチのときにドラゴンがたすけてくれる場面があって、それでラナを連れ戻したいからドラゴンが出てきてたすけてくれたらいいなって思って……ナフトライトに……」

「『ドラゴンさんたすけてください』とでも願ったのか……?」

「うん……」

「……」


 為すすべもなく蹴り倒され動けなかった自身の不甲斐なさは感じていたが、連れ去られるラナを助けるためにどうすべきか、何ができるかを考えたターシャの答えはさることながら、結果的に予想だにしない生物を呼び寄せてしまった、存在し得ないと考えていた生物が目の前に出現したという数多の情報を処理しきれず、イゴールはまだ痛む腹部を押さえながらがっくりと項垂れた。


 ドラゴンはその高い頭部に光る双眸をギラつかせ、辺りを見渡していた。半開きの口からは唾液が滴り、荒々しく息を吐いている。その姿は物語の中に登場するドラゴンの気高さや力強さというものを感じさせず、単に獲物に飢えたた猛獣と形容するのが相応しいものだった。


「に、逃げるぞ!」


 ラナを連れ出そうとしていた男たちは、想像もしなかった恐ろしい生物の出現から逃げ出し、どうにかラナをサルグラードへ連れ帰るべく駆け出した。


「きゃ……!」


 ラナは男の一人に不意に腕を掴まれ引っ張られた。急激に力を加えられたラナは、体勢を保つことができず転倒し、身体を岩盤の地面に打ち付けた。


「痛……」

「クソッ、小娘が早く立て!」

「標的は置いていけ!命あってなんぼだ!」

「しかし手ぶらで帰ったら我々は――


 男の一人が鋭い視線を感じ、視線の方向に目を向ける。男の視線は、空間の天井近くから注がれていたドラゴンの視線にぴったりと合致した。ぞわりとしたうすら寒い感覚が男の尾てい骨からこみ上げ、息苦しさが胸元を走り抜ける。



 トカゲのような巨大な顔が視界いっぱいに広が――



 地面に座り込んでいたラナと残された二人の男の目の前で、一人の男の上半身がドラゴンに噛みつかれた。口からはみ出た二本の脚は、抵抗するようにバタバタと動いていたが、やがてドラゴンの鋭い歯にちぎられ、下半身が断面を露わにしながら地面に崩れ落ち、嚙み切られた瞬間に飛び散った中身が辺りに飛び散る。


「ヒッ……!い、嫌あっっ!!」

「クソっ!何でこんなことに!!」

 

 放置された生ごみに、いくらか金属を含ませたようなにおいを放ち、液体や半固体が湯気を上げながら散乱する光景に、ラナは半狂乱になり頭を抱え込んだ。残された二人の男は、つい先ほどまで生存してた仲間だった物体や、本来の目的だったラナには目をくれず坑道の出口へ駆け出した。


 坑道の出口近くで繰り広げられている惨劇は、距離と薄暗さがターシャとイゴールの視界に焼き付くことを妨げていた。しかしながら、坑道という特殊な空間ではラナと男たちの声がよく反響し、薄暗い視界の先で起きている自体は容易く想像がついた。


「タ、ターシャ……」

「……」

「おまえ、あんなのが助けてもらおうと思って呼び出したのか?」

「ちがうよ……わたしあんなのに助けてもらおうなんて思ってない……」


 ターシャが今まで読んできた物語の中で登場し、読み手に感動や興奮を与えられるような、荘厳さや壮大さを兼ね備え主人公の窮地を救ってきたドラゴンとは相反する、獰猛な猛獣と化しているドラゴンが目の前に存在していた。ターシャがドラゴンに現れてほしいと思ったのは事実だった。しかし、現れたドラゴンが目の前で繰り広げる光景は、ターシャが願った救いの手とは乖離していた。


「こんなところで死んでたまるか!」


 男の一人が駆け出すと、もう一人の男も続いで出口へ向けて駆け出す。先ほど口に含んだ男を丁度咀嚼し終えたドラゴンは、急速に駆け出した二つの獲物を目ざとく見つけ、その太い脚部の筋肉を躍動させ獲物を捕らえようと駆け出した。


「早く走れ、早く!」

「んなこたぁ言われなくたってわかってんだよ!」


 生き残った二人の男は、辛うじて広い空間から狭い坑道へ走り出ることができた。そのとき、駆け出したドラゴンは勢い余ったのか坑道上部の壁面に衝撃する。ドラゴンに衝撃された岩盤の壁面は、まるで砂糖の塊が壊れるように容易く崩れ落ち、雷鳴のような音を立てながら出口へつながる坑道を塞いだ。空気に乗った砂塵と小石が狭い坑道を吹き抜け、逃げ出した男たちを襲う。


「ゲホッ……なんということだ……」

「あれじゃあどっちにしろ標的は……ごほっ……」

「ああ、どっちにしろ無理だ。諦めてサルグラードに帰るしかない」

「そうはいっても、俺らもこれはタダじゃ済まないですよ……」

「サルグラードに帰るまでに考えるさ……代わりにできる娘なんて、星の数ほどいる」

「この際、国外にでも出ますか……」


 恐るべき生物の襲撃から生還した二人の男はライトの灯りを頼りに、砂埃だらけの坑道をとぼとぼと出口へ向かい歩き始めた。


 

 坑道の奥の広い空間の中には、ターシャとイゴールとラナの三人、そしてターシャが呼び寄せてしまった、獰猛なドラゴン一匹だけが取り残されていた。


「噓でしょ……」


 目の前にあった出口への坑道が塞がれ、ラナは目を見開き愕然とした。壁面に衝撃したドラゴンは岩盤を砕くほどの強靭な肉体を持っているにも関わらず、その衝撃を堪えきれなかったのか咆哮を上げてのたうち回りはじめた。巨大な体躯が広い空間――このドラゴンにとっては狭い空間で転げまわり、長く伸びた尻尾を振りかざし地面が壁面に打ち付ける。


「ラナ!こっちだよ!!」

「早くそいつから離れろ!!」


 坑道の湖の傍にいたターシャとイゴールが、大声でラナを呼ぶ。はっとしたラナがランタンの薄明りの中で手を振る二人の元へ駆け出すと、つい今まで彼女が佇んでいた場所に、のたうち回る巨大なドラゴンの尻尾が振り下ろされ、砕けた岩盤が飛び散った。


「ターシャ!ターシャごめん……ごめんなざい……」

「どうしてあやまるの?助けたんだからありがとうって――

「私さっきターシャに酷いこと言った……でもターシャは助けてくれた……」

「だってわたしラナのことお友達だって思って……」


 ターシャの小さな身体で抱き留められたラナは、半泣きになりながらターシャに謝罪した。ターシャはなぜ自分がラナに謝罪されているのかいまいち理解できなかったようだが、イゴールはその意図を汲み取っていた。


「本心じゃなかったんだろ?」

「当り前よ」

 

 先刻、ラナがターシャに投げつけた辛辣な言葉の数々が、あえて自身からターシャを引き離すためにけしかけたものと推測していたイゴールは、その推測が間違いでなかったことに安堵した。そして、自身の気持ちを傷つけてでも、複雑な事情から幼馴染を切り離そうとした不器用なラナに感謝した。イゴールの温かい手が、そっとラナの頭に触れる。


「……っ!」


 ラナはターシャに抱きついたまま、口元をきゅっと結んで赤面した。


「えっ、なになに二人とも、わかんないよ……」


 そんなやり取りに至った経緯をターシャは未だに理解できていなかったが、それは今となってはこの場では重要な問題にはならなかった。ラナは一度涙をぬぐい、ターシャから離れる。そして、徐々に落ち着きを取り戻してきたのか、双眸をぎらつかせ再び獲物を探し始めたドラゴンを見据えた。


「……あれターシャが呼んだの?まさかナフトライトで?」

「うん……でも本当に来るなんて思わなかったし、それにあんな乱暴な生き物だなんて……」

「それは驚きね……」

「ごめんなさい。でもわたし本当にラナを助けたくて……お別れしたくなかったから……」

「ターシャが謝ったらだめよ、友達でしょ。それに今はそれを議論してる場合じゃないわよ」

「あ……」


 ラナの視線の先には、瓦礫で埋まった坑道の出口と、湖の傍に佇む、三人のちっぽけな少年少女を丁度見据えたドラゴンの姿があった。ドラゴンが上げた咆哮が広い地下空間に反響し、その禍々しい音を増幅させる。


 地面を揺らし、ドラゴンはこちらへと駆け出した。

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