第5話 坑道
ランタンの明かりを頼りに、暗闇に包まれた坑道をターシャとイゴールが歩く。ゴツゴツとした素掘りの壁面が照らされ、二人の影が細長く伸びる。振り返れば、坑道の入り口の光は小さな点としか認識できない程の深さまで進んでいた。二人の会話と足音が坑道内に反響する。
「深い坑道だね、入口がほとんど見えないや」
「本当だ。やっぱり、あんまり深くまで進み過ぎるのはやっぱりマズいんじゃないか?」
「やっぱりイゴール怖いんだ」
「そういうんじゃなくてさ、本当に万が一ってことが起きたら誰も助けになんか来ないぞこんな所。それにさっきからなんか引っ掛かるんだよな……」
「だからある程度進んで、もし危険を感じたらすぐに引き返すって話したでしょ。それにまだ――
一瞬、ランタンの火がゆらりと揺れた。火が揺れた短い時間、周囲が少し暗くなった気がしたが、何事もなかったように坑道と二人を照らし続けていた。足を止め、ここまで歩いてきたはずの方向を振り返ると、すでに小さな点すら見えず、これから進もうとしている方向と変わらない漆黒の闇が続いていた。坑道内の薄ら寒い空気が二人を包み込んでいた。
ここまで自信に満ちていたターシャだったが、自身の冒険が想像以上に本格化してしまったことに気づいたのか、やや強張った表情を浮かべながらイゴールの顔を見やった。
「イゴール……」
「冒険団長、どうしますか」
イゴールは少し緊張気味に、ターシャに尋ねる。いくらかは現実的な選択肢を選んでくれると期待したが、返答は彼の期待をあっけなく裏切り、がっくりとうなだれた。
「あ、あと5分。あと5分だけ進んでみよ?」
「いや……ここまで来ていていうのもなんだけどさ、こんな場所に長居するのもどうかと……ヘルメットもないしやっぱり危ないと思うぞ」
ターシャは背嚢から、愛用の目覚まし時計を取り出してイゴールに示す。現実的な決断を下さないターシャを坑道に放置することも脳裏をよぎったが、幼馴染を危険な場所に放置することなどできるはずもなく、二言目を口にする前にターシャが言葉を続けた。
「お願い、あと5分だけ進んでみたいの!5分だけ進んだら絶対戻るから!」
「何でそんなに行きたいんだよ?」
「わかんないけど……」
「あのさあ」
「3分!3分歩いたら帰るから!」
執拗にごねるターシャに困るイゴールは、端から見ると仲の良い兄妹のようだったが、そんな二人のやり取りを見守る者は坑道内には誰もいない。イゴールは、何故そこまでして前進したがるのかイゴールは不思議に思った。初めての冒険でこのような危険極まりない場所に出向くことに同意した軽率な自分を呪いたかったが、ターシャが不思議と隧道を進みたがることに好奇心を覚えたのも事実だった。
「じゃあ今から3分な。3分だけ歩いたらおれはターシャからランタンを取り上げて帰る」
「そんなぁ、ひどいよう!」
「ほらほら、早く行かないと3分経っちゃいますよ冒険団長さん」
「あっずるい!前進再開!」
大人の身長程の高さしかなかった坑道は、やがて徐々に高さと幅を拡大し、ランタンの明かりを最大限に調整しても全体を照らしきれない、広い空間に繋がった。坑道内こそ静寂で物音は二人の話し声と足音ばかりだったが、この空間には微かな水音が響いている。
「すっごい……こんな場所初めて見たよ」
「本当だ、学校の体育館くらいあるんじゃないか……」
「あっちから水の音がするよ」
「川でもあるのかな?行ってみよう!」
二人は、広い空間に響く水音の元を探し始めた。かつてこの空間が採掘の中心だったのか、地面には大小の岩が散乱し、錆びついた鶴嘴やスコップが放置されている。
徐々に水音が大きくなると、空間の一部は透き通った水に満たされ、壁面の横穴から絶え間なく地下水が流れ込んでいるのが見えた。それは人工的な坑道というよりも、天然の洞窟のような神秘的な光景だった。
「すごいな、坑道っていうか天然の洞窟みたいだ」
「きれいな水!それにすごく冷たい!」
「本当だ!こんな綺麗な水ならそのまま飲めそうだな」
「でも水だけじゃお腹いっぱいにならないよ?」
「……めしにするか」
目の当たりにした広大な空間は、朝から歩き続けていた二人の胃袋を示しているかのようだった。暗闇の緊張感と、その果てにたどり着いた空間の壮大さから、二人はその空腹という感覚をすっかり忘れていた。
ターシャはランタンを手頃な岩に置き、二人は傍に並んで腰掛けた。イゴールは降ろした背嚢から二人分の豆のスープの缶詰とスプーンを取り出した。薄明かりの中で缶切りで器用に缶を開封し、先にターシャに渡す。
「ごゆっくりお楽しみください」
「ありがと」
二人は、広大な空間の片隅でスープの缶詰だけの昼食を取り始めた。加熱できる道具もなく冷えた缶詰だったが、この冒険の達成感と軽い疲労からもたらされた空腹感が、出来立ての温かいスープとはまた異なる美味さがあった。
「おいしいね」
「うまいな」
「一緒に来てくれてありがとね」
「連れてきてくれてありがとうな」
言葉こそ少なかれど、食事の感想と共にお互いへの率直な感謝の気持ちを述べ合う。暖色の薄明かりに照らされた顔を見つめ合い、さらさらと水が流れ込む音だけが響いた。幼い頃から共にしてきた時間の中でも、かつて経験したことのない異質な雰囲気に耐えられなくなったのか、イゴールが顔を反らして口を開く。
「で、どうするよ。これ以上この坑道を調べるのか?」
「うーん、どうしようかな」
自称冒険団長のターシャは、心中ではこの坑道をさらに探索すれば、何かとんでもない発見に出会えるのでは、と考えていた。しかし、このあと坑道から離脱することが遅れると、暗い山道を通過することによってトラブルが発生し、不用意に帰宅が遅くなることで今後再び冒険に出ることに支障することを懸念した。
そのとき、ふと隣に座るイゴールの顔が見えづらくなったことに気付いた。イゴールもまた同じことに気付いたのか、ターシャに問いかける。
「あれ?そういえば、なんか暗くなってないか?」
「本当。さっきはあんなに明るかったのに……」
「この広いところに来てから明るさを上げたから……まさかオイルが切れかけてるんじゃないか?ターシャ持ってくる時、中身見たのか?」
「……」
無言で俯くターシャだったが、冒険の発案者本人が、このような危機的な状況を招いたことに薄っすらと負の感情が湧き上がる。しかし、冒険に同意したのは事実であり、目的地ははっきりしていたにも関わらず灯りの準備をターシャに任せた、自分自身への苛立ちへと変わっていった。この状況を打開しようと、イゴールは直ちに取るべき行動を考え、ターシャに提案する。
「とりあえず、ランタンが消える前に外に出よう」
「う、うん」
ターシャは自らの準備不足が招いた状況に動揺したのか、イゴールの提案に俯きながら同意する。
薄明りの中背嚢を背負い、もと来た坑道を目指す。空間が狭まり、狭い坑道へと足を踏み入れるのと同じくして、切れかけていたオイルは途絶え、辛うじて燃えていたランタンの火が消えた。たちまち視界は失われ、二人は完全な暗闇の世界に取り残された。
「や、やだ!イゴールどこ!?」
「ターシャ!?どこいった!?あんまり不用意に動くなよ!」
「イゴール!イゴール……!」
「おれはこっちだ!ほら!」
つい小一時間程前まで、あれだけの本物の冒険家のような自信に溢れていたターシャが、自身の失態が招いた突然の暗闇に半ばパニックに陥り、弱々しくうろたえるだけの少女にたちまち変わり果ててしまった。
前後不覚に陥ったのはイゴールも同じだった。この先の見通しが全く失われた状況に、彼もまた思わず泣き出しそうな気分に陥っていた。しかし、これまで共に過ごしてきた中で聞いたことのない、幼馴染の悲痛な声に我に返り、まず幼馴染の安否を確かめようとする。
二人は声の聞こえる方向を頼りにお互いの位置を捜索する。やがて、暗闇の中で二人の身体がぶつかった。イゴールが右手でターシャの手を取ると、その小さく柔らかい手は、冬の寒さのようにひどく震えていた。楽しい初めての冒険は、あっけなく最悪の状況に転落していた。
「ごめん……わたしがちゃんとランタンの中身見てたら..ひっく……」
「ターシャ、落ち着けよ。必ず出られるから」
「どうするの……」
「ほら、外の方から空気が流れてるだろ、壁伝いにその方向に向かって進めば外に出られるぞ」
「うん……ぐすん……」
暗闇の中で、声だけでひどく泣きじゃくっていることがわかる幼馴染の震える手をとり、イゴールは慎重に壁を探す。やがて、左手がゴツゴツとした感触の素掘りの壁面を捉える。
「壁があった、外に出よう。何があるかわからないからゆっくり、手を離すなよ」
ターシャに言葉をかけても、握った手はただ震えるばかりで泣きじゃくる声は治まっていなかった。
そんなターシャの気の毒な様子にいよいよ耐え難くなったのか、イゴールは何か気の利いた言葉でもかけられないものかと思案する。ふと、そもそも冒険にこの坑道を選んだ理由を思い返し、場違いかもしれないと思いながら、大声で言葉をかける。
「偉大な冒険者、ナターシャ・ユリエヴナは暗闇の中で、ついに“魔法の石”を見つけたのでした!」
イゴールはターシャの手を取ったまましゃがみ込み、反対側の手で地面を弄る。適当な小石を掴むと、ターシャの手に握らせた。
そんなことをしても何ら意味がないことはわかっていたが、ターシャを少しでも元気づけられたらと、この冒険のそもそもの目的に絡めた冗談を飛ばしはじめた。
「...…すん……なにそれ」
「少しは元気になったか?」
ターシャはイゴールの陽気な声に少し落ち着いたのか、一度鼻をすすると彼の冗談に答える。元気になったかというイゴールの問いかけに、言葉では答えぬまま暗闇の中で一度こくりと頷いた。
「さあ、いよいよ魔法の力を試す時が来た!魔法の石に念じて隠された力を解放するのだ!」
ターシャはイゴールが自分を励まそうとしていることを感じ取る。初めての冒険で魔法の石など見つけることはできなかった。自分の準備不足が招いた危機を自分で解決できず、誘った幼馴染の身にも危険を及ぼしてしまった。そんなターシャの後悔と反省の念など知る由もなく、危機的な状況の中で自分を励まそうと冗談を飛ばし続ける少年の姿が、暗闇の中でこれまでになく頼もしく感じていた。
そんなイゴールの姿に心を動かされたターシャは、起きるわけなどないと知りながら、幼馴染の冗談に少しでも答えようと思った。
もし本当に起きるのなら、明かりを灯せ。我々を光の中に導け。
心の中で唱え、握った小石に気持ちを送り込む。そんな魔法ごっこをすると、いくらか緊張と不安が軽くなった気がした。
「うーん!うーん!」
「さあ、魔法の力は我々を闇から解ほ――
「うそ……」
二人は言葉を失った。
ターシャが握りしめていた小石がぼんやりと明るく光りはじめ、指の隙間から光が溢れ出す。やがて、ターシャの手元に小さな炎が現れた。
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